「村上春樹・体験—その2」2006年6月20日(火)

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』

 

昨年の12月に映画「ナルニア国物語・第1章・ライオンと魔女」がアメリカで上映された。そして本も読んだ。映画は3月に日本でも上映された。2月のシンガポール、5月の日本、6月のポートランドでの奉仕でナルニア国物語のファンタジーを紹介しながら、パウロがエペソ書の最初でどのように三位一体の神の世界に導かれていったのか語ってきた。三位一体の神はファンタジーではない。ただ現実の世界から神の世界に導かれる道筋を知る上で、手がかりをいただくことができる。

C.S.ルイスはすでに半世紀前に聖書をもとにしてこのファンタジーを書いた。多くの言語に訳され読まれてきた。そして昨年映画化された。聖書の背景を知らなくてもナルニア国物語に引き込まれていく。不思議に意味を捉えることができる。むしろファンタジーで描かれていることで心が自然についていく。誰の心にもある愛や憎しみ、正義と悪の闘い、犠牲と勝利、気づいていようといなくても心の深くで相克している世界がファンタジーで描かれることで深い、静かな納得をいただくことになる。

時代が進み、溢れるような情報に囲まれ、生活様式が安定しているようにみえても、心の不均衡さはいつもついて回る。外からの刺激やもっともらしい命題だけでは人生をやっていけないことを知っている。心はいつも不安定さを抱えている。そんな心がファンタジーで描かれることで、包み込まれるような感じでストーリーに付いていくことができる。物語のある場面が自分の心にあるある断片を語っていることに納得する。教えや命題として無理に納得させるのではなく、ストーリーに沿って自分の心を観ることができる。それだけ安心して受け止めることができる。

パウロが三位一体の神の世界に導かれ、その情景を描いているときにも、彼自身の内的な格闘があって父なる神と、子なる神と、聖霊なる神に結びついていることが分かる。抽象的な三位一体論を書いているのではない。彼自身の心の延長線上に、そこに信仰の闘いと内的な瞑想を通して、三位一体の神の交わりの真ん中に導かれていることが分かる。三位一体の神の麗しい世界が彼の心に反映されているとも言える。神と私たちを結ぶ梯子はない。しかしパウロは不思議に神の世界に導かれているのである。

ナルニア国物語で子どもたちがかくれんぼをしていて、衣装ダンスに隠れたら、そこがナルニア国に通じる入り口であった。思いがけないことでおとぎの世界に導かれた。意図したことでも計画したことでもなかった。それでもそこにあった。パウロも考え抜いて三位一体の神に至ったのではない。当時投獄されていたが、そんな束縛を飛び越えて、三位一体の神の世界に入っている。獄中で気がづいたら三位一体の神の懐に抱かれていることが分かった。どこかで神への入り口に出会った。そして導かれた。不思議な道行きである。

 

そんなことを思っていたときに、似たようなストーリーの展開が村上春樹のどこかの本でなされているのではないかと思った。特に子どもたちが衣装ダンスを通してナルニア国に導かれる筋立てに似たようなものがあるように思った。そして『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読み直してみた。主人公である「私」が計算士として雇われたあるオフィスに行ったところ、そこのクローゼットの中にあった洋服だんすがワンダーランドに通じる入り口であった。

確かにこの小説自体が一つのファンタジーである。その入り口として同じような設定になっていることが分かった。村上春樹がルイスのナルニア国物語を真似をしたと考える必要はない。ファンタジーの世界への入り口が同じような設定で描かれているだけである。その共通性を確認することができた。そしてクローゼットのなかの洋服だんすに導かれるようにして、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を読み直し、さらに読み返すことになった。最近起こった村上春樹体験である。

その入り口から梯子を何段も降りて行かなければならない。しかも入り口の扉を閉じてしまうと完全な暗闇の世界である。そんなことで始まるこの物語は、下に向かうファンタジーである。闇のファンタジーである。残念ながら上に向かうファンタジーではない。光りのファンタジーではない。下に下に向かうファンタジーである。完璧な闇に包まれるファンタジーである。しかし最後の最後で光が差し込み、上に向いてくる。見事なエンディングである。

主人公「私」が降りていったところは東京の地下鉄の下のやみくろの支配する世界である。その中にあえて研究所を持っている老博士を訪ねていく。その老博士によって「私」の意識の世界が操作されてしまっている。「私」はその時点では何も気づかないのであるが、すでにことは動き出してしまっている。と言うのはやみくろの支配する世界の向こうにと行ったらよいのか、さらにその下と行ったらよいのか、ともかくどこかであり、どこでもないもうひとつの世界にすでに入ってしまっているからである。それが「世界の終わり」の世界である。それは下意識の世界、無意識の世界である。そこでは主人公は「僕」である。

