「村上春樹・体験—その1」2006年6月12日(月)

『国境の南、太陽の西』

 

9年前にある人から「いまの自分の心を一番よく語っている」と言って村上春樹の『国境の南、太陽の西』の文庫版が送られてきた。その数週間前に日本で奉仕をしていたときに、その奥様から家を出て別居状態になったという連絡をいただいた。二人の結婚式に関わっていたこともあって責任を感じて、回復を願ってこの方に接触を試みた。その返事としてこの本がアメリカの住まいに送られてきた。

残念ながらこの方との連絡はその後切れてしまった。そのためにこの本は彼の言う「自分の心を一番よく語っている」という意味を知るための謎解きとなった。また同時に私にとって村上春樹の作品に接する契機ともなった。村上春樹の名前はベスト・セラーになった『ノールウエーの森』で知っていたが、読んだことはなかった。ただの現代作家のひとりだろうと思っていただけだった。

しかし送られた本を読んで何か惹かれるものがあった。謎が深まった部分もあった。それで『ノールウエーの森』から始めて全部の作品とは行かないのであるが、かなりのものを読んできている。まさにはまってしまったのである。よく村上春樹の話をし、拙書にもその一部を書いてきた。もともと小説を好んで読んできたわけでない。どちらかというと思想関係のもの、神学と哲学に関するものを読んできた。大学の時の友人は、いま私が小説を読んでいるのが信じられないと言った。自分にとっても不思議なことであった。

村上春樹の作品は、私のなかであちこちに散らばっていた想いというか、取り扱って来てはいるがそのままにしてあったものをもう一度考え直すと契機になった。ある時点でそれなりに考えていたと思うこと、またそういう課題が自分の人生でもあると気づいていながら、それらがそのままにファイルに閉じこめていたものが開けられるような経験をすることになった。多分彼の作品にはいろいろな場面があって、それこそ読む人の心にあるいろいろな襞に、まさにいろいろなかたちで引っかかっていくのであろう。

そんな経験をまとめてみたいと思った。私なりに9年間村上春樹の作品と付き合ってきて一度整理をしたいと思うようになった。といっても彼の作品を批評する気はないし、そんなことはできない。ただ彼の作品に接することで私のなかに起こったことをまとめてみたいと思った。それは村上春樹の私のなかの体験である。それで「村上春樹・体験」というタイトルを付けてみた。

その意味で『国境の南、太陽の西』はまさに思いがけない村上春樹体験であった。そしていまだにその人が言う「自分の心を一番よく語っている」という意味の謎解きになっている。こうなのかなと思うときがあり、またそうでもないのかなと思うときがある。それは多分その人が納得しているのと、私自身が感じることはもともと違うからのであろう。村上春樹の作品がそのような多様性を初めから持っているのであろう。そうなので謎解きなのであるが、結局は謎を解こうとしている私自身の体験になる。

 

『国境の南、太陽の西』は「致命的な欠陥」を抱えているという主人公「僕」の小学5年生から、37歳までの物語である。書き出しに「僕」が一人っ子であることで「何かが欠けている」思いに悩まされてきたと言う。作者自身もそうであると言う。恐らく誰もが「何かが欠けている」ことを感じながら人生を送っているのであるが、「僕」の場合には一人っ子であることが現実的に、メタフォリカルにその感覚をもたらしたのであろう。

その5年生の終わりに引っ越しをしてきたもうひとりの一人っ子の「島本さん」に「吸引力」のように引かれて、二人だけで音楽を聴いたりして満たされた時を持った。中学で学校が違い別れてしまったのであるが、「僕」が36歳の時に彼の前にもう一度現れてくる。そして同じ「吸引力」に引かれて、彼女と一緒に「太陽の西」にまで行ってしまいそうになる。

「僕」は高校の時の彼女「イズミ」を裏切ってしまう。理性をも何も吹っ飛んで彼女の従姉に走ってしまう。その従姉もひとり子だった。「吸引力」で止めることができなかった。イズミを裏切り、傷つけることが分かってもそうしないわけに行かなかった。結婚して娘二人がいても、しかもそれなりに満足できる結婚をしていても、「島本さん」が現れたときにはどうしようもなく、止めることもできないで、傷つけてしまうことも分かっていても、彼女と一つとなることを求めてしまう。

島本さんも大変は欠陥を抱えている。「僕」を誘うことは死に誘うことでもあった。彼女には「中間」はなかった。ヒステリア・シベリアナとい精神風土的な病気の話をする。シベリアの農夫が全く何もない荒野で毎日のように畑を耕しているうちに、ある日何かが切れて、鍬を放り出して、西に沈む太陽に向かって憑かれたように歩き出し、そのまま死んでしまうと言う。その「太陽の西」には何もない。

島本さんは消える。「僕」は妻「有紀子」のところに帰ってくる。当然妻を傷つける。有紀子は「別れたいのか」と聞く。「僕」は「分からない」と言う。有紀子は「いつかきっとこういうことが起こるだろうとは思っていたの」と言う。「僕」は言う。「でも正直に言って、同じようなことがもう一度起こったら、僕はもう一度同じようなことをするかも知れない。僕はまた同じように君を傷つけるかも知れない。」

 

と言うのが私なりの『国境の南、太陽の西』のあらすじであり、理解である。別の人は別の理解が成り立つ。村上春樹の作品にはいろいろな窓が開けられていてどこの窓を開けるかで家のなかの情景が違うように、読む人によって見る世界がち違っている。それを作者として許しているところがある。

