「 C. S. ルイスとファンタジー」 2006年1月 5日(木)

神学モノローグ

 C. S. ルイスの「ナルニア国物語・第1章・ライオンと魔女」の映画が12月9日にアメリカで封切られた。全米映画興行収入でこの年末に首位に再浮上した。日本では3月4日からロードショーが始まる。それにともない昨年の12月号のクリスチャニティー・ツディが C. S. Lewis Superstarという特集を組み、12月12日号のU.S.News がGod’s StorytellerというタイトルでC. S. ルイスの特集を組み、彼の写真を表表紙に載せている。

 キリスト教を基にしたファンタジー映画としては「ロード・オブ・ザ・リング」に続いている。これはJ. R. R. トールキンの原作「指輪物語」を映画化したものである。実はC. S. ルイスが無神論者から信仰を持つに至る過程で、カトリック信者であったトールキンが大きな影響を与えている。そしてその後もオックスフォードの仲間として、互いの作品のことを語り合い、励まし合ってきた。

 21世紀の初めにキリスト教を土台にしたファンタジー映画が相次いで制作され、それぞれ興行としても成功を収めている。この二つに映画の間にすでにハリーポッターの本が同じように映画化されている。どれもイギリスという民族の歴史が幾重にも積み重ねられてきた土壌で生まれ、それがアメリカという歴史の浅い国で映画化されて民衆に届いている。21世紀の初めの現象である。

 C. S. ルイスの「ナルニア国物語・全7巻」はすでに日本語にも訳されて読まれている。キリスト教を基にしていることを知らなくても読むことができる。ファンタジーのすばらしさである。ファンタジーは、現実を覆っている表面の一皮むこうに存在する空想の世界で、現実の問題を再表現して解決していく物語である。「ライオンと魔女」では、4人の兄弟姉妹が預けられた家の空き部屋にあった洋服ダンスの扉が、空想の世界に入っている入り口である。子どもたちが主役であることでファンタジーの意味の純粋さが伝わってくる。

 「ナルニア国物語・全7巻」は1950年から56年の間に出ている。私の幼少時代である。ルイスは1963年11月22日、ケネディー大統領がダラスで暗殺された同じ日に亡くなっている。私はそのころから信仰者の歩みを始めた。ビートルズが世界の表舞台に登場してきたときでもある。世界が激しく変動していった60年代のことであった。学生運動に揺れたキャンパスであった。

 その後、時代の新しい流れと福音的な信仰との間で、哲学を学び、神学をしてきた。信仰の形態としての福音主義の展開は20世紀の後半には主役になっていた。同時に福音主義の信仰形態ではファンタジーが馴染めないものであることを経験してきた。神秘的なことを排除するメンタリティーが支配的であった。理論的な神学の構築に勢力を注いできた。それなりに必要なことであった。

 しかし神学としての枠組みができても、人の心は理論を越えた世界をいつも求めている。ファンタジーの世界は心の世界である。心の世界は現実の裏側にいつも存在し、現実を支えている。心の世界は民族を越えた共有の世界でもある。誰もが苦しみ、闘っている現実を、空想の世界で解決していく。そこに悪があり、闘いがある。そして勝利があり、救いがある。誰にも闘いがあり、誰もが救いを求めている。

 「ナルニア国物語」の映画化は、クリスチャニティー・ツディの記事で言われているとおりにまさにポストモダンの現象である。ルイスはファンタジーの必要をはじめから感じていて20世紀の半ばに作品化した。それがいま大衆化されてきた。私のなかでも馴染めなかったファンタジーの世界が広がってきている。映画も観たいと思う。

 上沼昌雄記

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