「友と呼ぶこと」2006年4月20日(木)

ウイークリー瞑想

 

この5月に日本での奉仕を予定しています。妻の闘病等があって一年ぶりとなります。今回のスケジュールのなかに3回目になる牧師のセミナーがあります。友人の牧師が近隣の先生方に呼びかけてくださり、12名前後の集いをしています。京都・宇治のカルメル会の修道院の「黙想の家」を借りて一泊で行っています。過去2回は「三位一体の神との交わりとしての霊性」「霊性神学入門」と言うテーマでした。そして今回は「神学と霊性の一致エペソ書を基にして」と言うことで予定しています。

 

このセミナーは全くのボランティアの集いです。どこにも所属していません。友人の牧師が呼びかけて集まってくださっています。案内で次のように紹介してくれています。「従来の理性的な聖書理解に、瞑想的・観想的な理解を加えて、み言葉を深く味わい、み言葉の新しい発見と喜びを体験することができます。」そして「毎回少しずつ参加者が加わり、内容も静かに、神学的であり、聖書的であり、霊的に深くめられております」と加えてくれています。

 

この牧師とは神学校に入学した最初の1年同室となりました。机を並べ、上下のベッドで寝起きして神学生としての生活を共にしました。大変剛毅で、一本気な方です。その勢いは時には面食らうこともありました。しかし、神に仕える姿勢は大木のように真っ直ぐと上に向いたものです。気持ちのよいものでした。うらやましいものでした。今からもう38年も前のことです。昔の話です。

 

気が合って仲良くしていたというわけではありませんでした。ですので卒業してそれぞれの奉仕に励んでいました。昔の同室者、同窓生と言うことで特別な関わりはありませんでした。私は渡米をしてアメリカをベースにした奉仕を始めました。そんなことでこの先生との再会などは全く予想もしていませんでした。数年前にカナダのリジェント大学霊性神学教授のフーストン先生の牧師のセミナーが軽井沢でありました。この方がきておりました。霊性のことに関心を持たれているのだろうかと多少の疑いもありました。

 

セミナーが終わる頃に私のところに来てくださいました。友として一緒に祈り、交わりたいのだと言うことを言われました。という言うより、友として交わりを持つことにするからそのつもりでいてほしいという一方的な宣言にも似ていました。正直なところその真摯さは感じましたが、どうなるのかは疑心暗鬼でした。向こうも私が本気で出ていくかは同じ思いだったのかも知れません。

 

それからに2,3年、日本に伺うごとにお茶を飲んだり、食事をしたり、散歩をしたりしてそれぞれの家族や、思いを分かち合うことができました。奥様とも語り合うことができました。不思議なのですが信頼が生まれ、交わりが深まってきました。教会の奉仕にも招いてくださり、3年前からこのセミナーを設定してくれました。

 

軽井沢のセミナーで私を友と呼んで招いてくださった時のことを思い出します。迎入れてくれたのです。まさにイエスが弟子たちを招き入れたのと同じです。「わたしはあなたがたを友と呼びます。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたがたに知らせたからです。」(ヨハネ15:15)そのセミナーの講師であったフーストン先生はまさに『神との友情』という本を書いています。

 

この方は私を友と呼んで、ご自分の神との世界をみせてくれたのです。そこに私がに入ることを許してくれたのです。心の格闘を分かち合ってくれたのです。牧会の痛みを語ってくれたのです。奥様、子どもさんたちへの愛を教えてくれたのです。それで私も自分の心の葛藤を語ることができました。ミニストリーの苦悩を話すことができました。私の家族への思いも分かち合うことができました。そのことで私の世界に重しが付いてきました。心が深まってきました。ミニストリーが広がってきました。

 

上沼昌雄記

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