「殉教者」 2006年1月23日(月)

ウイークリー瞑想

 今からちょうど50年前のこの時に、エクアドルの人食い人種といわれたワオラニ族に福音を届けるために5名の宣教師が殉教の死と遂げました。その殉教者のひとりの妻であるエリザベス・エリオットが『ジャングルの殉教者』でそのことを記しています。その後、殉教者の子どものひとりであるスティーブ・セイントが、自分の父を殺した人から洗礼を受けるまでに福音が浸透していきました。その彼が記したEnd Of The Spearという本が映画化され、殉教者の50周年記念としてすでに上映が始まっています。

 Spearは父を殺した「槍」です。戦闘用の槍です。日本語の辞書では「殉教」をも意味すると書いてありました。そのEndですので、「闘いの終わり」とも「殉教の目的」とも訳せます。5人の宣教師を送り込んだ当時の航空基地が妻の故郷のロス郊外にあり、妻は50年前の出来事をよく覚えていると言うことです。また5名の殉教者のうち3人が妻と長女の母校のホィートン大出身と言うことです。妻はクリスティアニティー・ツディの1月号に記されていた記事を切り抜いていました。また映画上映前にスティーブ・セイントと彼の父を槍で殺してたミンカヤニが、サドルバックの教会で話をするというので聞きに行きました。映画も観に行きました。

 ホイートン大学の寮は殉教者の名前が付けられていると言うことです。昨年長女の結婚式でシカゴに行った折にホイートン大学を尋ねることができ、同時多発テロ事件の時にハイジャックされた飛行機内でテロリストたちと闘って亡くなったトッド・ビーマーの記念館を観ることができました。そのことを記した『レッツ・ロール』という本を書いた奥様ともホイートン大学出身です。殉教者を送り出している大学です。

 KGKの主事として30年以上前に東北をよく巡回しました。今もその関わりがあって東北本線、奥羽本線を利用します。最近は新幹線が多くなりました。奥羽本線に沿って、4世紀ほど前に殉教したキリシタンの遺跡が残っています。湯沢で牧会をされている斉藤先生がその近辺の遺跡に連れて行ってくれました。米沢には有名な北山原殉教遺跡があります。377年前のちょうどこの時期に(資料では1629年1月12日となっています)当時の米沢藩の上級家臣であった甘粕右衛門一族、妻と3歳と1歳の子どもとその家に仕えた者たちが、聖母マリヤの旗を先頭に雪の中を自宅から北山原まで歩き、処刑されました。

 東北の奥羽本線上、裏日本側は雪に埋もれているイメージが強いのですが、霊的には何か開かれたものを感じます。信じることが特別なものではなくて、生活の一部としているような身近さがあります。そして信仰の筋のようなものを感じます。殉教者の流された血が生きているようです。米沢には大きな教会がいくつかあります。十文字には戦前から信仰が受け継がれています。秋田では大学の教授が学生のために家を開放して伝道しています。

 今月の最初の記事にJCFNの関係で13年前に修養会の帰りに事故でなくなった姉妹のことを書きました。一粒の麦となりました。いのちが捧げられました。犠牲が捧げられている団体の理事としての責任を感じます。今はその妹さんが信仰に導かれて、活動に加わっていてくれます。厳密には殉教ではないのですが、それに似たものを感じます。

 修道院の始まりは殉教と関わりがありそうです。と言うのは初代教会で修道院はロマ帝国の迫害による殉教が終わってから始まっているのです。修道院というか、その初めでクリスチャンが荒野に出ていって求めてものは、殉教者たちが獲得していたキリストとの一体感でした。キリスト教が国教として定められて安定してから失ってしまったのです。ただキリストと一つになることを求めて、まさにイエスと同じように、荒野に下ったのです。その結果として修道院ができてきたのです。

 キリストの血が流されました。それに続いて殉教者たちの血が流されています。それだけなのですが、それが生きる道なのでしょう。

上沼昌雄記

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