「医師」2005年9月26日(月)

 先週末に妻の退院後の検診がありました。集中治療室に入ったときの医師でした。大学病院なので、隣にあるクリニックも交代で担当していると言うことです。インドから来られた女医です。妻が元気になっているのを自分のことのように喜んでくれました。血液の中の酸素の量を調べて、酸素呼吸はいらないと言ってくれました。瞳の結婚式に酸素ボンベなしに行くことができます。

 集中治療室に入ったときには人工呼吸装置を付けないといけないかも知らないという状態でした。ともかくその前にできるだけの治療をしてみようと決めていった、医師としての心の格闘を語ってくれました。小柄な落ち着いた医師です。治療の効果が出始めたときにも嬉しそうな笑みを浮かべてくれました。
 この一年と少し、いろいろな医師と出会いました。それぞれ専門医です。専門の分野から意見を述べてくれました。その態度はどなたもプロに徹していました。個人的な意見や感情を避けていることが分かります。それでも患者や家族のことに気を配っていてくれのが、不思議に伝わってきます。この医師が妻の家族をみて、何とか助けられればという思いをもったこと語ってくれました。
 妻のベットの向こう側で、ひとりの方が奥様や子どもさんに囲まれて召されていきました。担当の医師が丁寧に静かに病状を説明していました。インドの女医の後にその医師が妻の担当にもなりました。妻の肺高血圧症の治療をしてくれました。物静かな方です。大学の教授でもあります。折々に私たちにも語りかけてくれました。人として語りかけてくれていることが分かります。生と死の境に患者と家族が置かれていて、そのなかでの医師の責任と姿勢は厳粛なものがあります。神に代わって立ち会っていることが分かります。
 秋田大学の耳鼻科の教授の友人が、妻のために国際学会での知り合いのアメリカの脳神経科の専門医を紹介してくれました。すぐに診ていただくことができて、その面での問題はないことが分かりました。妻の病状を説明してメールを送るのですが、医学的なことと同時に、私のこと家族のことも含めて、一生懸命励ましてくれました。どちらが牧師なのか分からなくなりましたとメールを送りました。
 いまネパールで医療活動をしている医師ご夫妻と、この5月に日本で長男義樹も入れて一緒に時を過ごしました。妻の病状を説明いたしました。黙って聞いてくださいました。医学的な意見は何も言われませんでした。それでも私たちのことを心にかけていてくださることが分かります。それで充分でした。
 大阪の警察病院で医師をしている友人が、お嬢さんを夏休みでロスに連れて来られた折に、妻を病院にまで見舞ってくれました。義樹も来ていました。海軍兵学校の時にこの医師が義樹を訪ねています。遠来の見舞客に家族が大きな励ましをいただきました。
 イエスの生涯の記録のために医者ルカを用意されたというのは、神の深い意味があるのだろうと改めて思わされています。

 上沼昌雄記

「婚礼の日、心の喜びの日のために」2005年9月19日(月)

 長女瞳の結婚式が3週間後に迫ってきました。妻は日ごとに力をいただいて、シカゴでの式の参加の準備に取りかかっています。退院後一ヶ月は肺の回復のために酸素呼吸を必要としていますが、それからも解放されて元気で参加できることを願っています。妻のために多くの方が覚えてくださいました。感謝に堪えません。

