「霊の祭典」2005年10月26日(水)

ウイークリー瞑想

  昨日まで北加日本人クリスチャン・リトリートが、スタンホード大学の近くのカトリックの施設を借りてありました。この数年はこの時期に日本で奉仕をしていましたので、しばらくぶりに参加することができました。北加というのは北カルフォルニアのことです。サンフランシスコ、バークレー、サンフォゼ、サクラメント、フレスノを中心に30ほどの日本人教会があります。27の教会から150名の参加をいただきました。講師は日本からの村上宣道先生でした。

 リトリートはこの十数年少しずつ参加者が増えてきました。元々は戦前からあったリベラルの教会の流れをもっていたために、福音的な二つの団体が参加を拒否してきました。サクラメントの荒井牧師がキリストにある一致を求めて、北カルフォルニアの日本人教会、クリスチャンを忍耐をもって励ましてきました。いずれは消えてしまうのではないかと思ったこともあります。今回参加して大きく飛躍していることが分かりました。驚きました。

 荒井牧師が最後の日の早朝祈祷会で、北カルフォルニアで結構随分の教派があるのですが、その違いを越えてほとんどの教会からの参加者をいただき、心をひとつにして賛美し礼拝をささげていることを、「霊の祭典」と表現されて感謝の祈りをささげました。お祭り騒ぎのように浮かれているわけでありませんでした。メッセージを通して参加者が静かに神に聞いていることが分かりました。それを霊の祭典と言われて、なるほどと思いました。

 リベラルの教会を母体に始まったことなので今でも参加を拒否している牧師もいるようです。現実にはそのような教会から信徒が参加しています。このリトリートには何かを惹きつける霊的な魅力があります。決してある方向に参加者を導こうとしているような力ではありません。むしろ示され気づかされたことにそれぞれが進んでいく喜びと自由です。御霊の自由です。自由ですので各自の思いのまま動いています。それでいながら御霊に導かれているので、教派でも、教会でも、講師でも、奉仕者でもなく、神に向いていることが分かります。

 霊の祭典に参加することで、神の国での私たちの集まりを想像することができます。この地上での教派や教会の違いが消えます。キリストにあって生かされている恵みを共に感謝できます。御霊の自由をより深く経験します。霊的な魅力が際だってきます。参加者が輝いてきます。救いにあずかる人が起こされます。恵みのサプライズが増えてきます。地上での苦しみにまさる恵みの豊かさを想像できます。今までの人生を感謝できます。神の家族の一員であることをうれしく思います。

 牧師や指導者は自分の教派や教会の教えが一番正しいと思うので、違いを大切にします。信徒はそれよりも霊の祭典を求めます。霊的に何が真実なのかを見極めています。それを聞きつけて集まってきます。そのような場を提供していく責任があります。北カルフォルニアで日本人クリスチャンが霊の祭典を体験しています。神が何かをなそうとされていることを感じます。

上沼昌雄記

「そら、花婿だ。迎えに出よ。」2005年10月12日(水)

ウイークリー瞑想

 

 祭壇の前で待っている花婿のところに、家族と親戚と友人が見守っている中を、結婚行進曲に合わせて、娘を連れていくことを初めて経験しました。花婿のところに喜んで向かっている娘の心が伝わってきました。花婿と一緒になることを切に願っている思いを感じることができました。そのように娘を送り出すことができる喜びをも知ることができました。この時のために共に生かされてきたことが分かりました。

 

 イエスが神の国を語るときに、結婚式と披露宴をたとえとして用いていることが何となく分かるような気がしました。「そら、花婿だ。迎えに出よ。」(マタイ25:6)というのもその一つの表現です。花嫁が花婿を慕い求める思いの深さを、神の国での出来事として用いています。花婿と花嫁がひとつとされること、神の国でキリストと私たちが一つとされることをパラレルに見ていることが分かります。13世紀のリュースブルグという人はこのマタイ福音書のことばから『霊的な婚姻』という本を書いています。

 

 娘がこの人ですと言って来たときの心と思いの確かさが、結婚式でよく分かりました。その人とひとつになることが自分の人生であることに納得していることを、そのまま受け止めることができました。結婚式は、花婿が花嫁を迎えるようなかたちですが、よく見ると、花嫁が花婿を迎えに出かけてきている式でもあることが分かります。家族や親戚や友人たちの前で、そこから出ていって花婿を迎え、ふたりがひとつなるための式です。

 

