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		<title>「ラディカル」2012年2月13日（月）</title>
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		<pubDate>Wed, 15 Feb 2012 03:06:33 +0000</pubDate>
		<dc:creator>DRUenuma</dc:creator>
				<category><![CDATA[ウィークリー瞑想]]></category>

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		<description><![CDATA[先週末に三鷹のティームセンターに三晩宿泊しました。ホストご夫妻とはいろいろな関わりで長い間の知り合いです。ブレックファストだけ出してくれます。最初の朝、そのご主人が今アメリカで読まれている Radical と言う本を知っているかと聞いてきました。ニューオーリンズのハリケーンの被害を経験し、アジアの迫害のなかの教会のことも経験している牧師が書いたもので、いわゆるアメリカンドリームからの信仰の解放を語っているようです。その意味でラディカルな提言のようです。 その本のことは知らなかったのですが、私も内容が大変ラディカルな本を読んでいますと言って、旧約からの流れのなかで新約を捉え、クリスチャンであることを捉え直そうとしているもので、Simply Christianというタイトルのものだと言いました。それはN.T. ライトのものかと言ってきました。自分も何かを読んだことがあるというのです。タイトルは穏やかですが、内容はまさに旧約と新約を一つの神の計画の流れと捉え、ラディカルのもとの radix が「根っこ、根幹」を意味しているように、聖書の根幹に沿っているもので、大変ラディカルなものですと説明をしました。 二日目の朝には日系四世で日本への宣教の重荷を持っている青年が加わりました。ホストのご主人が再度 Radical の本のことを持ち出してきました。その本のレビューをネットで読みました。Simply Christianの本を、『心の刷新を求めて』のダラス・ウイラードの編集の本のなかで、N.T. ライト自身が紹介しているのを知って、日本に来る前に手に入れて、読み続けています。そのような話のなかで、その日系四世の青年はバイオラ大学、タルボット神学校を卒業していて今教会で奉仕をしているのですが、福音派のなかでのN.T. ライトとダラス・ウイラードの受容の様子を話してくれました。特にバイオラ大学でのダラス・ウイラードの影響は大と言うことです。N.T. ライトも浸透してきていると言うことです。 Simply Christianを奉仕の合間に、旅の途中で読み続けています。神の創造と契約の更新としてのキリストの十字架と復活による贖いと回復と、神の家族へ加えられるクリスチャンのこの地での特権と役割を、ブリティッシュ・イングリッシュで淡々と語っていきます。文章が所々韻を踏んでいるのです。うなずき、うなり、納得し、感嘆しながら読んでいます。旧約からの流れに沿ったものでまさに聖書の根っこにそのままくっついているのです。その意味はまさにラディカルなのです。それでいて新鮮なのです。2千年の西洋の枠に引き寄せられ過ぎて、聖書の根っこから離れてしまった聖書理解をもう一度その根っこに引き戻すものです。何ともラディカルであり、新鮮です。 大阪のある牧師とこんな本が翻訳されたらいいですねと話し合ってきました。これほど英語圏で読まれていながら日本語のものはないのです。 日本人の間でもN.T. ライトを読んでいる人が徐々に増えてきています。 同時にどのような反応が出るのか興味深いものです。 それこそが聖書の言っていることではないかという叫びのようなものが出てきます。 納得する面が多くあります。 アマゾンのレビューで、もうクリスチャンをやめようかと思っていた人が、Simply Christianを読んで、クリスチャンであることの新しい意味合いを再確認して、信仰に戻ったと記しています。そんな意味合いが読んでいてよく分かります。クリスチャンであることの特権と責任をしっかりと受け止めていきたいと思います。聖書の根っこに、神の計画の根幹にしっかりと繋がっていたいと思います。その意味でまさにラディカルでありたいと願います。 上沼昌雄記<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=druenuma.wordpress.com&amp;blog=19023884&amp;post=368&amp;subd=druenuma&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>先週末に三鷹のティームセンターに三晩宿泊しました。ホストご夫妻とはいろいろな関わりで長い間の知り合いです。ブレックファストだけ出してくれます。最初の朝、そのご主人が今アメリカで読まれている Radical と言う本を知っているかと聞いてきました。ニューオーリンズのハリケーンの被害を経験し、アジアの迫害のなかの教会のことも経験している牧師が書いたもので、いわゆるアメリカンドリームからの信仰の解放を語っているようです。その意味でラディカルな提言のようです。</p>
<p>その本のことは知らなかったのですが、私も内容が大変ラディカルな本を読んでいますと言って、旧約からの流れのなかで新約を捉え、クリスチャンであることを捉え直そうとしているもので、Simply Christianというタイトルのものだと言いました。それはN.T. ライトのものかと言ってきました。自分も何かを読んだことがあるというのです。タイトルは穏やかですが、内容はまさに旧約と新約を一つの神の計画の流れと捉え、ラディカルのもとの radix が「根っこ、根幹」を意味しているように、聖書の根幹に沿っているもので、大変ラディカルなものですと説明をしました。</p>
<p>二日目の朝には日系四世で日本への宣教の重荷を持っている青年が加わりました。ホストのご主人が再度 Radical の本のことを持ち出してきました。その本のレビューをネットで読みました。Simply Christianの本を、『心の刷新を求めて』のダラス・ウイラードの編集の本のなかで、N.T. ライト自身が紹介しているのを知って、日本に来る前に手に入れて、読み続けています。そのような話のなかで、その日系四世の青年はバイオラ大学、タルボット神学校を卒業していて今教会で奉仕をしているのですが、福音派のなかでのN.T. ライトとダラス・ウイラードの受容の様子を話してくれました。特にバイオラ大学でのダラス・ウイラードの影響は大と言うことです。N.T. ライトも浸透してきていると言うことです。</p>
<p>Simply Christianを奉仕の合間に、旅の途中で読み続けています。神の創造と契約の更新としてのキリストの十字架と復活による贖いと回復と、神の家族へ加えられるクリスチャンのこの地での特権と役割を、ブリティッシュ・イングリッシュで淡々と語っていきます。文章が所々韻を踏んでいるのです。うなずき、うなり、納得し、感嘆しながら読んでいます。旧約からの流れに沿ったものでまさに聖書の根っこにそのままくっついているのです。その意味はまさにラディカルなのです。それでいて新鮮なのです。2千年の西洋の枠に引き寄せられ過ぎて、聖書の根っこから離れてしまった聖書理解をもう一度その根っこに引き戻すものです。何ともラディカルであり、新鮮です。</p>
<p>大阪のある牧師とこんな本が翻訳されたらいいですねと話し合ってきました。これほど英語圏で読まれていながら日本語のものはないのです。 日本人の間でもN.T. ライトを読んでいる人が徐々に増えてきています。 同時にどのような反応が出るのか興味深いものです。 それこそが聖書の言っていることではないかという叫びのようなものが出てきます。 納得する面が多くあります。</p>
<p>アマゾンのレビューで、もうクリスチャンをやめようかと思っていた人が、Simply Christianを読んで、クリスチャンであることの新しい意味合いを再確認して、信仰に戻ったと記しています。そんな意味合いが読んでいてよく分かります。クリスチャンであることの特権と責任をしっかりと受け止めていきたいと思います。聖書の根っこに、神の計画の根幹にしっかりと繋がっていたいと思います。その意味でまさにラディカルでありたいと願います。</p>
<p>上沼昌雄記</p>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/druenuma.wordpress.com/368/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/druenuma.wordpress.com/368/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/druenuma.wordpress.com/368/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/druenuma.wordpress.com/368/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/druenuma.wordpress.com/368/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/druenuma.wordpress.com/368/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/druenuma.wordpress.com/368/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/druenuma.wordpress.com/368/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/druenuma.wordpress.com/368/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/druenuma.wordpress.com/368/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/druenuma.wordpress.com/368/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/druenuma.wordpress.com/368/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/druenuma.wordpress.com/368/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/druenuma.wordpress.com/368/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=druenuma.wordpress.com&amp;blog=19023884&amp;post=368&amp;subd=druenuma&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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		<item>
