「教会の高齢化と大村晴雄先生」2006年6月14日(水)

神学モノローグ

 

今回の日本での奉仕の間に教会の高齢化のことが話題になり、現実をみせられることになった。教会の平均年齢が60歳を超えていて若返りを願って若い牧師を後任として捜しているという友人の牧師、初期の指導者が相変わらず実権を握ってしまっているという団体、一度は退いていながら誰もいなからと言って初期の指導者が戻ってきている団体、自分より年寄りの牧師は辞めた方がいいと言って地方伝道にでていった友人の牧師、新入生がゼロといういくつかの神学校、牧師になったらお年寄りの世話だけになっていますのでなり手がいないという神学生と、結構な割で会話にでてきた。

 

教会の高齢化は日本の社会の高齢会にあわせて避けられない。ただ次の層の人たち、若い世代の人たちが同じような割で教会に増えていないと言うことで、高齢化現象が一挙に目立ってきたのかも知れない。教会が年輩の方々に深い配慮を示していくことはまさに教会としての使命である。ただそのような年代の人が相変わらず教会や団体の上で支配権をふるったりしていると大きな弊害をもたらす。閉鎖的になり、慢心をもたらす。その隙をねらわれるような出来事が起きている。

 

アメリカでもベビー・ブーマーの世代が定年の年になってきて高齢化が問題になっている。それでも次の世代の指導者がでてきている。若い人たちの霊的動きも見える。指導者も退くことをよしとしている。そうでない場合も勿論ある。それでも社会も教会もそれなりの活力を保っている。変化を受容している。日本のある団体の人と話をして気づいたことであるが、その団体の初期に宣教師の指導でいくつかの方向性がでてきているのであるが、日本ではそれを守ることが聖書的と思われているが、もとのアメリカの団体ではすでに新しい方向で動いていることがある。何とも言えない落差を感じさせられた。

 

私もJCFNと言う留学生を中心とした働きに理事として関わっていてその限りで若い人たちと接する機会をいただいている。若い人たちが決して求めていないのではない。むしろ真剣に求めている。ただ教会が提供するものが彼らの求めに応じ切れていない面がある。彼らも神のために一生懸命に仕えたいと願っている。何か生かし切れていないところがある。指導者の交代をうまくいって、教会全体が生きているところも知っている。まれであるがないわけでない。

 

若い人たちを獲得するためにプログラムを組んだらば解決することでもない。それよりも、何かいままでの福音派の教会が持ってきた神学の行き詰まりのように思えて仕方がない。神学の内容は聖書から外れているわけでない。しかし時代の変化についていけなくなっている。ただポスト・モダンを批判しているだけの神学では若い人たちを捉えることはできない。彼らはすでにその流れで生きてきているのである。新しい動きを受け入れられない保守性が身に付いてしまった。自分たちのしてきたことだけを正当化するメンタリティーになってしまった。

 

96歳ななられた大村晴雄先生を訪ねることができた。春先に自宅で転ばれて腰の骨を折られた。息子さんの関係で宇都宮のリハビリセンターに入っておられた。秋田に行く途中で立ち寄る旨を伝えていただいた。そして待っていてくださった。センターなのでいつものようにはゆっくりと話はできなかった。それでも他の人はテレビに釘付けのような状態なのに、先生はテレビを観ないので怪訝柄れたので、「日記を書いています」と返事をしたと言う。また食事の時の隣の人が自分が如何に高齢であるかを自慢げにして先生に年を聞いてきたので、「いくつに見えますか」と聞いて、その人が「75歳ですか」と言ったという。96歳と知って先生の顔をしげしげと眺めて「観音様のようだ」と言ったという。

 

そんな笑い話をしながら、先生はおもむろに一冊の本を取りだした。施設なのでこの本一冊だけも持ってきてもらって読んでいるという。それはイザヤ書のユダヤ人が書いた註解書であった。先生はある箇所の意味を知りたくて読んでいたのであるが、註解書に書いていないが「上沼君、どういう意味?」と聞いてこられた。一瞬返事に窮してしまった。それよりも、神の真理を生涯掛けて求めていく謙虚さと真摯さに打ちのめされた。何か私のなかで沈んでいたものが打ち破られた思いがした。

 

かつて先生との会話で「カトリックは存在論で、プロテスタントは認識論ですか」と伺って、「そうだね」と言われたことを思い出した。真理をすでに捉えたと言って止まってしまうことをしない。あくまで捉えようと追い求めている。捉えたと思うことをいつも聖書で批判していく。改革を求めていく。認識する自己を神の光りの前にさらけ出していく。いつも開かれている。新しい恵みに溢れている。大村先生の専門である近世哲学の始まりであるプロテスタントの精神を目のあたりにみせられた。

 

日本のプロテスタントの福音派の教会は死んではならない。息を吹き返さなければならない。若手の指導者は現状を打破するために殉教を覚悟しなければならない。ただ待っていたら取り返しがつかなくなる。いま動かなければ時を失ってしまう。キリストの教会のために死ぬ覚悟である。新しい恵みを届けていく使命である。新しい息吹を吹き込んでいく活力である。

 

上沼昌雄記

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「「教会の高齢化と大村晴雄先生」2006年6月14日(水)」への1件のフィードバック

  1. はじめまし。先日,私の属します教団(いわゆる福音派に属していると自認している教団の一つです)の先輩牧師から,この項目の紹介を頂きました。上沼先生のblogをこれからも楽しみに致しております。続けて,学ばせていただければ,感謝です。

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