「霊的観測」2005年11月1日(火)

ウイークリー瞑想
 
 北加日本人クリスチャンリトリートに参加して「霊的祭典」という記事を書きました。事務局の姉妹に送りました。この日曜の午後に修養会を振り返っての委員会がありました。その折りにウイークリー瞑想「霊的祭典」をコピーして委員の方々に渡してくださったと言うことです。「的を得た、霊的観測」と受け止めてくださったと言うことです。
 
 霊的観測と聞いて、アンテナを掲げて霊の気象を観測している測候所のこと思いました。しかし霊的に正しいかどうか見張っているわけではありません。参加している人たちの霊的な反応を知りたいのです。修養会の霊的な流れを知りたいのです。自分にとっての意味を知りたいのです。神がこの時に何を求めておられるのかを知りたいのです。
 
 聖書に神のみこころ、すなわち、何が大切で神に喜ばれるのかを「わきまえ知る」(ロマ書12:2)、「見分ける」(エペソ5:10)ことが求められていることが分かります。その見分けることのできる人を「熟練した者」(2テモト2:15)と呼んでいます。そしてその人には「練られた品性」(ロマ5:4)が備えられると言っています。
 
 神学校でギリシャ語で調べて、つながりを見つけて感動しました。このことばの意味をよく語ってきました。それでは自分が神に喜ばれることを見極めてきたのかというとそうではありません。失敗をしてきました。そのために苦労もしました。人を悲しませて来ました。よく見ると周りの牧師も、教会も神学校も判断を誤ってしまったことがあります。聖書をどんなに知っていても、正しい解釈をしていると思っても、それだけでは神のみこころを見分けることにはならないようです。
 
 リトリートの最後の晩の集会の後に、講師と牧師を招いてくださいました。反省会とお茶会のときでした。事務局の姉妹が、集会での賛美を含めての霊的な流れについて語りました。講師の話が、聖書の教えをいったん懐に入れて、そこから出してくれたので、参加者が聞きやすかったと言われました。多くの場合に聖書からそのままなので聞き難いと、手真似をして語ってくださいました。私も感じたことでした。的確に表現してくださったので、同感ですとお伝えしました。
 
 霊的な判断や識別は、知識や経験ではありません。ただ霊的なこととしか言えません。「信徒は、霊的に何が真実なのかを見極めています。」と前回の記事に書きました。たとい言葉で表現できなくても、霊的には識別しています。それでこのリトリートにも多くの人が集ってきました。どうしてそのような霊的識別が可能なのか、大変興味があります。霊性神学の認識論の課題です。
 
 結婚相手を決めるときには、真剣にみこころかどうか求めます。今晩の夕食の献立を決めるときにはどうでしょうか。私たちはいつでもどこかで何かによって判断しています。聖書と信仰と直感との折混じったところで判断しています。取りも直さず、私自身これからの歩みでも、みこころを求め、判断していかなければなりません。
 
 上沼昌雄記
 
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