「時の境界線上で」

ウイークリー瞑想
2005年7月18日(月)
 先週JCFNの理事会が、昨年デンバーから引っ越してきたロング・ビーチでありました。会議後に日本から来られた人たちと一緒にニューポート・ビーチに行きました。岬の突端のレ
ストランで潮風に吹かれながら朝飯を食べ、また海辺を少しだけ歩きました。JCFNは太平洋を挟んだ日本人の留学生、企業関係の家族のための働きです。大きな大きな海を挟んで行き来する日本人の
ための働きです。日本人のための働きですが、場としての境界線がなくなってきています。
 

 そのあとサンディエゴ方面の海辺でキャンプをしている妻の親戚を訪ねました。ひとりでキャンプ場を下
りて海辺に出てみました。サーフィンをしている人たち、海辺で戯れている子どもたちを見ながら、靴を脱
いでしばらく海辺を歩いてみました。寄せてくる波と砂浜との間を見つめながら歩きました。その境界線は絶え間なく寄せてくる波でいつも変化しています。地図のように境界線を引くことはできません。波の音が繰り返し響いてきます。途絶えることがありません。
 

 この3月に還暦を迎えました。60歳というイメージを描けないでいますが、妻の病を含めて自分と自分
の周りが大きく変化しているのを見て、時の流れのなかに自分がいることが分かります。海の波
のように時が押し寄せてきます。時には大凪になります。多くの場合には誰からも忘れられたように静
かに押し寄せてきます。波の乗りを楽しませてくれます。波の向こうの海を見ながら、これから迎える自分の未来を思います。
 
 カイロスとクロノスと表現されている神の時について神学校で論文を書いたの
を思い出しました。歴代記のようにまさに歴史の流れを支配している神であり、「時がついに満ちて」(エペソ1:10)と言
われているように大切な時をも支配している神であることを知らされています。私の生涯を神の物語
として見守っていてくださるお方であり、私のある時をもご存知であるお方です。
 

 私はその時をすべて把握できません。むしろほとんど捉えられません。しかし変化には気が付きます。取り巻いている環境が代わり、人との関わりの空気が代わり、子どもたちの成長にともない新しい風が吹き込んでいます。国際情勢の変化も感じます。いままでと同じではありません。
繰り返しが効きません。対応が求められます。
 

 海辺を歩きながら時の境界線上にいることを思わされました。「境界線」という本のことも思いました。「海辺のカフカ」という小説のことも思いました。今日は夕刻にひとりの理事の経営されているレストランでミニストリーの今年度の理事会です。
 
上沼昌雄記
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