 瞳と婚約者は当初7月の結婚式を予定していましたが、母親の病気の回復を願って10月に延期しました。母親のために何度かシカゴから飛んできて、具体的に助けてくれました。その姿を見て、ひとりの成熟したおとめとして自分の婚礼を迎えようとしていることが分かりました。
 「婚礼の日、心の喜びの日のために」とは、雅歌の3章11節のことばです。雅歌は花嫁と花婿の相聞歌ですが、この箇所は婚礼の歌と言われています。雅歌を男性の立場で読むのか、女性の立場で読むのかで受ける感度は随分違うのだと思います。私は男性としての感度でしか読おとめの若人を慕う思い、婚礼へのあこがれは感じます。
 ふたりが昨年の暮れに私たちのころに来てくれました。サンフランシスコに彼のお姉さんがいて尋ねると言うことでした。その郊外にいるミニストリーの理事ご夫妻を紹介しまし
た。喜んで泊めてくださるということでした。出かける前に、そのとき物置の建設を彼といっしょにしたのですが、一時仕事を休んだときに、彼が私に瞳との結婚の承諾を求めてきました。その思いを伝えたのは私が初めてですと言われました。妻にも黙っていました。
 サンフランシスコから帰ってくるときに瞳から婚約したと電話がありました。波止場で彼がポロポーズをしてシャンペンでお祝いしたと言うことです。それを聞いた妻が私にいつ彼が父親の承諾を求めたのかと聞いてきいてきました。そして推測して分かったようです。どうして自分に言わなかったのかと嬉しそうに問いつめてきました。それでよかったのだと子どもたちが後押ししてくれました。
 そんなふたりの結婚式に、サンフランシスコ郊外でふたりを泊めてくれたご夫妻が文字通り花を添えてくれることになりました。奥様はフラワー・デザイナーです。シカゴまで来
てふたりのためにお花を準備してくださるといくことです。このご夫妻は20年以上前にご主人の出身の青森に帰っていたときに、次男の方をねぶたまつりの日に交通事故で亡くされました。奥様はフラワー・デザインをその子どもさんの召天を契機として始めたと言うことです。
 自分の娘が嫁にいくかのように、わざわざシカゴまで来てくれます。婚礼の喜びの輪を広げてくれます。花を添え、色を付け、香りを放ってくれます。それはこのご夫妻の心の深いところにある悲しみと感謝の思いから出てきていることが分かります。その恵みと祝福を瞳がいただけることに感動しています。

 上沼昌雄記

「教会ストライキ」2005年9月5日(月)

神学モノローグ

 この春に礼拝がキャンセルされるという事態が私たちが出席している教会で生じたことを、前に書いた。その後過半数の人からの牧師辞任の嘆願書が出された。しかし臨時総会で牧師を支援する数人の人の強硬策でもみ消されるかたちになった。嘆願書に署名した人たちは行き場を失ってしまった。「老婦人の涙」という記事でその状況を紹介した。

 その後誰が決めたわけでもないが、別なグループを作ったり、法律に訴えたりすることなく、静かに神の義がなされことを待とうという同意がなされた。礼拝に出席しない、献金をしないという暗黙の了解がなされた。その間、ある人は別の教会の礼拝に出席し、ある人は家で静かに個人的に礼拝を守ってきた。それをある人はチャーチ・ヴァケイションと呼び、ある人は教会ストライキと呼んだ。
 過半数の人の献金が止まったために、宣教支援ができなくなってしまった。私のミニストリーの支援をストップするいう牧師の手紙が届いた。私を非難するだけの内容のものだと、日本で奉仕をしていたときに妻が伝えてきた。私も教会ストライキ状態なので、何もしないで様子を見ることに決めた。
 4ヶ月経って、臨時総会でもみ消しを計った方から、自分の認識不足を認めるメールが届いた。牧師からの私への手紙を読みたいというのでファクスした。牧師の霊的傲慢さ、不真実さ、偏った教えにようやく気づいたと率直に認めてきた。過半数の人はそのことに気づいたので嘆願書を提出しただけであった。この方とは、16年前に同じ時期にこの山に移ってきて家族ぐるみで親しくしてきたので、友情関係が危機に瀕することにもなった。
 一時支援していた人が不誠実さに気づいたために牧師は辞める以外になかった。辞表が提出された。事態が収拾することを願う。まだいくつかのハードルを越えなければならない。教会はヴィリッジ・ミッションという団体に属していて、牧師は派遣されてきていたために、その対応もある。
 私たちは妻の闘病のために町を離れていたので、祈りながら待つだけであった。同じ町に住んでいる人は自分の教会がそこにあっても行けないという苦渋を味わってきた。しかし神の真実を信じて、じっと待ってきた。ピケを張ったわけでもなく、声明文を出したわけでもない。待つだけのストライキであった。そしてストライキ解除である。教会生活での初めの経験である。計画したわけでない。推薦できることでもない。成り行き上、教会ストライキになっただけである。それでよかったと思う。

上沼昌雄記