物語は「私」のストーリーと「僕」のストーリーが交互に、しかも連動しながら展開していく。すなわち、意識の世界と無意識の世界が相互に関わり合いながら、どちらが主導とも言えないかたちで進んでいく。主人公はその連動にはほとんどの場合気づいていない。しかし物語としては微妙に相互に関わり合いながら展開していく。もともと無意識の世界は意識されていないわけなので、その関わりを物語として展開しているのは想像を超えた創造力であり、それをストーリーとして記述しているのは大変な文章力である。

主人公は年齢を証している。35歳である。それは村上春樹がこの小説を書いた年でもあった。本としては1985年に刊行されている。作者が30代の半ばに書き上げ、80年代の半ばに刊行されたというのは意味があるのであろう。彼は、当時は単なる言葉の遊びに過ぎないと酷評されたが、時の経過ととにその意味を分かってもらえるであろうと言うようなことをどこかで言っていた。恐らく作者にとって大きな意味合いを持っているものなのであろう。またジョン・レノンの暗殺で始まり、バブル経済絶頂期の80年代の人の心を語っているとも言える。

 

「僕」がどのようにして、またいつ「世界の終わり」の世界に入ってしまったのかは分からない。それは「僕」自身の世界であり、選びようのない無意識の世界である。ただある時点でその選びようのない世界、しかも「世界の終わり」と名付けられた世界にいることを老博士は「私」に示唆する。「僕」はもちろんそんなことは知らない。「私」は言われて、そのような世界があることは分かるけれども、どのようなものなのかは思いつかない。「私」の表層意識の下、深層心理のことである。ストーリーを読んでいる私たちにはその関わりが提示されている。

老博士は「私」の意識下の世界を記号化し、数値化している。数値化したものをヴィジュアル化までしてしまっている。つまり「私」の知らない、気づいていない、意識に上ってこない世界をヴィジュアル化することで、「私」の無意識の世界を老博士は見ている。そこで見た一角獣の頭骨のレプリカをおみやげとして「私」に渡す。勿論「私」はその意味が分からない。ただ何かを示唆していることは分かる。

その一角獣は「世界の終わり」の世界からもたらされる。しかし一角獣は7メートルの高さの壁に囲まれた「世界の終わり」の壁の外に住んでいる。昼間だけ門番に導かれて壁のなかに入って草を食らう。夜になると壁の外で深い眠りにつく。「僕」はそんな獣の生態に関心を持つ。一角獣はただ壁のなかにいる人たちの記憶を吸い込みながら、壁の外に静かに住んでいる。一角獣だけが壁を通って出入りする。誰も壁の外にでることはできない。一角獣だけが壁の外に住んでいる。それで意識の世界に連動してくる。

「僕」は壁のなかに入るために門番に自分の影を預けなければならない。影と切り離される。影は怒る。誰も影を持って「世界の終わり」に入ることはできない。仕方のないことである。決まっていることである。影を失うことは心を失うことである。心を失うことは感性も失うことである。ただことはあるがままに進行し、そこに悲しみも苦しみも感じることはない。同時に喜びも感激もない。ただことは時間のなかであるがままに進むだけである。影がまだ生きているうちは心の残りを持ている。影が死んでしまえば、心は完全になくなってしまう。

「僕」は壁のなかで心を失いつつある。まだ完全には失っていない。影が死ぬまでに心を回復できるかどうか分からない。ただ「僕」は心を回復したいと思う。しかし高い壁に囲まれている。それはまさに「僕」の心の姿である。「僕」の心は閉ざされてしまっている。固い殻に囲まれている。壁はメタファーである。誰も寄せ付けないバリアーである。この物語の最後でそんな姿を「かたつむり」で表現している。

 

「私」のなかでは意識の世界と無意識の世界が、右ポケットと左ポケットのようにきれいに切り離されている言う。老博士はそれゆえに「私」の脳のなかに操作をすることができたと言う。26人に同じ操作をしても、「私」だけが生き残ったと言う。他の人は切り離されていなかったために操作中に脳のなかで漏電のようなことが起こって全員死んでしまった。「私」だけが生き残った。それは無意識の世界が固い殻のように囲まれていたからであると言う。

しかし「私」の脳は老博士によって第3回路にまで結びつけられている。すなわち「世界の終わり」への回路が付いてしまっている。そのことでどのようなことが起こるのか老博士は知りたいと思った。しかしそんな老博士の意図とか関係なしに、回路が結びつけられたことで「世界の終わり」の「僕」にも何かが連動してくる。何かが動き出す。心の回復を願う。そのための苦闘が始まる。「私」はその老博士の研究を盗もうとする人たちのためにとんでもない暴力を受ける。ハードボイルドである。あたかも「私」の壁が打ち破られるための闘いのようでもある。すべてがメタファーになってくる。

