「廃墟」 2006年3月8日(水)

ウイークリー瞑想

 シンガポール、クアラルンプールでの奉仕をしているときに、妻からエレミア書33章3節のみことばに思いが向いているというメールがありました。「私を呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」奉仕から戻って、その箇所の前後を読んでみました。その後に次のように言われています。「万軍の主はこう仰せられる。『人間も家畜もいない廃墟となったこの所と、そのすべての町々に、再び、群れを伏せさせる牧者たちの住まいができる。』」(12節)

 クアラルンプールで目にした巨大な廃墟を再度思い起こしました。10年近くも放置されたままの高層建築物、風雪にさらされてと言っても、雪は降ることはないので、雨と風にさらされたままの建築物、手つかずにそのままにしてあるもの、面倒なのでそのまま放置してあるもの、目障りなのですが取り除くことができないもの、自分の心の情景を
みているようで目を離すことができませんでした。クアラルンプールの美しい自然と、ポスト・モダンの超近代建築と、主にある交わりを思い起こすたびに、この廃墟が浮かんできます。

 同じような経験をされている姉妹からレスポンスをいただきました。「私も、廃墟をみるといろんなことを思います。何か、いろんなストーリーを思い浮かべ、その情景から目を離せなくなります。スラム街が閑静な住宅地に隣接しているなんていう光景もありました。錆びついたトタン屋根が切れ間もなくつながっています。何かを実感して思いめぐらすということではなく、ずっと見つづけてしまいます。」

 自分のなかに手つかずに放置したままで廃墟になっているものがあります。途中で投げ出してしまったものなのか、少しずつ積み重ねられてきて目障りになってきているものなのか分かりません。どのようにそれに触れたらよいのか、どのように取りかかったらよいのか分からないままで放置してあります。そのような廃墟は夫婦になってもそのまま居残っています。逆に夫婦になったためにより目立ってきたところがあります。それでも互いに取り除けないでそのままになっています。どうすることもできないので居座っています。

 廃墟は目障りです。見たくもありません。景観を損ねます。周囲の商品価値を著しく下げます。それでもそこにあります。そのまま風景の一部に溶け込んでしまいます。心の情景の一つになってしまいます。あたかも人格の一部のような顔をしてきます。そこに居直ってしまいます。それでも外観を損ねます。どこかで心の醜さを露呈していきます。

 「人間も家畜もいない廃墟」に「再び、群れを伏せさせる牧者たちの住まいができる」という主のことば、取りも直さず神が廃墟を見ておられるという事実、神はそのままにはしておかないという約束、自分のなかの廃墟がどのようにいのちのあるもに変えられていくのかという期待、預言者エレミアの悲哀と希望を感じます。

 上沼昌雄記

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