		<title>「怒る妻たち」2012年2月8日（水）</title>
		<link>http://druenuma.wordpress.com/2012/02/07/%e3%80%8c%e6%80%92%e3%82%8b%e5%a6%bb%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%80%8d2012%e5%b9%b42%e6%9c%888%e6%97%a5%ef%bc%88%e6%b0%b4%ef%bc%89/</link>
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		<pubDate>Wed, 08 Feb 2012 02:41:09 +0000</pubDate>
		<dc:creator>DRUenuma</dc:creator>
				<category><![CDATA[ウィークリー瞑想]]></category>

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		<description><![CDATA[昨年の秋の日本での旅で、「結婚以来怒っていました」「足蹴にされる、踏み つけられている」というテーマで書きました。年が明けてこの寒波に襲われてい る日本で、そのテーマが出てきたご夫妻を逆に訪ねています。それも先週雪に閉 じ込められたことで「踏みつけられている妻」のことで、迎えに来てくれたご夫 妻と続きを話すことができました。次の訪問地で「足蹴にされている」という発 言が出てきたときのことを思い起こすことになりました。 そしてそのような会話を導くことになった「結婚以来怒っていました」と言わ れたご夫妻を最後に訪ねることになりました。その言葉が出てきたときの思いを 語ってくれました。それはそうなっている自分に怒っているという意味合いであ ることを語ってくれました。そのことを記事に書いたときに、一人の牧師からす ぐにレスポンスをいただきました。思い当たることがあって「今回のテーマは、 私にとって最も大事なテーマなので、ちょっと書きます」と言って、以下の文面 を送ってくれました。どのようなタイミングで出したらよいのか様子を見ていま した。このご夫妻も読んでくださって、喜んでくれました。本人たちの了解をい ただいていますので、お分かちできればと思います。 「私は、牧会上での失敗の後、妻と毎晩、夕食後、外を歩いて会話をしまし た。妻がそれを望みました。子供の前で喧嘩はできないので、外を歩くしかな かったのです。妻に責められ、私が必死に妻の痛みを聞き、うなずき、あやま り、というパタンを毎晩繰り返し、２０分～３０分間歩きました。もっと長時間 になることもありました。私にとっては辛い時間でした。妻にとっては、生きて いくために、どうしても必要な時間でした。内容は、どうしても同じ話題になり ます。何度も責められます。 夕食後に妻と外を歩くことが、１ヶ月間続きました。今までの結婚生活にはな かった、交わりのスタイルでした。それが、１年続き、３年続き、５年たった 頃、新しい任地への移動となりました。こちらの来ても、ほとんど毎晩、妻と共 に歩いています。気づいたら１０年になりました。 今は、幸せな結婚になれたと、妻はとても喜んでいます。何が、鍵だったのか と最近分かりました。一緒にウォーキングしたことです。一緒に歩くということ は、＜妻だけと向き合う＞ということを意味しています。 妻との人格的な交わりは、質に到達する前に、量が必要だと分かりました。ま た、妻と向き合うことは、継続しなければならない、という事にも気づきまし た。一度や二度の心の深いつながりだけでは、心の通じ合う交わりは維持できま せんでした。大事なことは、続けること。ディボーションのように、続けること に意味があると分かりました。 すべてを失い、最も大事なものを得ました。それで良かったと今は心から言え ます。つまり、男として、牧師としての成果や業績よりも妻と心が通じ合える関 係でいられる事のほうが価値あることだと分かりました。外的な奉仕や仕事は、 必ずスペアがあります。他の人でもできます。でも、夫の代わりは世界に誰もい ないと気づきました。妻との関係が変えられたことによって私と主との関係が、 徐々にですが、本質的な部分が変わり始めているように思えます。 ですから、今は幸せです。妻ほど素敵な人はいません。妻を心から尊敬してい ます。妻なしには、私は存在しません。妻なしに、私の働きもありません。これ からも、妻と歩き続けます。」 上沼昌雄記<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=druenuma.wordpress.com&amp;blog=19023884&amp;post=364&amp;subd=druenuma&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昨年の秋の日本での旅で、「結婚以来怒っていました」「足蹴にされる、踏み</p>
<p>つけられている」というテーマで書きました。年が明けてこの寒波に襲われてい<br />
る日本で、そのテーマが出てきたご夫妻を逆に訪ねています。それも先週雪に閉<br />
じ込められたことで「踏みつけられている妻」のことで、迎えに来てくれたご夫<br />
妻と続きを話すことができました。次の訪問地で「足蹴にされている」という発<br />
言が出てきたときのことを思い起こすことになりました。</p>
<p>そしてそのような会話を導くことになった「結婚以来怒っていました」と言わ<br />
れたご夫妻を最後に訪ねることになりました。その言葉が出てきたときの思いを<br />
語ってくれました。それはそうなっている自分に怒っているという意味合いであ<br />
ることを語ってくれました。そのことを記事に書いたときに、一人の牧師からす<br />
ぐにレスポンスをいただきました。思い当たることがあって「今回のテーマは、<br />
私にとって最も大事なテーマなので、ちょっと書きます」と言って、以下の文面<br />
を送ってくれました。どのようなタイミングで出したらよいのか様子を見ていま<br />
した。このご夫妻も読んでくださって、喜んでくれました。本人たちの了解をい<br />
ただいていますので、お分かちできればと思います。</p>
<p>「私は、牧会上での失敗の後、妻と毎晩、夕食後、外を歩いて会話をしまし<br />
た。妻がそれを望みました。子供の前で喧嘩はできないので、外を歩くしかな<br />
かったのです。妻に責められ、私が必死に妻の痛みを聞き、うなずき、あやま<br />
り、というパタンを毎晩繰り返し、２０分～３０分間歩きました。もっと長時間<br />
になることもありました。私にとっては辛い時間でした。妻にとっては、生きて<br />
いくために、どうしても必要な時間でした。内容は、どうしても同じ話題になり<br />
ます。何度も責められます。</p>
<p>夕食後に妻と外を歩くことが、１ヶ月間続きました。今までの結婚生活にはな<br />
かった、交わりのスタイルでした。それが、１年続き、３年続き、５年たった<br />
頃、新しい任地への移動となりました。こちらの来ても、ほとんど毎晩、妻と共<br />
に歩いています。気づいたら１０年になりました。</p>
<p>今は、幸せな結婚になれたと、妻はとても喜んでいます。何が、鍵だったのか<br />
と最近分かりました。一緒にウォーキングしたことです。一緒に歩くということ<br />
は、＜妻だけと向き合う＞ということを意味しています。</p>
<p>妻との人格的な交わりは、質に到達する前に、量が必要だと分かりました。ま<br />
た、妻と向き合うことは、継続しなければならない、という事にも気づきまし<br />
た。一度や二度の心の深いつながりだけでは、心の通じ合う交わりは維持できま<br />
せんでした。大事なことは、続けること。ディボーションのように、続けること<br />
に意味があると分かりました。</p>
<p>すべてを失い、最も大事なものを得ました。それで良かったと今は心から言え<br />
ます。つまり、男として、牧師としての成果や業績よりも妻と心が通じ合える関<br />
係でいられる事のほうが価値あることだと分かりました。外的な奉仕や仕事は、<br />
必ずスペアがあります。他の人でもできます。でも、夫の代わりは世界に誰もい<br />
ないと気づきました。妻との関係が変えられたことによって私と主との関係が、<br />
徐々にですが、本質的な部分が変わり始めているように思えます。</p>
<p>ですから、今は幸せです。妻ほど素敵な人はいません。妻を心から尊敬してい<br />
ます。妻なしには、私は存在しません。妻なしに、私の働きもありません。これ<br />
からも、妻と歩き続けます。」</p>
<p>上沼昌雄記</p>
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	</item>
		<item>
		<title>「隔絶された時間、隔絶された場所」2012年2月3日（金）</title>
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		<pubDate>Sun, 05 Feb 2012 02:22:53 +0000</pubDate>
		<dc:creator>DRUenuma</dc:creator>
				<category><![CDATA[ウィークリー瞑想]]></category>

