「心と心の伝道」2005年10月3日(月)

神学モノローグ
 
 教会ストライキを終えて、何度か妻の両親の教会の礼拝に出席した。まだ若い牧師で、手真似をしながら言葉巧みに説教をする。プログラムや音楽も整っている。コミュニケーションのうまさと、パフォーマンスのすばらしさはアメリカの集会でもいつも感心させられる。アメリカの社会の顔になっている。政治も宗教も見せ物としては一流である。
 
 それでありながら、ある説教者の語ることに聴衆が共鳴し集まってくる。何によっているのか、アメリカの教会をみながらいつも関心を持ってみている。この牧師もリック・オーレンに心酔しているようで、似たような話をする。それでいながら明らかに違いがある。社会学的に調査しているわけでない。霊的な意味で関心がある。
 
 政治家でも、俳優でも、その人の語ることに惹きつけられるものを感じるときがある。私だけの感じなのでまったく直感的なことである。個人的なことである。でありながら、同じように何かを感じてその人のところに人が集まってくる。言葉の巧みさではない。その意味で、先日のロバーツ判事の最高裁長官就任のための上院での公聴会のやり取りを大変興味深く聞いた。
 
 そんなことを思い巡らしていたときに、不思議に神学校での特別講義を思い出した。カリフォルニアをベースに働かれていた豊留先生の「心と心の伝道」という一週間の講義であった。人の心に届くための実際的な手がかりとして、ひとつのことを語られた。電車の吊革につかまりながら、目の前に座っている人をじっと見つめて、その人の人生を思い描いてみるということであった。
 
 この一言で「心と心の伝道」の意味を自分なりに納得できた。ミニストリーで旅に出て、飛行場で、駅でじっと人を眺めることがある。先日は病院でじっと人を見つめてみた。ヨハネが「じっと見」(1ヨハネ1:1)と言っている。
 どうして豊留先生の言われたことを思い出したのか分からない。何かに引っかかって記憶が出てきた。じっと見つめてその人の心を思い見ることは、どこかで自分の心を見つめることなのだろうと思う。見つめてその人の人生を思い巡らすのは、結局自分の人生を思い巡らすことの延長線上で可能なのであろう。そのことで共通の世界が開かれてくる。その人の顔立ちや表情や雰囲気を見つめて、自分の経験を思い起こし、その人のことをさらに思い巡らすことになる。
 
 人を惹きつける説教は、説教者が結局自分に語りかけていることに、会衆が共鳴しているからであると思う。説教者が、会衆を見つめながら、自分の心を見つめているからである。会衆のために語っているのではない。自分に語りかけている。みことばを自分が一番必要としていることを知っている。聖書の世界に入っている。そこで楽しんでいる。説教者のこの心、神との語り合いに聴取が参加している。自然に神の世界に導かれている。そこには限界がない。自由がある。何千人と集まっていても、みことばと自分だけの世界を経験する。
 
 アラン・アルダという俳優がいる。古いテレビドラマで「マッシュ」というのがある。再放送を妻とよく見ている。仕草や語ることに惹きつけるものがある。最近自叙伝を出した。分裂症の母親の元で育ってきたと言う。心に深い苦しみをもっていることが分かった。その苦しみが俳優としての深みを与えているのであろう。次女の泉がワシントンポストのオンラインで、この水曜日に彼のインタビューをするという。
 
上沼昌雄記
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