それでこの本を送ってくれた人もその人の理解があってこの本が「自分の心を一番よく語っている」と言っているのあって、その意味を完全に知ることはできない。ただ私ながらにこのストリーをまとめながら推測しているだけである。当たっていなくてもよい。なぜならばその推測は私自身の課題だからである。つまり、この人の問題を村上春樹の本を手がかりに理解しようとしている私自身の視点が問われるからである。この人が差し出した謎解きをしても問題が解決するわけではない。この人の問題をどのように見ているのかが問われる自分の課題である。

この人は「致命的な欠陥」を抱えている「僕」と同一視することで、奥さんとこのようになってしまったことはどうにもならないと言おうとしているのだろうか。そのために他の女性に走ってしまったとしてもそれは「吸引力」によると言っているのだろうか。それにしても随分若いときからお互いを知り合っていて結婚をしたので、互いを必要としているという深い理解の上に彼らが歩んできたのだと思った。たとえ障害があっても乗り越えられるものと思っていた。

「致命的な欠陥」は誰もが抱えている。多くの場合にその欠陥を埋めるために一生懸命に勉強をし、仕事をしということで一時的に満たすことを求め続けて人生を終わってしまう。それに気づくことはそれなりに厳しいことである。この本では「一人っ子」というのはメタファーである。誰もが自分のことしか考えられない。自分の世界を越えることができない。人生で決定的なものを失っても、求めることもできなし、求めることもしない。自分の世界に閉じこもってしまうために、思いがけないところにはけ口を求めてしまう。

この人もそんな欠陥にこの出来事を通して気づいたのだろうか。もしそうであれば、それは積極的に捉えられることである。人生を振り返る大きな手がかりである。村上春樹の作品にはこの「致命的な欠陥」を書いた人のことが結構テーマになっているように思う。誰もがそれを感じているので共感をするのであろう。私にも響くものがある。

 

もうひとつ考えられるのは、島本さんが話したヒステリア・シベリアナの「太陽の西」のことである。シベリアの農夫はある日、自分のなかの何かが切れてしまって、西に沈む太陽に向かって飲まず、食わずで歩き続けてそのまま倒れるように死んでしまうのである。この本のタイトルの意味である。島本さんにはすでに何かが切れてしまって死を求めている。それ以上に自分の人生に何も求めていない。それはすでに死んでいることである。

この本を送ってくれた人も同じことを言いたかったのであろうか。自分のなかで持ち堪えてきたものが切れてしまって、もうどうでもよいと言いたかったのであろうか。彼はいままで築いてきたものを全部投げ捨てることになった。それでも結婚の回復を願っていなかった。もう取り返しがつかないと決めてしまったかのようである。自分の人生は死んだと言いたかったのであろうか。それでも助けを求めていたのであろうか。この人の心を知りたいと思った。しかし残念ながら音信が途絶えてしまった。

「僕」も憑かれたように「太陽の西」に向かって歩いていく。それで良いと思う。それを自分でも止めることができない。「致命的な欠陥」が駆り立てている。「その欠陥は僕に激しい飢えと渇きをもたらしたんだ」と言う。中年に近づいて誰もがそんな衝動に駆られるのであろうか。この人も同じように引かれるように「太陽の西」に向かって行ってしまったのであろうか。自分の「致命的な欠陥」に気づくことは危機である。それは蓋をしてしまっても解決にならない。向き合う以外にないのであろう。

「致命的な欠陥」は親を欠くことで始まる。親の愛を欠くことで致命的になる。兄姉がいないことで欠けになる。幼児時代に遊びがなかったことで欠けになる。受験に失敗したことで欠けになる。失恋で欠けになる。そして様々なことで欠けに気づかされる。欠けが生み出している衝動に気づかされる。満たされることを求める。衝動になる。それがその人の性格にまでなる。『国境の南、太陽の西』が惹きつけるものはこの「致命的な欠陥」なのかも知れない。

 

そして私が村上春樹の作品に個人的に惹かれるのは、そんな欠けを持った主人公が何とか回復を求めていることである。島本さんは消える。「僕」は妻のところに帰ってくる。彼女は死を願う。しかし言う。「ともかく私が死ななかったのは、私がとにかくこうして生きていられるのは、あなたがいつかもし私のところに戻ってきたら、自分がそれを結局は受け入れるだろうと思っていたからなのよ。」

「僕」は妻によって救われる。それは彼女の愛と言ったらよいのであろうか。そんなことばでは当てはまらない深さを持ったものである。村上春樹の作品にはさまよえる主人公がいて、それを助ける天使のような人物がいつもいる。ほとんどの場合女性である。この作品では「僕」の妻である。彼女の包容力に包まれると言ったらよいであろうか。彼女も大変な欠けを抱えている。それでも「僕」を受け入れる。

彼女は言う。「あなたは何もきっと分かっていないのよ。」「たぶん僕には何も分かってないのだと思う」と「僕」は言う。「そしてあなたは何も尋ねようとしないのよ」と彼女は言う。どうして尋ねようとしなかったのか「僕」は考える。メタファーである「一人っ子」を抜け出さなければならない。抜け出すように彼女は誘う。ナット・キング・コールが歌う「国境の南」には何かがあると思わせている。

結婚は互いが自分の世界を抜け出すための契機なのかも知れない。「一人っ子」というメタファーを誰もが抱えている。結婚はそんな「私」を破壊するための爆弾なのかも知れない。そのためには互い傷つく。それでまた乗り越えなければならない障害を知らされる。相手に尋ねること、その人の言うことに耳を傾けること、そんな根源的な作業をさせられるのが結婚である。根元的であればあるほど破壊的でもある。また創造的でもある。

 

上沼昌雄記

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