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		<description><![CDATA[昨日の朝は猛吹雪でした。新雪が30センチ以上は積もっていました。新幹線で東京に出られるかなと思いながら、ＪＲ東日本のネットでは「平常通り」と言うことで、8時過ぎに隠れ家の主に送っていただきました。普段は20分ほどで行くのですが、大雪で渋滞していて1時間近くかかってしまいました。 駅ではその前の東京行きの新幹線が止まっていて、それに乗せてくれました。4時間待たされて動き出したのですが、この列車は山形止まりで運転を取りやめると言うことと、その先も今日は終日運休にしますと言うことになりました。山形まで行っても戻ってくる足がないことが分かりました。それで次の「さくらんぼ東根」という駅で急遽降りました。隠れ家のご夫妻がアレンジしてくれて、教会の牧師が迎えに来てくれることになりました。 東京に向かう目的は、『村上春樹を読みつくす』の著者の共同通信編集委員の小山鉄郎氏を訪ねることでした。村上春樹のデビューの時から今に至るまで何度もインタビューをしてきたことを下にして書かれたものです。批評家のように自分の枠があってそこの村上春樹を引き入れて論じているものではなく、村上春樹に寄り添って書いているもので、文芸的優しさというか、温かみを覚えるものです。 新幹線の車両のなかは温かく、数人しか乗っていないこともあって、静かに3度目になると思いますが、『村上春樹を読みつくす』を読んでみました。さながら新幹線の書斎となりました。著者が村上春樹に寄り添いながら、小説家としての村上春樹が意識していないで書いているところを、上手に結びつけているようで、さらに村上春樹が浮かび上がってくる感じがします。しかもそこに無理がなく、その結びの糸が、本人が意識していなかったとしても、当然意図していたものであるかのように浮かび上がってきます。不思議な納得をいただきます。 世界的に読まれていながら、それでも濃厚に漂っている「日本」「日本人」を村上春樹のなかに丁寧に解きほぐしています。特に『平家物語』『雨月物語』『方丈記』の3つの古典に情緒的にどことなく共通の感覚が、デビュー当初から村上春樹のうちに漂っているというのです。それを「時間に対する感覚」とみています。「つまり絶対的な時間（それは歴史的な時間でもある）を時間として冷静に意識し把握しながらも、己の体内に別種の時間を作り出すという二重作業である。それはいわば隔絶された時間であり、それに呼応するように隔絶された場所がそこに浮かび上がってくる。」（83．84頁）現実と非現実の接点、向こう側とこちら側の合わせ鏡、異界への入り口、歴史と記憶という著者が繰り返し取り上げているテーマに結びついてきます。 この「隔絶された時間」、それはそのままレヴィナスの主要テーマである「時間の隔時性」に関わってきそうです。時間の他者性をみているレヴィナスにとって、向こうからくる時間は隔絶されたものです。単なる延長ではないのです。共時ではなく隔時であることで、他者は驚きであり、いのちでもあるのです。その他者のその先にユダヤ人哲学者であるレヴィナスはメシア、メシア待望をみています。拙書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』でレヴィナスと村上春樹を同時に取り上げたことが結びついてきます。 立ち止まっている新幹線の列車の隔絶された場所、5時間かけてすぐ隣の駅までようやくたどり着く隔絶された時間、日常が寸断されて思いがけない時間と場所を経験することで別の世界が開かれてきます。ともかく小山鉄郎氏に今日はお伺いできない旨の電話を入れました。迎えに来てくれた牧師宅で昨年来の「踏みつける、踏みつけられている夫婦」の話の続きすることになりました。「踏みつけられている」という言い表すことで開かれてくる世界 、いただいた結構のレスポンスに対してのこの夫婦の反応と、ともかく思いがけない話題に、東京に向かう予定で出たその日の暮れに導かれました。 上沼昌雄記<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=druenuma.wordpress.com&amp;blog=19023884&amp;post=361&amp;subd=druenuma&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昨日の朝は猛吹雪でした。新雪が30センチ以上は積もっていました。新幹線で東京に出られるかなと思いながら、ＪＲ東日本のネットでは「平常通り」と言うことで、8時過ぎに隠れ家の主に送っていただきました。普段は20分ほどで行くのですが、大雪で渋滞していて1時間近くかかってしまいました。</p>
<p>駅ではその前の東京行きの新幹線が止まっていて、それに乗せてくれました。4時間待たされて動き出したのですが、この列車は山形止まりで運転を取りやめると言うことと、その先も今日は終日運休にしますと言うことになりました。山形まで行っても戻ってくる足がないことが分かりました。それで次の「さくらんぼ東根」という駅で急遽降りました。隠れ家のご夫妻がアレンジしてくれて、教会の牧師が迎えに来てくれることになりました。</p>
<p>東京に向かう目的は、『村上春樹を読みつくす』の著者の共同通信編集委員の小山鉄郎氏を訪ねることでした。村上春樹のデビューの時から今に至るまで何度もインタビューをしてきたことを下にして書かれたものです。批評家のように自分の枠があってそこの村上春樹を引き入れて論じているものではなく、村上春樹に寄り添って書いているもので、文芸的優しさというか、温かみを覚えるものです。</p>
<p>新幹線の車両のなかは温かく、数人しか乗っていないこともあって、静かに3度目になると思いますが、『村上春樹を読みつくす』を読んでみました。さながら新幹線の書斎となりました。著者が村上春樹に寄り添いながら、小説家としての村上春樹が意識していないで書いているところを、上手に結びつけているようで、さらに村上春樹が浮かび上がってくる感じがします。しかもそこに無理がなく、その結びの糸が、本人が意識していなかったとしても、当然意図していたものであるかのように浮かび上がってきます。不思議な納得をいただきます。</p>
<p>世界的に読まれていながら、それでも濃厚に漂っている「日本」「日本人」を村上春樹のなかに丁寧に解きほぐしています。特に『平家物語』『雨月物語』『方丈記』の3つの古典に情緒的にどことなく共通の感覚が、デビュー当初から村上春樹のうちに漂っているというのです。それを「時間に対する感覚」とみています。「つまり絶対的な時間（それは歴史的な時間でもある）を時間として冷静に意識し把握しながらも、己の体内に別種の時間を作り出すという二重作業である。それはいわば隔絶された時間であり、それに呼応するように隔絶された場所がそこに浮かび上がってくる。」（83．84頁）現実と非現実の接点、向こう側とこちら側の合わせ鏡、異界への入り口、歴史と記憶という著者が繰り返し取り上げているテーマに結びついてきます。</p>
<p>この「隔絶された時間」、それはそのままレヴィナスの主要テーマである「時間の隔時性」に関わってきそうです。時間の他者性をみているレヴィナスにとって、向こうからくる時間は隔絶されたものです。単なる延長ではないのです。共時ではなく隔時であることで、他者は驚きであり、いのちでもあるのです。その他者のその先にユダヤ人哲学者であるレヴィナスはメシア、メシア待望をみています。拙書『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』でレヴィナスと村上春樹を同時に取り上げたことが結びついてきます。</p>
<p>立ち止まっている新幹線の列車の隔絶された場所、5時間かけてすぐ隣の駅までようやくたどり着く隔絶された時間、日常が寸断されて思いがけない時間と場所を経験することで別の世界が開かれてきます。ともかく小山鉄郎氏に今日はお伺いできない旨の電話を入れました。迎えに来てくれた牧師宅で昨年来の「踏みつける、踏みつけられている夫婦」の話の続きすることになりました。「踏みつけられている」という言い表すことで開かれてくる世界 、いただいた結構のレスポンスに対してのこの夫婦の反応と、ともかく思いがけない話題に、東京に向かう予定で出たその日の暮れに導かれました。</p>
<p>上沼昌雄記</p>
<br />  <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gocomments/druenuma.wordpress.com/361/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/comments/druenuma.wordpress.com/361/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godelicious/druenuma.wordpress.com/361/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/delicious/druenuma.wordpress.com/361/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gofacebook/druenuma.wordpress.com/361/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/facebook/druenuma.wordpress.com/361/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gotwitter/druenuma.wordpress.com/361/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/twitter/druenuma.wordpress.com/361/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/gostumble/druenuma.wordpress.com/361/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/stumble/druenuma.wordpress.com/361/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/godigg/druenuma.wordpress.com/361/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/digg/druenuma.wordpress.com/361/" /></a> <a rel="nofollow" href="http://feeds.wordpress.com/1.0/goreddit/druenuma.wordpress.com/361/"><img alt="" border="0" src="http://feeds.wordpress.com/1.0/reddit/druenuma.wordpress.com/361/" /></a> <img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=druenuma.wordpress.com&amp;blog=19023884&amp;post=361&amp;subd=druenuma&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></content:encoded>
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		<title>「雪かき」2012年1月30日（月）</title>
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		<pubDate>Tue, 31 Jan 2012 01:19:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>DRUenuma</dc:creator>
				<category><![CDATA[ウィークリー瞑想]]></category>

