「魂の暗夜」2005年12月5日(月)

神学モノローグ

 昨年の秋に出した拙書『苦しみを通して神に近づく』で、テキストである詩篇77篇で言われている「夜」(2,6節)の象徴的な意味としての「魂の暗夜」について言及した。歴史的な取り扱いとして4世紀のニュッサのグレゴリウスと16世紀の十字架のヨハネをあげた(32頁)。続いてこのテーマについて関心を持って調べている。精神科医のGerald MayがThe Dark Night Of The Soulという本で、十字架のヨハネと彼を導いたアビラのテレーゼにおける「魂の暗夜」について分かりやすく説明している。

 そしてクリスチャニティー・ツディの最新号の最後のページのコラムで、チャック・コルソンが「私の魂の暗夜」という記事を書いているのをみて驚いた。その副題が「最善である福音主義は、私の魂の暗夜のための闘いの備えをしてくれなかった」となっている。ご存知のようにチャック・コルソンは32年前にウオーターゲート事件に関わって罪に問われて刑に服した。そのなかで信仰を持った。そして『ボーン・アゲン』という本を書いた。

 彼は、福音主義の明確な悔い改めのメーセージによってキリストによる救いをいただいた恵みを感謝している。しかし家族の続いての病のなかで自分の魂の暗夜を経験させられた。神が自分から離れてしまったように思う。詩篇77篇の作者と同じ経験をさせられた。福音的な信仰を持っている人も多くが魂の暗夜を経験をさせられているのであろうが、認めることを恐れている。そのようなことがないことが福音的であると思ってしまっているからである。

 チャック・コルソンは「魂の暗夜」に関しての歴史的な代表として、アビラのテレーゼと十字架のヨハネをあげている。さらにチャールズ・スポルジョンにも言及している。福音主義のポジティブな面はすばらしい。しかし信仰生活は一見ネガティブと思われることをしばしば経験させられる。それが逆説的に神に近づく道であることをみてこなかった。

 十字架のヨハネには文字通り『暗夜』という本がある。彼は「感覚の暗夜」と「霊の暗夜」と分けている。私たちが試練や苦悩を通して経験させられるのは感覚の暗夜である。それに対して霊の暗夜は、神は感性でも理性でも捉えることができないので、神に近づけば近づくほど何も見えない霊的な闇の世界のことである。自分の持っているものをすべて取り去られてまったく裸の状態で神に対峙している状態である。光りである神の前に出るためには通らなければならない霊の暗夜である。十字架のヨハネは私たちが苦しみを通して経験する魂の暗夜を幾重にも深めている。「やみを隠れ家」(詩篇18:11)としている神に限りなく近づいている。

 同様な考えは4世紀のニュッサのグレゴリウスで明確に語られている。初代教会の遺産である。魂の暗夜はカトリックの専売特許ではない。福音主義は見落としてきてしまった。同時に福音的な信仰を持っている人たちのなかで「魂の暗夜」に注目してきている。福音主義のなかでは捉えられなかった世界が聖書にあることを認めてきている。神に近づくために意味のあることだと気づいてきている。

 自分の魂の暗夜を認められると神が自分の心の深くにいてくださると分かる。信頼して自分の心の底に降りていくことができる。そこでは闇が幾重にも深く覆っていて全くの暗闇であるが、なお神がどこかで観ていてくださると信じることができる。暗闇のなかでは何もできないでお手上げの状態なので、ただ神を待ち望むことを学ぶ。暗闇の向こうに夜明けが待っていることを信じることができる。

上沼昌雄記

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