「神学の認識論」

神学フォーラム
2004年7月26日(月)
 今回の日本訪問は、15年ぶりに里帰りできた次女の泉の日本見物の案内が主目的であった。泉は歴史を専攻していたこともあってか、日本の古い建物を時間をかけてゆっくりと観ていた。特定の何かに関心があってのことではなくて、その中にいるのが居心地がよさそうな感じであった。何百年という時間を隔たりを異物としてでなく、自分のからだの一部のように受け止めていた。泉の中には自分の外のもの、空間的でも時間的でも自分の外部のものと溶け込んでしまうようなところがある。元もと自分のものであったような感じで違和感なしに受け止めていく。違いを異質なものとして身構えていくことがない。親の子とは思えない。
 最後の数日は宣教師の義弟の子どもたち、すなわち従姉妹たちと一緒に過ごしたので私は解放された。それで94歳になられる大村晴雄先生をお訪ねした。暑さでしばし体調を崩されていたと言う。よく来てくれたというのか、先生の方も話したいことがあるというのか、いままでの話の延長があるというのか、ともかく老人を表敬しているという意味合いではない。私のなかでも不思議にようやく大村先生と神学と哲学の違いを前提にお話ができるようになった感じている。現実には耳が少し遠くなられたので、私が短く意見を述べてそれに先生がご自分の思索を語るというやり取りである。意見や所感ではなくて思索である。キリスト者として哲学をされてきた思索である。いのちがかかっている思索である。
 いままでの会話で明確にされた視点がある。哲学的にはプロテスタントは認識論であり、カトリックは存在論である。プロテスタントの精神は、知ることの主体、すなわち、認識の主体を神の光で批判的に再考していくことである。その意味では近世哲学はプロテスタント精神の遺産である。プロテスタントの哲学者である大村先生の立脚点である。知れ得ないことの限界を悟り、知り得ることの恵み生きることである。「キリスト以外は知るまい」と言い得る姿勢である。存在の類比と存在の推論でキリスト以外をも取り入れていくカトリックと決別している。
 大学で哲学を専攻し、その後神学に曲がりなりに関わっていて大村先生の視点にようやく納得できる。その分、自分が関わってきた神学に認識論があるだろうか疑問を持った。その疑問をお伝えした。返事は、「神学者で認識論をやっている人がいたら教えて」と言うものであった。唸らされた。プロテスタントの、しかも福音主義といわれる神学書でも、神学を取り扱っている自分の理性を批判的に再考しているものはない。聖書の文字の推論で神学を構築している。構築している理性の再考はない。聖書がそこまで語っていないことを論理で結論づけている。その結果それぞれの教派の神学が出来上がっている。それぞれの教派の前提が違う神学の強調点の違いがでてきている。その上で聖書を解釈して、異なった理解を排除している。全部を包み込んで大がかりにしているのがカトリックである。
 