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		<description><![CDATA[先週の木曜日の遅くに最上川の隠れ家に到着してから今日まで、雪が降り続いているというか、降り止まないというか、時々降り止んで、一瞬太陽が顔を出したかと思うと、また降り出しています。天に良くそれだけの雪が蓄えられてあるものだと感心していまます。イメージとしては雪に覆われて身動きも取れない感じですが、実際には人びとはしっかりと活動をしています。絶えることなく生活しています。雪を払いのけて、生活空間をしっかりと確保しています。その確保のために友人の牧師も今日は雪かきに追われているようです。 窓の向こうにサクランボの棚があります。6月の雨期にはサクランボが割れないようにビニールをかぶせます。そのビニールを乗せるスティールの棚がサクランボの木の並びにあわせて4列並んでいます。多少まるびを帯びている柵の間に雪が溜まっています。どうなるのだろうと人ごとのように思っていたのですが、今朝からその棚に上って雪下ろしをしています。慎重にゆっくりと、そして見事に機械的に棚の下に降ろしています。すでに2列目の真ん中まで来ています。 そんな情景を見ていて、あの村上春樹が「雪かき的文化」とか「雪かき的、、、」とどこかでと言っているのを思い出しました。ネットで検索してみると「文化的雪かき」という表現を『ダンス、ダンス、ダンス』で使って言うことが分かりました。どうして「文化的雪かき」という言い方をあえてしなければならないのかと、その表現に出会って感じたことを思い出しました。手元にその本がないので細かくは入れなのですが、窓の向こうで文字通りに雪かきをしている人の姿を見ながら、「文化的雪かき」とは、失礼な言い方でもあるし、そんな言い方を良く思いついたものだと関心もしています。 誰かが文字通りに雪かきをしなければ生活が成り立たない、誰かが文化的雪かき的に細かい書類の整理をしなければ社会が進まない、それは、雪が降り続いている限り、社会が動いている限り、し続けなければならないことです。屋根の雪下ろしで何人かの人が亡くなったニュースが流れています。この隠れ家の周りも毎日朝早くから担当の人が雪かきをしています。一日は雪かきから始まっています。サクランボの棚が雪でつぶれてしまったら、美味しサクランボは食べることができません。今朝も近くのコンビニにメール便を出しに行ってきましたが、誰かが雪かきをしてくれた跡をたどっていったのです。 また雪がしっかりと降り出しています。 そうすることが、世界が造られる前から定まっていたかのように降っています。 降り続けることが運命のような印象の降り方です。雪かきをした道がまた雪で埋まっていきます。また明日も雪かきが必要です。黙々と、機械的にサクランボの棚の雪下ろしをしていた方の姿が、この最上川の地の歴史を語っているようです。 上沼昌雄記<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=druenuma.wordpress.com&amp;blog=19023884&amp;post=358&amp;subd=druenuma&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>先週の木曜日の遅くに最上川の隠れ家に到着してから今日まで、雪が降り続いているというか、降り止まないというか、時々降り止んで、一瞬太陽が顔を出したかと思うと、また降り出しています。天に良くそれだけの雪が蓄えられてあるものだと感心していまます。イメージとしては雪に覆われて身動きも取れない感じですが、実際には人びとはしっかりと活動をしています。絶えることなく生活しています。雪を払いのけて、生活空間をしっかりと確保しています。その確保のために友人の牧師も今日は雪かきに追われているようです。</p>
<p>窓の向こうにサクランボの棚があります。6月の雨期にはサクランボが割れないようにビニールをかぶせます。そのビニールを乗せるスティールの棚がサクランボの木の並びにあわせて4列並んでいます。多少まるびを帯びている柵の間に雪が溜まっています。どうなるのだろうと人ごとのように思っていたのですが、今朝からその棚に上って雪下ろしをしています。慎重にゆっくりと、そして見事に機械的に棚の下に降ろしています。すでに2列目の真ん中まで来ています。</p>
<p>そんな情景を見ていて、あの村上春樹が「雪かき的文化」とか「雪かき的、、、」とどこかでと言っているのを思い出しました。ネットで検索してみると「文化的雪かき」という表現を『ダンス、ダンス、ダンス』で使って言うことが分かりました。どうして「文化的雪かき」という言い方をあえてしなければならないのかと、その表現に出会って感じたことを思い出しました。手元にその本がないので細かくは入れなのですが、窓の向こうで文字通りに雪かきをしている人の姿を見ながら、「文化的雪かき」とは、失礼な言い方でもあるし、そんな言い方を良く思いついたものだと関心もしています。</p>
<p>誰かが文字通りに雪かきをしなければ生活が成り立たない、誰かが文化的雪かき的に細かい書類の整理をしなければ社会が進まない、それは、雪が降り続いている限り、社会が動いている限り、し続けなければならないことです。屋根の雪下ろしで何人かの人が亡くなったニュースが流れています。この隠れ家の周りも毎日朝早くから担当の人が雪かきをしています。一日は雪かきから始まっています。サクランボの棚が雪でつぶれてしまったら、美味しサクランボは食べることができません。今朝も近くのコンビニにメール便を出しに行ってきましたが、誰かが雪かきをしてくれた跡をたどっていったのです。</p>
<p>また雪がしっかりと降り出しています。 そうすることが、世界が造られる前から定まっていたかのように降っています。 降り続けることが運命のような印象の降り方です。雪かきをした道がまた雪で埋まっていきます。また明日も雪かきが必要です。黙々と、機械的にサクランボの棚の雪下ろしをしていた方の姿が、この最上川の地の歴史を語っているようです。</p>
<p>上沼昌雄記</p>
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	</item>
		<item>
		<title>「冬の日本へ、雪の最上川に」2012年1月16日（月）</title>
		<link>http://druenuma.wordpress.com/2012/01/19/%e3%80%8c%e5%86%ac%e3%81%ae%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%b8%e3%80%81%e9%9b%aa%e3%81%ae%e6%9c%80%e4%b8%8a%e5%b7%9d%e3%81%ab%e3%80%8d2012%e5%b9%b41%e6%9c%8816%e6%97%a5%ef%bc%88%e6%9c%88%ef%bc%89/</link>
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		<pubDate>Fri, 20 Jan 2012 06:56:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>DRUenuma</dc:creator>
				<category><![CDATA[ウィークリー瞑想]]></category>
		<category><![CDATA[jbtm]]></category>

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		<description><![CDATA[　導きをいただいて3年連続になりますが、まもなく冬の日本に伺うことになります。今回は山形の教会の一日修養会で「苦しみを通して神に近づく」をテーマに礼拝と午後のセミナーを持ちます。誰のうちにもある神への叫び、うめきに思いを潜め、分かち合うことができればと願っています。旧約の神の民の歩みの連続で観ていくと、そんな叫びを神に向けることができるのがまさに信仰なのだろうとも思わされます。この視点を抜きに苦しみのことだけを取り上げると、神義論の議論になって迷路に入ってしまいます。神の民の叫びに耳を傾けながら、自分のなかの叫びに耳を傾けるときになればと願っています。 　この旅のためのやり取りで、すでに北見から、秋田から、山形から、米沢から、今年は雪が多くて寒いですというメールをいただいています。いただく度に、1年前の山形や秋田や北見の雪の多さと寒さに驚いたのを思い出します。その前年、私にとっては3年前なのですが、そんなに雪が多かった記憶がないのですが、昨年は最上川の隠れ家に入るまでの道のりがまさに雪の壁になっていて驚きました。今年はそれ以上だとすると、すでに雪に埋もれているのだろうかと想像しています。 　現在両親の世話があってロス郊外に来ています。温かい太陽の下では日中は半袖でもいられます。これから向かう日本の雪景色を想像しています。絶えず降り続けていながらそれでも温かみを持っている最上川の雪景色、寄せ付けないような道東の厳寒の雪景色に降り注いでいる太陽の温かさ、そんなことを思いながら今回の旅でどのような雪景色に出会うのか、多少心が躍る思いです。 　限られた滞在期間なのですが、昨年10月18日付で書いた「お寺に掲げられている十字架」で記したキリシタン宣教師の逃避行のことで、多少の資料調べをしたく願っています。最上川沿いの佐野原から山沿いに酒田に出て、日本海を渡って、北海道に入り、樺太を通って、シベリヤ経由で本国に帰ったという話です。戦後の27年にバチカンから米沢の教会に問い合わせがあって分かったというものです。現在バチカンの日本大使館にも問い合わせをしています。ともかくこの雪深い地でどのように信仰を守り、どのように隠れ、どのように逃げて本国まで帰ることができたのか、何とも興味深いことです。そのための手がかりを少しでも得られればと願っています。 　神の民にはこの地には永住の住処はない、そんなテーゼを突きつけられて、祖国を捨てて日本の地に入り、迫害のなかを逃避行したキリシタン宣教師のことに思いが向きます。どのような思いで旅をしたのだろうか。隠れキリシタンとの最後の別れはどのようなものだったのだろうか。酒田から日本海を北海道に渡航することを助けた隠れキリシタンの船乗りがいたのであろうか。厳寒のシベリヤをどのように生き残ることができたのであろうか。果てしない困難を伴う旅は、しかし、エジプトを出た神の民、バビロン捕囚から帰る民の歩みにも通じます。その旅は、また、私たちの旅でもあるのです。 上沼昌雄記<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=druenuma.wordpress.com&amp;blog=19023884&amp;post=353&amp;subd=druenuma&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　導きをいただいて3年連続になりますが、まもなく冬の日本に伺うことになります。今回は山形の教会の一日修養会で「苦しみを通して神に近づく」をテーマに礼拝と午後のセミナーを持ちます。誰のうちにもある神への叫び、うめきに思いを潜め、分かち合うことができればと願っています。旧約の神の民の歩みの連続で観ていくと、そんな叫びを神に向けることができるのがまさに信仰なのだろうとも思わされます。この視点を抜きに苦しみのことだけを取り上げると、神義論の議論になって迷路に入ってしまいます。神の民の叫びに耳を傾けながら、自分のなかの叫びに耳を傾けるときになればと願っています。</p>
