「主(あるじ)の心」2006年3月27日(月)

ウィークリー瞑想

 

 先週末にミニストリーの理事であり、牧師であり、みくにレストラン の創業者である荒井先生とお会いしました。いつものように5店舗あるなかで私のところに一番近い店でお昼をいただきながら話しました。最初は金曜の昼に予定していたのですが、先生に急用ができて来ることができませんでした。私は約束の1時に到着しました。それでもテーブルの空くのを待っている人でいっぱいでした。私はただ待ちながら食事を終わって出てくる人、待っている人、食べている人を眺めていました。どこでも人を観察するのが好きなのです。駅とか飛行場とかでです。

 荒井先生とご家族とは、16年前に私たち家族もアメリカに移り住んでからの知り合いです。最初のレストランがまだ小さくて大変なときのことを思い出します。ペンキ塗りを真夜中にさせていただいたことを思い出します。そんなことを思いながら、出入りしている人たちを観て、みにくレストランはサクラメントと近郊で大変なステータス・シンボルになっていることに気づきました。近隣のオフィス街でしっかりと仕事をしている人たちがビジネスと社交の場として使っているのです。男性 でも女性でもその身なりからそれなりの地位の人たちだと分かります。みくにレストランで食べながらビジネスの話をすることが彼らのステー タスになっています。寿司を握っていた次男の方に感想を伝えました。

 結局次の日、土曜日の昼に荒井先生と会いました。前日待たされたことを恐縮されたので、そこで観察したことをお話ししました。興味深そうに聞いてくれました。その折りに村上春樹のある本で、バーを経営している主人公が、自分のお店に来る人にオーナーとしての姿勢を示して、お客さんとして同じように振る舞ってほしいという無言のメッセージを出しているのだという件(くだり)を紹介しました。お店はその主(あるじ)の心の現れであることを先生のお伝えしたかったのです。先生の人柄、信仰、牧師としての生き方が雰囲気になっています。お客さんはそんな空気に反応します。それにあわせて振る舞います。人を連れてきます。家族を連れてきます。

 ミニストリーでいろいろな教会の交わりに入れていただきます。その教会の雰囲気は牧師の心の現れなのだろうと思わされます。礼拝の流れ、交わりの自由さ、笑いの声、人々の顔、どこをとってもその教会のことを思い、労しているの牧師の心が出てきます。心は隠せません。隠していればそれも伝わります。それに人は反応します。

 牧師も人ですので、人としての雰囲気は避けることはできません。それでもその心が真の主に向いていて、人間的な限界を乗り越えて、溢れるような豊かさが伝わって来ている場合とそうでないときがあります。 牧師としての思いの強さが限界を作ってしまっているときがあります。人はまたそのように反応していきます。ミニストリーをしていても同じことを知らされます。

 みくにレストランには「満ち満ちた(プレローマ)」(エペソ 1:23,3:19,4;13)ものがあります。人は食べ物で満たされて帰るのではないのです。そこにある空気に触れて満足するのです。心が満たされるのです。また戻ってきます。人を連れてきます。家族を連れてきます。

上沼昌雄記

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