 花婿の家族、親戚、友人たちとの交わりをいただいて、彼が深い信頼をもって受け入れられていることが分かりました。神への信頼で家族が結ばれていることを知りました。娘を心から歓迎していてくれることが分かりました。安心して娘を任せることができます。私たちにもさらに花婿の家族と親戚の輪が加えられました。

 

 妻の家族と親戚も、日本にいる宣教師の家族を除いて、全員参加してくれました。お花のためにサンフランシスコ郊外から来てくれた姉妹と友人、私たちの教会から来てくださったご家族と友人、義樹の海軍兵学校からの友人で海軍の特殊部隊のキャプテン、シカゴでの二組の牧師ご夫妻と友人が参加してくれました。私たちの交わりの多様さに、花婿の家族・親戚の方が驚いていました。

 

 その人たちが見守っているなかを、花婿を迎えに出かけている娘を連れて歩くことができました。花婿を迎えて新しい人生を始める娘を送り出すことができました。どこかで、花婿であるキリストの前に出ていく花嫁として送り出したような気がしています。  

 

 シカゴは私たちも結婚したところです。不思議な導きを感じています。風の町と言われるとおりに、冷たい風が吹き込んで来た日でしたが、温かい結婚式と披露宴のときを持つことができました。

 

上沼昌雄記

「心と心の伝道」2005年10月3日(月)

神学モノローグ
 
 教会ストライキを終えて、何度か妻の両親の教会の礼拝に出席した。まだ若い牧師で、手真似をしながら言葉巧みに説教をする。プログラムや音楽も整っている。コミュニケーションのうまさと、パフォーマンスのすばらしさはアメリカの集会でもいつも感心させられる。アメリカの社会の顔になっている。政治も宗教も見せ物としては一流である。
 
 それでありながら、ある説教者の語ることに聴衆が共鳴し集まってくる。何によっているのか、アメリカの教会をみながらいつも関心を持ってみている。この牧師もリック・オーレンに心酔しているようで、似たような話をする。それでいながら明らかに違いがある。社会学的に調査しているわけでない。霊的な意味で関心がある。
 
 政治家でも、俳優でも、その人の語ることに惹きつけられるものを感じるときがある。私だけの感じなのでまったく直感的なことである。個人的なことである。でありながら、同じように何かを感じてその人のところに人が集まってくる。言葉の巧みさではない。その意味で、先日のロバーツ判事の最高裁長官就任のための上院での公聴会のやり取りを大変興味深く聞いた。
 
 そんなことを思い巡らしていたときに、不思議に神学校での特別講義を思い出した。カリフォルニアをベースに働かれていた豊留先生の「心と心の伝道」という一週間の講義であった。人の心に届くための実際的な手がかりとして、ひとつのことを語られた。電車の吊革につかまりながら、目の前に座っている人をじっと見つめて、その人の人生を思い描いてみるということであった。
 
 この一言で「心と心の伝道」の意味を自分なりに納得できた。ミニストリーで旅に出て、飛行場で、駅でじっと人を眺めることがある。先日は病院でじっと人を見つめてみた。ヨハネが「じっと見」(1ヨハネ1:1)と言っている。
 どうして豊留先生の言われたことを思い出したのか分からない。何かに引っかかって記憶が出てきた。じっと見つめてその人の心を思い見ることは、どこかで自分の心を見つめることなのだろうと思う。見つめてその人の人生を思い巡らすのは、結局自分の人生を思い巡らすことの延長線上で可能なのであろう。そのことで共通の世界が開かれてくる。その人の顔立ちや表情や雰囲気を見つめて、自分の経験を思い起こし、その人のことをさらに思い巡らすことになる。
 
 人を惹きつける説教は、説教者が結局自分に語りかけていることに、会衆が共鳴しているからであると思う。説教者が、会衆を見つめながら、自分の心を見つめているからである。会衆のために語っているのではない。自分に語りかけている。みことばを自分が一番必要としていることを知っている。聖書の世界に入っている。そこで楽しんでいる。説教者のこの心、神との語り合いに聴取が参加している。自然に神の世界に導かれている。そこには限界がない。自由がある。何千人と集まっていても、みことばと自分だけの世界を経験する。
 
 アラン・アルダという俳優がいる。古いテレビドラマで「マッシュ」というのがある。再放送を妻とよく見ている。仕草や語ることに惹きつけるものがある。最近自叙伝を出した。分裂症の母親の元で育ってきたと言う。心に深い苦しみをもっていることが分かった。その苦しみが俳優としての深みを与えているのであろう。次女の泉がワシントンポストのオンラインで、この水曜日に彼のインタビューをするという。
 
上沼昌雄記