<p>　この旅のためのやり取りで、すでに北見から、秋田から、山形から、米沢から、今年は雪が多くて寒いですというメールをいただいています。いただく度に、1年前の山形や秋田や北見の雪の多さと寒さに驚いたのを思い出します。その前年、私にとっては3年前なのですが、そんなに雪が多かった記憶がないのですが、昨年は最上川の隠れ家に入るまでの道のりがまさに雪の壁になっていて驚きました。今年はそれ以上だとすると、すでに雪に埋もれているのだろうかと想像しています。</p>
<p>　現在両親の世話があってロス郊外に来ています。温かい太陽の下では日中は半袖でもいられます。これから向かう日本の雪景色を想像しています。絶えず降り続けていながらそれでも温かみを持っている最上川の雪景色、寄せ付けないような道東の厳寒の雪景色に降り注いでいる太陽の温かさ、そんなことを思いながら今回の旅でどのような雪景色に出会うのか、多少心が躍る思いです。</p>
<p>　限られた滞在期間なのですが、昨年10月18日付で書いた「お寺に掲げられている十字架」で記したキリシタン宣教師の逃避行のことで、多少の資料調べをしたく願っています。最上川沿いの佐野原から山沿いに酒田に出て、日本海を渡って、北海道に入り、樺太を通って、シベリヤ経由で本国に帰ったという話です。戦後の27年にバチカンから米沢の教会に問い合わせがあって分かったというものです。現在バチカンの日本大使館にも問い合わせをしています。ともかくこの雪深い地でどのように信仰を守り、どのように隠れ、どのように逃げて本国まで帰ることができたのか、何とも興味深いことです。そのための手がかりを少しでも得られればと願っています。</p>
<p>　神の民にはこの地には永住の住処はない、そんなテーゼを突きつけられて、祖国を捨てて日本の地に入り、迫害のなかを逃避行したキリシタン宣教師のことに思いが向きます。どのような思いで旅をしたのだろうか。隠れキリシタンとの最後の別れはどのようなものだったのだろうか。酒田から日本海を北海道に渡航することを助けた隠れキリシタンの船乗りがいたのであろうか。厳寒のシベリヤをどのように生き残ることができたのであろうか。果てしない困難を伴う旅は、しかし、エジプトを出た神の民、バビロン捕囚から帰る民の歩みにも通じます。その旅は、また、私たちの旅でもあるのです。</p>
<p>上沼昌雄記</p>
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		<item>
		<title>「牧師病？」2012年1月9日（月）</title>
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		<pubDate>Wed, 11 Jan 2012 23:40:05 +0000</pubDate>
		<dc:creator>DRUenuma</dc:creator>
				<category><![CDATA[ウィークリー瞑想]]></category>
		<category><![CDATA[jbtm]]></category>

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		<description><![CDATA[　これはまさにアメリカらしい Wife Swap というテレビ番組があります。二組の夫婦の奥さんたちが相手の家に一週間行って、前半はその家のルールで生活し、後半はその奥さんのルールでその相手の家族が生活をしていくというものです。前からあったのですが、今は有名人のふたカップルを対象にしています。先週はそこに、数年前にメガチャーチの牧師で同性愛と覚醒剤保持のスキャンダルで辞任し、その回復のことが取り上げられて有名になった夫婦と、どこかの映画で観たことのある俳優の夫婦が登場してきました。妻はその牧師の回復後のインタビューをどこかで観て、とても正直に語っているというので、興味があって、ふたりでこの番組を観ました。 　その牧師の回復と、それに対するその奥様の対応は敬意を覚えるものです。すでに新しい教会活動を始めています。ただ相手の映画俳優の奥さんがその家族と数日間生活を共にして、後半で今度はその奥さんのルールで家族が生活をすることになったときに、その奥さんの指摘したことは、その牧師と奥様は回復しているかも知れないが、子どもさんたちはそのスキャンダルでいまだに苦しんでいるというものでした。鋭い指摘に妻共々はっとさせられました。そのお嬢さんはその通りだと対応したのですが、その隣にいた牧師、すなわち、父親は、自分たちは神の哀れみによってすでに立ち直っていると言うことを繰り返して言うのです。その言い方がお嬢さんを説得させようとするような感じを否めませんでした。お嬢さんの話を聞いていないではないかと、叫びたくなりました。ともかく番組では、父親と娘さんふたりでカフェに行って語り合うことをしました。 　一週間が終わって、それぞれの夫婦が体面する場面があります。今までにはその場で相手の鋭い指摘に怒りだして決裂してしまったようなこともありました。どんなことが出てくるのか興味津々です。映画俳優の奥さんが、その牧師家族の子どもさんたちがいまだ苦しんでいることを静かに指摘しました。それに対してすぐに牧師の奥さんが自分たちはそのために努力をし、子どもたちを愛していると言い、それに追い打ちを掛けるように、牧師自身が復活の主の力によって回復していると繰り返していました。その語り口はまさに牧師そのものです。相手に反論の余地を入れさせない見事な説教です。聞きながらその向こうでいまだに叫んでいるお嬢さんの顔が浮かんできました。 　その牧師の奥さんが映画俳優のところに行ったときに、前半はその俳優は茶化していたのですが、後半ではその奥さんの話に耳を傾けていました。そんな場面とは対照的に牧師自身は映画俳優の奥さんの話にじっと耳を傾けるようなことはしていません。牧師丸出しで、すぐに説教調になるのです。聖書の教え通りにしていればすべてがうまくいくと言うことを巧みに説明するのです。多くの場合に説得するのです。それがあまりに鋭いので黙る以外にないのです。子どもさんたちは逃げられないのです。 　テレビ番組なので、そんなに気にしなくて良いことなのですが、何とも後味が悪い思いが残っています。他人事でないし、結構どこでも似たような場面に出会うのです。癒しがたい牧師病なのでしょうか。 上沼昌雄記<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=druenuma.wordpress.com&amp;blog=19023884&amp;post=351&amp;subd=druenuma&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　これはまさにアメリカらしい Wife Swap というテレビ番組があります。二組の夫婦の奥さんたちが相手の家に一週間行って、前半はその家のルールで生活し、後半はその奥さんのルールでその相手の家族が生活をしていくというものです。前からあったのですが、今は有名人のふたカップルを対象にしています。先週はそこに、数年前にメガチャーチの牧師で同性愛と覚醒剤保持のスキャンダルで辞任し、その回復のことが取り上げられて有名になった夫婦と、どこかの映画で観たことのある俳優の夫婦が登場してきました。妻はその牧師の回復後のインタビューをどこかで観て、とても正直に語っているというので、興味があって、ふたりでこの番組を観ました。</p>
<p>　その牧師の回復と、それに対するその奥様の対応は敬意を覚えるものです。すでに新しい教会活動を始めています。ただ相手の映画俳優の奥さんがその家族と数日間生活を共にして、後半で今度はその奥さんのルールで家族が生活をすることになったときに、その奥さんの指摘したことは、その牧師と奥様は回復しているかも知れないが、子どもさんたちはそのスキャンダルでいまだに苦しんでいるというものでした。鋭い指摘に妻共々はっとさせられました。そのお嬢さんはその通りだと対応したのですが、その隣にいた牧師、すなわち、父親は、自分たちは神の哀れみによってすでに立ち直っていると言うことを繰り返して言うのです。その言い方がお嬢さんを説得させようとするような感じを否めませんでした。お嬢さんの話を聞いていないではないかと、叫びたくなりました。ともかく番組では、父親と娘さんふたりでカフェに行って語り合うことをしました。</p>
<p>　一週間が終わって、それぞれの夫婦が体面する場面があります。今までにはその場で相手の鋭い指摘に怒りだして決裂してしまったようなこともありました。どんなことが出てくるのか興味津々です。映画俳優の奥さんが、その牧師家族の子どもさんたちがいまだ苦しんでいることを静かに指摘しました。それに対してすぐに牧師の奥さんが自分たちはそのために努力をし、子どもたちを愛していると言い、それに追い打ちを掛けるように、牧師自身が復活の主の力によって回復していると繰り返していました。その語り口はまさに牧師そのものです。相手に反論の余地を入れさせない見事な説教です。聞きながらその向こうでいまだに叫んでいるお嬢さんの顔が浮かんできました。</p>
<p>　その牧師の奥さんが映画俳優のところに行ったときに、前半はその俳優は茶化していたのですが、後半ではその奥さんの話に耳を傾けていました。そんな場面とは対照的に牧師自身は映画俳優の奥さんの話にじっと耳を傾けるようなことはしていません。牧師丸出しで、すぐに説教調になるのです。聖書の教え通りにしていればすべてがうまくいくと言うことを巧みに説明するのです。多くの場合に説得するのです。それがあまりに鋭いので黙る以外にないのです。子どもさんたちは逃げられないのです。</p>
<p>　テレビ番組なので、そんなに気にしなくて良いことなのですが、何とも後味が悪い思いが残っています。他人事でないし、結構どこでも似たような場面に出会うのです。癒しがたい牧師病なのでしょうか。</p>
<p>上沼昌雄記</p>
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		<title>「老いること」2012年1月2日（月）</title>
		<link>http://druenuma.wordpress.com/2012/01/03/%e3%80%8c%e8%80%81%e3%81%84%e3%82%8b%e3%81%93%e3%81%a8%e3%80%8d2012%e5%b9%b41%e6%9c%882%e6%97%a5%ef%bc%88%e6%9c%88%ef%bc%89/</link>
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		<pubDate>Wed, 04 Jan 2012 02:47:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>DRUenuma</dc:creator>
				<category><![CDATA[ウィークリー瞑想]]></category>

