「痛みと苦しみの現実」2006年4月10日(月)

ウイークリー瞑想

 

 先週末に、90歳を越えた方の葬儀に妻と一緒に出席しました。車で一時間ほどのロサンゼルス郊外の標高700メートルほどの山の中腹にある街の教会でした。この方の娘さんご夫妻が、16年前に私たちが家族で北カルフォルニアの山の小さな街に移り住んだときの教会の牧師夫婦でした。忠実な牧会を今も別の小さな教会でされています。ずっと親しくしています。この牧師の奥様で、亡くなられた方の娘さんが癌でこの数年闘病をしています。一週間ほど前にも大きな手術をされました。それでお父様の葬儀にも出席できないと言うことが分かり、私たちが代理のように出席しました。

 この奥様の従姉妹、なくなられた方の姪の方が日本への宣教師をされていました。ファミリー全体が宣教の思いを強く持たれていることが分かります。亡くなられた方の奥様で、癌の闘病をしている方のお母さんとは一、二度お会いしています。私の名前も覚えてくれていました。お嬢さんも癌で厳しい状態にあるなかでご主人を亡くされました。妻が後で教えてくれました。娘が召される前に主人を先に送りたいと祈ってきたと言うことです。年齢的にはご自分がいつ召されてもいい年です。そのかなで痛みと死の現実に直面し、直視し、受諾しています。静けさがあり、威厳があります。

 ジョージ・マクドナルドの言葉に目が留まりました。「私たちがことの現実を最も良く知っているときは、神を最も必要としていることに気づき、神に最も信頼できるときである。どのようなかたちでも、どのような種類でも、どのようなあり方でもその容赦のない現実を認めることは、私たちの心をさらにより現実に向け、より高度な、よい深遠な存在へと導いてくれる。」

 しばらく前になりますが、ある男性集会でひとりの男性と知り合いました。奥様とお嬢さんを交通事故で亡くされ、ご自分も癌であることが分かり、厳しい状態におかれていました。集会では痛みを覚えながら、自分にとって一番つらいことは父親のことですと言われました。しばらく音信がありませんでした。最近メールをいただいています。私のモノローグに鋭いレスポンスを書いてくれます。教えられています。闘病は続いています。

 3月14日のメールで、映画『パッション』でイエスが十字架を担ぎながらむち打たれる場面が張ってありました。「痛みは投薬では納まらないので、必死のリハビリで、歩く中、痛みが引いています。運動を行なうと最初は激痛が走りますが、10分程度我慢することで、徐々に減少します。、、、上の画像は僕のPCのデスクトップの画面です。毎回、PCを開ける事によりこの画像が、僕の痛みの何であるかを告げてます。傷だらけの痩せ細った体で、重い十字架を担ぐ姿を見ているだけで、現在の僕はキリストにより慰めを受けている様に感じられます。痛みを堪えて頑張らねばとの意欲が湧くのです。今の僕に取ってはかなりの救いでもあります。」

 想像を絶する痛みが、キリストの痛みに結びつけています。どうしてそうなるのかは分かりません。ただ痛みと苦しみの現実を見つめているときに、キリストの苦しみが思い出させられるのです。いつもはどこかに押しやられ、隠されているように思うキリストの苦しみの現実に不思議に心が向いていきます。そうでありたいと願います。「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。」(ヘブル2:10)

上沼昌雄記

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中