 福音主義神学が神の前に提示し、それを持って聖書を取り扱う理性は自己の限界を批判的に観ている理性ではなくて、理性の自律を目指してきた啓蒙主義を通しての理性である。聖書がそこまでいっていないことも推論で推し量って結論を出せる理性である。聖書を体系づけることのできる理性である。大村先生は神学者の理性の暴走を哲学者として観ている。神の光のもとで理性の限界を見極めていく近世が日本で確立されていない。それで日本にはポスト・モダンはないという。モダンがないのでポスト・モダンもない。モダンはプロテスタント精神の遺産としての近世である。その意味でポスト・モダンはない。しかし現実はプロテスタント精神の遺産を忘れたモダンになっている。その意味でのポスト・モダンが課題である。
 「神学者で認識論をやっている人がいたら教えて」と言われた後に続けて言われた。それをやるのにはかなりの哲学的素養が必要であると。聖書を取り扱う自分の理性の批判である。神学や説教で知的能力があり、論理的に組み立てられる人が有能という神学教育のなかでは理性批判はでてこない。同時に福音主義神学でもそのような神学教育の限界を感じてきている。聖書の限界ではなくて、福音主義神学の限界である。この限界に気づくと、聖書が語っていることとそれを取り扱う理性の境界線が見えてくる。神学における認識論の再考になる。
 霊的識別力としての直感について大村先生と2,3回話してきた。すなわち、神のことで理性でも感情でもないところで納得できるときがある。聖霊によることであるが、私たちの能力としては直感が一番近いように思う。聖霊によって気づかされて、自分のうちで気づいて納得することである。聖霊によるのか単なる直感によることなのかは分からない。時間だけが明らかにしてくれる。大村先生の反応は、西田幾多郎のなかに「自覚における直感と反省」とか「行為的直感」というのがあるということだけである。それでこの数ヶ月西田幾多郎のものを漁ってみた。ベルグソンに「哲学的直感」というのがあってそこからヒントを得ている。哲学の認識論としても直感のことが困難なテーマであることが分かる。
 西田幾多郎やベルグソンを自己流に解釈して霊的識別力としての直感について次のように考えている。すなわち、聖書を通してご自分を啓示されている神には霊的祝福が溢れている。多くの場合にこちらで条件付けをして、これこれをしたらば祝福をいただけると思ってしまう。しかし神の愛は無条件である。その意味での神の恵みの所与性のなかに置かれいる。どのようにして気づくことができるのか。そこには外的な要素は必要ない。学歴も信仰歴も、年齢も性別も、牧師も信徒も、外なる人としてのことはいっさい関わらない。「内なる人」としてのことである。ある人はその恵みに気づき、ある人は気づかない。プログラムとしてこうしたら気づきますと言うものがない。全く個人的に気づく以外にない。まさにその人の直感である。気づいて開かれた世界は神のものなので共有できる。
 おそらく自分で気づかされたことを遡っていくことで、ダビデやパウロが恵みに気づいていったこととの共有体験ができる。多くの場合に困難や試練や罪を犯すことによって自分の置かれている姿に気づかされることで開かれてくる。自分の「内なる人」を見せられることでなお恵みの中に置かれていることを実感できる。困難や試練や罪のことは不思議にキリストの十字架との共有感覚をもたらす。成功談は自分だけの世界に入ってしまうが、失敗談は共有感覚をもたらす。負の世界は自分を見せてくれる。自分の殻を破って恵みの世界と結びつけてくれる。キリストの受難は恵みの世界を開かせてくれる。
 ダビデやパウロが恵みに生かされていることに気づいていった道を辿ってみると、神学の認識論が開かれてくる。もちろん学としての認識論を語っているわけでない。気づかされた自分の物語を語っている。直感のことは個人的な世界である。しかしどんなに個人的であっても気づかされた世界は神の世界である。その意味で直感は個人的であるが、普遍的でもある。それゆえに、自分で気づかされた世界とダビデやパウロの気づかされた世界が結びついてくる。物語神学の可能性である。物語でありながら普遍性を備えている。聖書が物語の積み重ねで書かれていながら、その中に自分の物語との接点を見いだせる故である。
 自分の物語と神の物語が見事に結びついてる神学がアウグスティヌスの『告白』ではないでしょうかと大村先生に申し上げた。背筋をまっすぐに伸ばしてただごとでないという感じで「それはどういうこと」と聞いてこられた。前半で自分のことを語っていながら、後半で神のことを語ることができるのは、後半の初め、すなわち10巻でアウグスティヌスが記憶のことを取り上げているからではないでしょうかと返事をした。7月7日付のウイークリー瞑想「思い起こす、想起」で書いたことである。それこそ神学における認識論であると言わんばかりに大村先生が関心を持って下さった。アウグスティヌスの記憶論は11巻の時間論より大切で、カントの認識論に結びつくと言われた。
 アウグスティヌスがこの11巻の18章でルカ15章の一枚の銀貨をなくした女性の話を取り上げている。ロストコインである。失ったものを記憶しているので気づく。人生で大切なものを失い、損なってきた。それはないのではなく、記憶のうちにある。その失ったもので最も大切なものが神である。神を失っている記憶である。自分のなかのロストコインを見いだす作業は神に至る。自分を知ることが神を知ることになる。自分の物語と神の物語である。
 神学の存在論、すなわち、三位一体の神の啓示のあり方は2千年の教会の歩みのなかで提示されてきた。その神の恵みと祝福を知り、生かされている神学の認識論を再考するときが来ている。神学と霊性の調和である。命題的真理と物語的真理の融和である。
 暑かった東京の午後のひととき、94歳の老師の熱い心をひしひしと感じた。神学の営みもまだ途上に過ぎない。

上沼昌雄記

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「「神学の認識論」」への1件のフィードバック

  1. このアーティクルに感銘いたしました。自分も最近、言いたいことを言わないでいることに気づきました。偶然に思っていたことではないと思います。先生がかかれているこの文章をみて唖然としました。いつもありがとうございます。

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