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		<description><![CDATA[主にある友へ、新しい年が始まりました。2012年はどのような年になるのでしょうか。神の宮を思いながら共に歩みたく願っています。よろしくお願いいたします。祝福をお祈りいたします。上沼昌雄　2012/01/03 ＊＊＊＊ 新しい年の初めにはあまりふさわしいテーマではないのですが、クリスマスに89歳の義父の入院もあり、老いていく親たちの現状に直面させられながら、「老いること」に思いが向いています。誰もがあたら新しい年とともに、年を重ねていきます。90歳近い両親の面倒をしているこちら側も、60代の後半になりかかっています。老いることが友人たちとの共通の話題にもなってきています。 「他者」をその思索の中心に据えているユダヤ人哲学者のレヴィナスが、「老い」をその他者の不可逆的現象として取り上げています。自己の確立を究極の目的にしてきた2千年の西洋の哲学の行く詰まりをホロコーストで経験して、批判的に辿り着いたのが「他者」です。タルムードの学者でもあるレヴィナスにとって、他者の他者のその向こうは神なのですが、その神の創造のすべてのものも「他者」として性格を基本的に持っています。 朝日も夕陽も、風も太陽も、食べ物も飲み物も、この体もこの顔も、皆与えられたものです。自分で獲得したものではありません。西洋のメンタリティーは自分で世界を獲得できるかのような幻想を与えます。またそうすべきかのように教えます。聖書からこれがクリスチャンのあるべき姿と言って、そのあるべき姿を自分で獲得できるかのような幻想を与えます。 レヴィナスは他者性の特徴として時間をもみています。次の瞬間には何が起こるか分からないのが時間です。過去の時間も記憶のなかでは夢のように思いがけないかたちで迫ってきます。シンクロナイズしたものが時間ではなくて、いつも隙間やズレを持って迫ってくるのが時間です。今の延長線上に時間はないのです。今自分がクリスチャンとして獲得したものも時間のなかでは恒久ではないのです。差異と変化が伴っています。時間は避けることのできない、手に負えないのです。意に反して向こうから来るのです。老いることはまさに意に反していることです。 この意に反している老いを、自分中心にみたら、どうしても辛い、悲しいことになります。レヴィナスは逆に、ここに人生そのものが自分のためにあるのではないとみるのです。すなわち、身代わりとしての人生です。老いることは誰かが次を生きるためです。中島みゆきが歌っているように、辿り着けない目標に向かって人生のバトンを次に譲っていくのです。クリスチャンとしてあるべきところに到達して、それを守ることを次の人に求めることではないのです。人生そのものが、いまだ到達できない約束の地を求めているのです。そのための身代わりであり、そのための老いです。 そのようにみてくると旧約聖書で系図が大切にされているのが分かります。約束の地への旅の担い手としての自分なのです。その責任が次に委ねられていることを老いのなかで確認するのです。西洋の個人主義ではこの繋がりがどうしても薄くなります。ユダヤ人クリスチャンであるパウロにとっては、この繋がりはしっかりと保たれています。「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であり」（ロマ書８：１７）、「今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」（エペソ２：１９） 昨年は5人目の孫が与えられました。 自分の信仰形態の継承が目的ではありません。それだけであれば老いることは辛いことです。そうならないことで絶望するだけです。与えられていることは、 神の家族としてのバトンを、どれがどのようなことであっても、主の来臨まで次に委ねていくことです。老いることは自分を放棄することです。自分のための人生でないことを確認することです。この地上のことがすべてでないことを指し示すことです。待ち望む世界が先にあることを確認することです。そう思うと年を取ることも少しは楽しくなりそうです。 上沼昌雄記<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=druenuma.wordpress.com&amp;blog=19023884&amp;post=347&amp;subd=druenuma&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>主にある友へ、新しい年が始まりました。2012年はどのような年になるのでしょうか。神の宮を思いながら共に歩みたく願っています。よろしくお願いいたします。祝福をお祈りいたします。上沼昌雄　2012/01/03</p>
<p>＊＊＊＊</p>
<p>新しい年の初めにはあまりふさわしいテーマではないのですが、クリスマスに89歳の義父の入院もあり、老いていく親たちの現状に直面させられながら、「老いること」に思いが向いています。誰もがあたら新しい年とともに、年を重ねていきます。90歳近い両親の面倒をしているこちら側も、60代の後半になりかかっています。老いることが友人たちとの共通の話題にもなってきています。</p>
<p>「他者」をその思索の中心に据えているユダヤ人哲学者のレヴィナスが、「老い」をその他者の不可逆的現象として取り上げています。自己の確立を究極の目的にしてきた2千年の西洋の哲学の行く詰まりをホロコーストで経験して、批判的に辿り着いたのが「他者」です。タルムードの学者でもあるレヴィナスにとって、他者の他者のその向こうは神なのですが、その神の創造のすべてのものも「他者」として性格を基本的に持っています。</p>
<p>朝日も夕陽も、風も太陽も、食べ物も飲み物も、この体もこの顔も、皆与えられたものです。自分で獲得したものではありません。西洋のメンタリティーは自分で世界を獲得できるかのような幻想を与えます。またそうすべきかのように教えます。聖書からこれがクリスチャンのあるべき姿と言って、そのあるべき姿を自分で獲得できるかのような幻想を与えます。</p>
<p>レヴィナスは他者性の特徴として時間をもみています。次の瞬間には何が起こるか分からないのが時間です。過去の時間も記憶のなかでは夢のように思いがけないかたちで迫ってきます。シンクロナイズしたものが時間ではなくて、いつも隙間やズレを持って迫ってくるのが時間です。今の延長線上に時間はないのです。今自分がクリスチャンとして獲得したものも時間のなかでは恒久ではないのです。差異と変化が伴っています。時間は避けることのできない、手に負えないのです。意に反して向こうから来るのです。老いることはまさに意に反していることです。</p>
<p>この意に反している老いを、自分中心にみたら、どうしても辛い、悲しいことになります。レヴィナスは逆に、ここに人生そのものが自分のためにあるのではないとみるのです。すなわち、身代わりとしての人生です。老いることは誰かが次を生きるためです。中島みゆきが歌っているように、辿り着けない目標に向かって人生のバトンを次に譲っていくのです。クリスチャンとしてあるべきところに到達して、それを守ることを次の人に求めることではないのです。人生そのものが、いまだ到達できない約束の地を求めているのです。そのための身代わりであり、そのための老いです。</p>
<p>そのようにみてくると旧約聖書で系図が大切にされているのが分かります。約束の地への旅の担い手としての自分なのです。その責任が次に委ねられていることを老いのなかで確認するのです。西洋の個人主義ではこの繋がりがどうしても薄くなります。ユダヤ人クリスチャンであるパウロにとっては、この繋がりはしっかりと保たれています。「私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であり」（ロマ書８：１７）、「今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。」（エペソ２：１９）</p>
<p>昨年は5人目の孫が与えられました。 自分の信仰形態の継承が目的ではありません。それだけであれば老いることは辛いことです。そうならないことで絶望するだけです。与えられていることは、 神の家族としてのバトンを、どれがどのようなことであっても、主の来臨まで次に委ねていくことです。老いることは自分を放棄することです。自分のための人生でないことを確認することです。この地上のことがすべてでないことを指し示すことです。待ち望む世界が先にあることを確認することです。そう思うと年を取ることも少しは楽しくなりそうです。</p>
<p>上沼昌雄記</p>
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		<item>
		<title>「聖書的礼拝・聖書的聖書研究？」2011年12月19日（月）</title>
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		<pubDate>Wed, 21 Dec 2011 04:14:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>DRUenuma</dc:creator>
				<category><![CDATA[ウィークリー瞑想]]></category>

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		<description><![CDATA[昨日は妻の両親の教会の朝9時の礼拝に出席して後、思うことがあって、一人でチャック・スミスのカルバリーチャペルの11時15分からの第3礼拝に出席しました。どちらも聖書的な礼拝、クリスマスをめざしているのですが、その何とも言えない違いがどこから来ているのか、確認したくなったのです。 その時間になるとチャック・スミスが講壇に立って、歓迎の挨拶をして、最初の賛美を力強くリードして、祈りを導きます。ただこれだけで礼拝が一気にしまります。84歳になる彼の声は力強く、賛美も澄み切って、天に届くようです。そしてメッセージまで自席に退いています。その間の賛美も豪華なもので、一流のミュージシャンの織りなすものですが、決してエンターテイメントではありません。主を讃えるという思いが貫かれています。見事としか言えません。 献金の時に男性ソロで歌われた賛美にはっとさせられました。シカゴの中村佐知さんのブログで、神学モノローグ「パウロの観たクリスマス」を読んで思い出した歌があると言って紹介してくれたのが、Mary, Did You Know…?です。まさにそれが歌われていたのです。調べてネットで聞いていたので、気づいたときに驚かされ、感動しました。このクリスマスの時に、御子が私たちのために苦しみを受けるために生まれたと、マリアと共に告白するのです。 そのまま出てきたチャック・スミスは、実は日曜の夕拝で学び続けているエレミヤ書21章8節の「いのちの道と死の道」を引用して、メッセージのテキストであるヨハネ福音書の10章の「良い牧者」に結びつけて、いのちに至る道を解き明かしていきました。その晩の学びがエレミヤ書21-25章ということで、一昨年秋田の教会でしたエレミヤ書の学びを思い出して、何とも聞いてみたくなりました。 それで妻を誘って夜7時からの聖書研究に参加しました。2000席以上ある会堂の3分の1近くの出席者です。その聖書研究は、何と短いコメントを挟んで21章から25章までをチャック・スミス自身が読んでいくだけと言えば言える、それだけの学びです。一言ももれなく全部読むのです。所々で説明を入れるのです。単調になってしまうのではと思うのですが、聖書朗読も説明もチャック・スミスは何とも楽しそうにしているのです。その語調は変わらないのです。ただ読んでいるのではなく、それ自体がメッセージになっています。5つの章全部を、説明を加えながら1時間かけて読むのです。周りを見回してみると、会衆はまさにエレミヤ書の真ん中に導かれているようです。 帰りの車の中で妻と話しながら、互いに不思議な感覚に包まれていました。そのエレミヤ書の5つの章の流れが生き生きと残っているのです。それでいて新しい発見があるのです。チャック・スミスの説明はその記憶を助けてくれます。楽しそうに説明し読んでいる彼の声がいつまでも心に残っています。チャック・スミスはただ、創世記から黙示録までをこのように今に至るまで何度も繰り返しているだけです。彼の聖書理解には全面的に納得できないものがありますが、そんなことを越えて神を讃え、みことばに耳を傾ける豊かな時をいただきました。 上沼昌雄記<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=druenuma.wordpress.com&amp;blog=19023884&amp;post=344&amp;subd=druenuma&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>昨日は妻の両親の教会の朝9時の礼拝に出席して後、思うことがあって、一人でチャック・スミスのカルバリーチャペルの11時15分からの第3礼拝に出席しました。どちらも聖書的な礼拝、クリスマスをめざしているのですが、その何とも言えない違いがどこから来ているのか、確認したくなったのです。</p>
