神学モノローグ 「時代と神学」2006年4月4日(火)

  前回のモノローグ「時代・中島みゆき」で、彼女が70年半ばに デビューして、80年代、90年代、2000年代とそれぞ れの世代でチャート1位になりながら活躍していることと、その間、福音主義神学を志す者としてそれぞれの世代にどのように関わってきたのか書いた。60年代は自由主義神学との闘いであった、70年代は、76年にアメリカでカーター大統領が誕生したときに雑誌 『タイム』が「福音主義者の時代」と言ったように、漸進の時であった。80年代は、聖書の無誤性の課題に直面したときであった。90年代は霊性神学の必要を確認したときであった。2000年代はすでに主流になった福音主義のこれからの方向を定めていく模索の時とも言える。

 このことを書いて、昨年11月28日のモノローグ「モダンとポスト・モダンと福音主義」で、「福音主義神学は時代の産物である。聖書は神の作品である」と書いたのを思いだした。アメリカの福音的な神学校が、ポスト・モダンの挑戦を真摯に受け止めてシフトを変え てきているという、クリスチャニティー・ツディの記事を紹介しながら書いたものである。

 福音主義神学に身を置き、直接に関わってきたのは60年代からであった。しかし歴史を振り返り、福音主義神学の起源を遡っていくと、福音主義神学の枠がやはり時代のなかで築き上げられていることが分かる。時代を超えた神学がはたしてあるのだろうかと思わされる。神学はどのように考えても人間のものである聖書は神のものである。神のことばである聖書に直面しながらそれぞれの時代で人々が格闘してきたものが神学である。

 ルターに始まる宗教改革者の信仰義認と十字架の神学は福音の本質を明らかにした。福音をよみがえらせた。同時に後のプロテスタント神学の枠を決定してきた。義認論を中心に築かれた救済論と、十字架を中心にみるキリスト論は、初代教会のように和解論を中心にみる救済論と、受肉から十字架、復活、昇天までを取り入れる包括的なキリスト論とは、神学全体の構成が異なってくる。世界観が違っている。生き方が違う。どちらも聖書を元にしている。どちらも聖書を100%取り入れているわけでない。

 プロテスタント神学は後に啓蒙思想を通過しなければならなかった。自由主義神学はその思想を受け入れた。福音主義神学は自由主義神学に対抗するために同じ理性で武装しなければならなかった。理性中心の福音主義神学は避けることができなかった。20世紀の終わりに霊性神学の見直しが出てきた。雅歌は初代教会で大切なものとして取り上げられていた。福音主義神学ではほとんど取り上げられてこなかった。

 神学は相対的である。聖書は絶対的である。聖書を100%取り入れている神学はない。神学はあるテーマを前提にしてその上で論理的な整合性を求めていく。その時に聖書のあることが落とされてしまい、見逃されてしまう。それでいて神学は排他的である。神学校も排他的である。自分たちの前提とその上に組み立てた聖書理解と神学を最善と思い、それを認めないものを切り捨てていく。批判していく。聖書は包括的である。

 今の神学の課題は、自分の拠り立っている神学が聖書の何を見落とし、何を見逃しているかを歴史を振り返ってみていくことである。教派の神学を認めつつ、その限界を謙虚に認めていくことである。アメリカでの福音派の進展は教派の神学によっているのでない。福音派の神学校が21世紀になって神学の歴史を振り返りながら模索をしている。どのように進んでいくのか楽しみである。神学はそれぞれの時代で生きている。何かを生み出そうとして息づいている。神学は楽しいものである。

上沼昌雄記

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