「年をとることと霊的識別」2005年11月7日(月)

ウイークリー瞑想

 前回のウイークリー瞑想「霊的観測」に対して、同年輩の方々からレスポンスをいただきました。神のみこころ、神に喜ばれることを「見分ける」霊的識別に関して、失敗をしてきて、いまだに難しさを覚えますという告白に近いものです。ひとりの方が次のように書いてくださいました。

  「『何が正しく、神に喜ばれるかを見極める』ことは、いつも求めていながら、自分でも実現しているとは思えません。自分でも気がつかないうちに、これとは逆なことをしていることもあります。自分の性格や習慣も関係しているかもしれません。でも、この自分の弱さを認めつつ、神との正しい関係に立ち返ることが、大切なのかもしれませんね。日々祈りつつこの修正作業をしています。」

 この方は拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』の「ある男性の物語り」の項目で証を書いてくださいました。そこで言われていることを思い出しました。「格言2ーー人は歳をとるほど『良い人』になるわけでない。」

 人は年をとれば、それなりに経験を積み、見識も豊かになり、それなりの風格も備わってきます。そのために社会的に責任のある仕事を任されます。私もある団体の責任をいただいています。年相応のことと納得しています。

 しかし内面的な面で振り返ってみると、神に喜ばれることを見極めることに関して、判断し損ねてきたことをむしろ思い出します。うまく見極めることができたという痛快さより、失敗してきたという悔いのほうが先に出てきます。どこかで自分のエゴやプライドで判断してきたことを知らされます。そして同じようなことを繰り返してきたようにも思います。

 それでは恵みがなくなってしまったかというと、そうではないことも知らされます。失敗をして遠道をしても、どこかで修正をいただいています。それが自分の通るべき道であったと納得もいただいています。ただ現実に見損なってきたことを思い出します。年をとったしるしなのかとも思います。

 前回の瞑想の最後に書きました。「取りも直さず、私自身これからの歩みでも、みこころを求め、判断していかなければなりません。」そして「この言葉に共鳴しました。」という一言のレスポンスもいただきました。この方も年とともに同じような難しさを経験しているのだろうと想像しました。

 年とともに私のなかにももいろいろな経験があります。少しは知識もあります。しかしそれをたよりにしてしまったら、また見極めることで失敗をしてしまうのだろうとも薄々感じます。どこかでいつも自分の知識や経験で判断をしようとする力を感じます。しかし、それらを引っ込めて白紙の状態で神のみこころを求めていくことが、年とともに必要なのだろうと思わされています。結構難しいことです。「日々新たにされる」(2コリント4:16)ことの一面なのかも知れません。

上沼昌雄記

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