<p>その時間になるとチャック・スミスが講壇に立って、歓迎の挨拶をして、最初の賛美を力強くリードして、祈りを導きます。ただこれだけで礼拝が一気にしまります。84歳になる彼の声は力強く、賛美も澄み切って、天に届くようです。そしてメッセージまで自席に退いています。その間の賛美も豪華なもので、一流のミュージシャンの織りなすものですが、決してエンターテイメントではありません。主を讃えるという思いが貫かれています。見事としか言えません。</p>
<p>献金の時に男性ソロで歌われた賛美にはっとさせられました。シカゴの中村佐知さんのブログで、神学モノローグ「パウロの観たクリスマス」を読んで思い出した歌があると言って紹介してくれたのが、Mary, Did You Know…?です。まさにそれが歌われていたのです。調べてネットで聞いていたので、気づいたときに驚かされ、感動しました。このクリスマスの時に、御子が私たちのために苦しみを受けるために生まれたと、マリアと共に告白するのです。</p>
<p>そのまま出てきたチャック・スミスは、実は日曜の夕拝で学び続けているエレミヤ書21章8節の「いのちの道と死の道」を引用して、メッセージのテキストであるヨハネ福音書の10章の「良い牧者」に結びつけて、いのちに至る道を解き明かしていきました。その晩の学びがエレミヤ書21-25章ということで、一昨年秋田の教会でしたエレミヤ書の学びを思い出して、何とも聞いてみたくなりました。</p>
<p>それで妻を誘って夜7時からの聖書研究に参加しました。2000席以上ある会堂の3分の1近くの出席者です。その聖書研究は、何と短いコメントを挟んで21章から25章までをチャック・スミス自身が読んでいくだけと言えば言える、それだけの学びです。一言ももれなく全部読むのです。所々で説明を入れるのです。単調になってしまうのではと思うのですが、聖書朗読も説明もチャック・スミスは何とも楽しそうにしているのです。その語調は変わらないのです。ただ読んでいるのではなく、それ自体がメッセージになっています。5つの章全部を、説明を加えながら1時間かけて読むのです。周りを見回してみると、会衆はまさにエレミヤ書の真ん中に導かれているようです。</p>
<p>帰りの車の中で妻と話しながら、互いに不思議な感覚に包まれていました。そのエレミヤ書の5つの章の流れが生き生きと残っているのです。それでいて新しい発見があるのです。チャック・スミスの説明はその記憶を助けてくれます。楽しそうに説明し読んでいる彼の声がいつまでも心に残っています。チャック・スミスはただ、創世記から黙示録までをこのように今に至るまで何度も繰り返しているだけです。彼の聖書理解には全面的に納得できないものがありますが、そんなことを越えて神を讃え、みことばに耳を傾ける豊かな時をいただきました。</p>
<p>上沼昌雄記</p>
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		<title>「パウロの観たクリスマス」2011年12月15日（木）</title>
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		<pubDate>Wed, 21 Dec 2011 04:12:21 +0000</pubDate>
		<dc:creator>DRUenuma</dc:creator>
				<category><![CDATA[神学モノローグ]]></category>

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		<description><![CDATA[神学モノローグ 両親の住まいから数ブロック離れた街路樹に、数年前から、この時期になるとイルミネーションが取り付けられて、家々のクリスマス・デコレーションとあわせて、このシーズンの雰囲気をもり立てている。その範囲が年々広がってきて両親の家の近くの街路樹にも取り付けられ、窓からも見えるようになった。そんなことが地元の新聞に報道されて、毎晩のように見物人が訪れている。教会では先週の土曜の夜に2時間近いクリスマス・コンサートを催していた。正装した聖歌隊に、近くのカレッジの合唱団も加わって、聞き慣れた降誕祭の曲を見事に歌い上げていた。 年をとったためにへそ曲がりになったのか、元々そうなのか、ともかくパウロのユダヤ性を考えるようになって、はて、あのパウロがこのクリスマスを観たとしたらどんな思いになっただろうかと、そんな問いかけが繰り返し出てきた。確かにルカ福音書に書かれているように、御子の誕生を喜ぶことは聖書の示しているとおりである。その降誕祭が西洋のキリスト教会で大きな意味をもってきた。まったく同じようにパウロも理解していたと勝手に思ってしまう。果たしてそうなのだろうかと考えてしまう。 パウロのキリスト理解の枠はローマ書の初めに良く出ている。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、、、公に神の御子として示された方」（1章4節）、これが福音であるという。この枠はピリピ書の2章のいわゆる「キリストの謙卑」と言われるところでも明確に表されている。キリストは、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、、、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」（7，8節）こと、それに報いるように「神は、キリストを高く上げて」（9節）くださった。 すなわち、受肉と十字架と復活がしっかりと結びついている。切り離されていない。降誕節だけが突出してはない。しかも、復活で神の子として公に示されたというのは、パウロ自身の体験にも深く結びついている。その始まりがダビデの子孫として生まれキリストである。まさにユダヤ人であることに根付いている。自分と同じ民である。そのキリストが復活を通すことで神のこと公に示された。この受肉と復活、その中に十字架をみるという枠がパウロの中でいつも生きている。 この枠がしっかりとしているので、その先を引き延ばして、そのキリストがピリピ書では「神のみ姿にあられる方」（2章6節）と言い、コロサイ書では、「万物は御子にあって造られた」（1章16節）とまで言い、1コリント15章では、いわゆる第二のアダムとして捉えている。すなわち、ダビデの子孫として生まれ方が、第二のアダムとして遣わされたと観ていく。 第一のアダムのゆえになしえなかったことを神はご自分の御子を通してなされたと捉える。 ローマ書8章3節のパウロの受肉論の神髄である。 何とも強靱な思考である。 同じことがコロサイ書でも繰り返されている。「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」（1章22節）パウロにおいて受肉と十字架はすぐそばである。すなわち、ダビデの子孫として生まれたキリストは、私たちのために十字架にかかるためであった。十字架の死を受肉のすぐ向こうに見ている。それゆえに、受肉はなんと言っても厳粛なことである。 取りも直さず、受肉はまさに自分の罪のためである。自分の罪であり、全人類の罪である。私たちの身代わりとなるために生まれたのである。その意味では、御子の誕生は喜んでいられない悲壮なものである。十字架をすぐそこに見ているので降誕だけを切り離して喜んでいるわけに行かない。しかし、その十字架の死の向こうに勝利を観ている。そこで初めて受肉の目的が完成する。喜びをようやく覚える。 2千年の西洋の教会で捉えられてきたものが主導になって、その上で聖書を見ていく。それが聖書のすべてだと思ってしまう。避けられないと言えば避けられない。それでも、そうでない面がある。教会があまりにも西洋的な思考に動かされてきたためなのではないだろうか。聖書のなかのユダヤ的な面を真剣に捉えたら見落としてきたものが多くあることに気づく。街路樹に輝くクリスマス・イルミネーションを観て、教会のクリスマス・コンサートの場に居合わせて、パウロは居心地の悪さを感じていた。 上沼昌雄記<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=druenuma.wordpress.com&amp;blog=19023884&amp;post=340&amp;subd=druenuma&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>神学モノローグ</p>
<p>両親の住まいから数ブロック離れた街路樹に、数年前から、この時期になるとイルミネーションが取り付けられて、家々のクリスマス・デコレーションとあわせて、このシーズンの雰囲気をもり立てている。その範囲が年々広がってきて両親の家の近くの街路樹にも取り付けられ、窓からも見えるようになった。そんなことが地元の新聞に報道されて、毎晩のように見物人が訪れている。教会では先週の土曜の夜に2時間近いクリスマス・コンサートを催していた。正装した聖歌隊に、近くのカレッジの合唱団も加わって、聞き慣れた降誕祭の曲を見事に歌い上げていた。</p>
<p>年をとったためにへそ曲がりになったのか、元々そうなのか、ともかくパウロのユダヤ性を考えるようになって、はて、あのパウロがこのクリスマスを観たとしたらどんな思いになっただろうかと、そんな問いかけが繰り返し出てきた。確かにルカ福音書に書かれているように、御子の誕生を喜ぶことは聖書の示しているとおりである。その降誕祭が西洋のキリスト教会で大きな意味をもってきた。まったく同じようにパウロも理解していたと勝手に思ってしまう。果たしてそうなのだろうかと考えてしまう。</p>
<p>パウロのキリスト理解の枠はローマ書の初めに良く出ている。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、、、公に神の御子として示された方」（1章4節）、これが福音であるという。この枠はピリピ書の2章のいわゆる「キリストの謙卑」と言われるところでも明確に表されている。キリストは、「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、、、死にまで従い、実に十字架の死にまで従われた」（7，8節）こと、それに報いるように「神は、キリストを高く上げて」（9節）くださった。</p>
<p>すなわち、受肉と十字架と復活がしっかりと結びついている。切り離されていない。降誕節だけが突出してはない。しかも、復活で神の子として公に示されたというのは、パウロ自身の体験にも深く結びついている。その始まりがダビデの子孫として生まれキリストである。まさにユダヤ人であることに根付いている。自分と同じ民である。そのキリストが復活を通すことで神のこと公に示された。この受肉と復活、その中に十字架をみるという枠がパウロの中でいつも生きている。</p>
<p>この枠がしっかりとしているので、その先を引き延ばして、そのキリストがピリピ書では「神のみ姿にあられる方」（2章6節）と言い、コロサイ書では、「万物は御子にあって造られた」（1章16節）とまで言い、1コリント15章では、いわゆる第二のアダムとして捉えている。すなわち、ダビデの子孫として生まれ方が、第二のアダムとして遣わされたと観ていく。 第一のアダムのゆえになしえなかったことを神はご自分の御子を通してなされたと捉える。 ローマ書8章3節のパウロの受肉論の神髄である。 何とも強靱な思考である。</p>
<p>同じことがコロサイ書でも繰り返されている。「今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。」（1章22節）パウロにおいて受肉と十字架はすぐそばである。すなわち、ダビデの子孫として生まれたキリストは、私たちのために十字架にかかるためであった。十字架の死を受肉のすぐ向こうに見ている。それゆえに、受肉はなんと言っても厳粛なことである。</p>
<p>取りも直さず、受肉はまさに自分の罪のためである。自分の罪であり、全人類の罪である。私たちの身代わりとなるために生まれたのである。その意味では、御子の誕生は喜んでいられない悲壮なものである。十字架をすぐそこに見ているので降誕だけを切り離して喜んでいるわけに行かない。しかし、その十字架の死の向こうに勝利を観ている。そこで初めて受肉の目的が完成する。喜びをようやく覚える。</p>
<p>2千年の西洋の教会で捉えられてきたものが主導になって、その上で聖書を見ていく。それが聖書のすべてだと思ってしまう。避けられないと言えば避けられない。それでも、そうでない面がある。教会があまりにも西洋的な思考に動かされてきたためなのではないだろうか。聖書のなかのユダヤ的な面を真剣に捉えたら見落としてきたものが多くあることに気づく。街路樹に輝くクリスマス・イルミネーションを観て、教会のクリスマス・コンサートの場に居合わせて、パウロは居心地の悪さを感じていた。</p>
<p>上沼昌雄記</p>
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		<title>「踏みつけられている妻について」2011年12月9日（金）</title>
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		<pubDate>Thu, 08 Dec 2011 22:35:57 +0000</pubDate>
		<dc:creator>DRUenuma</dc:creator>
				<category><![CDATA[ウィークリー瞑想]]></category>

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		<description><![CDATA[11月29日付の「足蹴にされている/踏みつけられている」の記事に関して、踏みつけられていると訴えられている夫から以下の文章をいただきました。如何様にでも使ってくださいと言うことですので、ほとんどそのまま掲載いたします。 ＜私自身は未だに「踏みつけている」ことの内容を充分に理解できません。特に言動においては「そんなひどいことを言ったけ？」という感じです。「それが踏みつけている証拠！」と言われそうですが。 ただ、ずっと「彼女の人生って、いったい何なのだろうか。」と考え続けています。特にふたりだけの生活になってから、それを強く意識するようになりました。彼女は私から見て、多くの才能を持っていると思います。文章も話術も私よりは秀でています。加えて、病弱であったことで身につけた独特の処生観があります。死の崖っぷちを経験したことで、不思議な度胸も持ち合わせています。「私の妻であることに終わらず、何か彼女なりの生き方ができれば。」と思ってきました。「君独自のミニストリーを見つけたらいいよ。」と言ったこともあります。 しかし、彼女は「あなたのミニストリーを離れては、自分のミニストリーを考えることができない。」と言います。そして、私は日を追うにつれてそのことが深く心に入って来るようになりました。「夫の妻」「牧師の妻」であるよりも「自分自身」でありたいと思いつつ、それらは分かちがたく彼女の生活に入り込んでいる。そして、妻は夫の「自分探し」にずっと振り回されて行く。「彼女の人格」と言った時に、そのことが深く関係しているように思います。＞ 　そしてしばらくして次のような体験を記してくれました。 ＜さて、あれ以来「踏みつけられている妻」について、色々考えています。そこで、あらためて彼女に「どんな時に、踏みつけられているって感じるの？」と聞いてみました。彼女の挙げた例は次のようなものでした。 「私がＣＤを聴きながら夕食の準備をしている。そこに、あなたが『ただいま』と帰って来て、テレビをつける。すると私は『ああ、テレビが見たいんだな』と思い、黙ってＣＤのスイッチを切る。別にどうしても聴きたいわけではないから、それで少しも構わない。でも、よく考えてみると、私がＣＤを聴いていることに気づいて、『テレビ、つけてもいい？』という一言があってもいいんじゃない。それなら、『どうぞ、どうぞ！』って、もっと気持ちよくスイッチが切れるはずなのに。怒ってるわけじゃないし、自分でも『どうでもよいこと』と思うけれど、そんな時、やっぱりどこかで『私』の存在が無視されているような気がするの。」 こう言われて、私も少し分かったような気がします。粗暴な言動に傷ついているわけでもないし、先日ちょっと申し上げた「彼女自身のミニストリー、生き方」というような大問題でもなく、日常の、男性が気づかないで終わっている些細な事柄が心に引っ掛かっているのかもしれません。そして、その「些細」な事柄も、どこかで「彼女の生き方」に深く結びついているのかもしれません。 昨日も一緒に出かけました。結構あたたかな午後でした。途中で銀行に立ち寄り、彼女は車の中で私を待つことになりました。車内が充分暖まっているようでしたので、私は「無意識」にエンジンを切り外に出ました。出てしまった後で、「ああ、これか！」と思ったのです。こんな時に、「エンジン、切っておいてもいい？」と一言聞けばいいんだよな。そう思いつつも、あえて車に戻って確かめようとはしませんでした。どうやら、これからも「あなたは私を踏みつけている！」と言われ続けるような気がします。＞ 上沼昌雄・責任編集<img alt="" border="0" src="http://stats.wordpress.com/b.gif?host=druenuma.wordpress.com&amp;blog=19023884&amp;post=338&amp;subd=druenuma&amp;ref=&amp;feed=1" width="1" height="1" />]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>11月29日付の「足蹴にされている/踏みつけられている」の記事に関して、踏みつけられていると訴えられている夫から以下の文章をいただきました。如何様にでも使ってくださいと言うことですので、ほとんどそのまま掲載いたします。 ＜私自身は未だに「踏みつけている」ことの内容を充分に理解できません。特に言動においては「そんなひどいことを言ったけ？」という感じです。「それが踏みつけている証拠！」と言われそうですが。 ただ、ずっと「彼女の人生って、いったい何なのだろうか。」と考え続けています。特にふたりだけの生活になってから、それを強く意識するようになりました。彼女は私から見て、多くの才能を持っていると思います。文章も話術も私よりは秀でています。加えて、病弱であったことで身につけた独特の処生観があります。死の崖っぷちを経験したことで、不思議な度胸も持ち合わせています。「私の妻であることに終わらず、何か彼女なりの生き方ができれば。」と思ってきました。「君独自のミニストリーを見つけたらいいよ。」と言ったこともあります。 しかし、彼女は「あなたのミニストリーを離れては、自分のミニストリーを考えることができない。」と言います。そして、私は日を追うにつれてそのことが深く心に入って来るようになりました。「夫の妻」「牧師の妻」であるよりも「自分自身」でありたいと思いつつ、それらは分かちがたく彼女の生活に入り込んでいる。そして、妻は夫の「自分探し」にずっと振り回されて行く。「彼女の人格」と言った時に、そのことが深く関係しているように思います。＞ 　そしてしばらくして次のような体験を記してくれました。 ＜さて、あれ以来「踏みつけられている妻」について、色々考えています。そこで、あらためて彼女に「どんな時に、踏みつけられているって感じるの？」と聞いてみました。彼女の挙げた例は次のようなものでした。 「私がＣＤを聴きながら夕食の準備をしている。そこに、あなたが『ただいま』と帰って来て、テレビをつける。すると私は『ああ、テレビが見たいんだな』と思い、黙ってＣＤのスイッチを切る。別にどうしても聴きたいわけではないから、それで少しも構わない。でも、よく考えてみると、私がＣＤを聴いていることに気づいて、『テレビ、つけてもいい？』という一言があってもいいんじゃない。それなら、『どうぞ、どうぞ！』って、もっと気持ちよくスイッチが切れるはずなのに。怒ってるわけじゃないし、自分でも『どうでもよいこと』と思うけれど、そんな時、やっぱりどこかで『私』の存在が無視されているような気がするの。」 こう言われて、私も少し分かったような気がします。粗暴な言動に傷ついているわけでもないし、先日ちょっと申し上げた「彼女自身のミニストリー、生き方」というような大問題でもなく、日常の、男性が気づかないで終わっている些細な事柄が心に引っ掛かっているのかもしれません。そして、その「些細」な事柄も、どこかで「彼女の生き方」に深く結びついているのかもしれません。 昨日も一緒に出かけました。結構あたたかな午後でした。途中で銀行に立ち寄り、彼女は車の中で私を待つことになりました。車内が充分暖まっているようでしたので、私は「無意識」にエンジンを切り外に出ました。出てしまった後で、「ああ、これか！」と思ったのです。こんな時に、「エンジン、切っておいてもいい？」と一言聞けばいいんだよな。そう思いつつも、あえて車に戻って確かめようとはしませんでした。どうやら、これからも「あなたは私を踏みつけている！」と言われ続けるような気がします。＞ 上沼昌雄・責任編集</p>
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