「僕」は「世界の終わり」の図書館でそこに備えられていた獣の頭骨を通して夢読みをする。それを助けてくれる図書館の女の子に出会う。「私」は老博士からいただいた一角獣のことを調べに図書館に行ってその図書館の秘書をしている女の子に会う。「僕」は女の子に惹かれるがどうして良いのか分からない。彼女の影はすでに死んでしまっている。彼女のお母さんは影を完全に消すことができなくて、そのために街には住むことができなくて森に住んでいると言う。彼女も「僕」を助けたいと思う。もうひとつの図書館の女の子は一角獣の資料を調べて「私」を助けてくれる。「私」と彼女は近づいていく。

「私」はしかし、老博士によって脳が第3回路まで結びつけらたままである。第1回路、すなわち意識の表層の世界にまで戻らなければ、そのまま意識を失うことになる。それが死を意味するのか、不死を意味するのか分からない。戻るためのデータを敵に全部奪われてしまって、どうすることもできないと結構のんびりしたことを老博士は言う。そのための時間の制限がある。時限爆弾のようにある。

それでも「私」は不思議に自分の回りの世界が気になってくる。よく見えてくる。投げ捨てられた女の子の衣装に目が向いていく。認識がしっかりしてくる。認識がしっかりしてくると責任もでてくる。「僕」も回りの音に心が向いていく。夢読みを繰り返していても出口がないことにいらだちを覚える。何かをしなければならないと思う。影に求められて「世界の終わり」の地図を作る。影が死んでしまう前に助けなければならない。影が死んでしまったら「僕」の心も完全に死んでしまう。「僕」も動き出す。時間の制限がある。厳しい冬が待っている。

 

「僕」にはまだ影がいる。影を残したままで森に追いやられたお母さんの話を女の子がする。お母さんがことばを繰り返して何かを言っていたことがあったという。それが唄であったと「僕」は気づく。ふたりで楽器を探しに行く。森の手前にある発電所の管理人が持っていると門番が教えてくれる。発電所は地下から吹き上げてくる風を電力に代えている。その風は「私」がやみくろの世界を通過するときに地下の穴から吹き上げていた風のようである。そして風を起こして音を出す手風琴を手に入れる。

広い寒々として図書館でふたりだけで心の話をしているときに、彼女はこの手風琴が何かももたらしてくれるかもしれないと言う。「僕」は楽器にさわる。ある音を出し、音階を代えてまた音を出す。そんなことの繰り返しのうちに音の繋がりが「僕」の心に響きをもたらす。何かが響いてくる。何かがまとまりを持って届いてくる。それは「僕」が知っていた唄だった。「ダニー・ボーイ」と気づく。「僕」はしばらくその曲を弾き、心で歌う。心を回復する。心に温まりが出てくる。「ダニー・ボーイ」が心の隅にまで届いてくる。彼女は涙を流す。

同じ時に「私」は彼女と一緒にソファーにいてビン・クロスビーの「ダニー・ボーイ」を口ずさむ。好きなのかと彼女が聞く。小さいときによく歌っていたという。アイルランドの民謡である。お母さんが戦場にでていく息子、ダニーに歌った詩である。ビン・クロスビーが歌っていれば父親の立場になる。あたかも放蕩息子に自分のところに帰ってくるようにと歌っているともとれる。

手風琴という風を吹き出すことで音を出す楽器で、「ダニー・ボーイ」がでてくる。風と愛の唄である。吹く風に弾かれてでてくる愛の唄である。心の響きである。心が響くことでいのちが戻ってくる。今まで失われていた記憶に響きが届くことで生き返ってくる。その響きがさらに余韻のように心の隅にまで広がっていく。「僕」の心は戻ってくる。「僕」の記憶はよみがえってくる。

「世界の終わり」は何と言ってもどんよりとしたいのちのない世界である。その描写に誘い込まれる。そのどんよりと静まりかえった図書館で「ダニー・ボーイ」の曲が奏でられると一面が明るくなる。どんよりと死んだような空気を払いのけるいのちを感じる。何度もこの場面を読んだ。その情景を思い描いてみた。「ダニー・ボーイ」がやさしく響いてくる。世界中の人の心に届いている唄である。

そんなことを思っていたときに、友人の牧師ががフィギア・スケートで金メダルと取った荒川選手がエキジビションで使ったCeltic WomanYou Raise Me Upを教えてくれた。そのアルバムに「ダニー・ボーイ」も入っていることが分かってすぐに手に入れた。ケルトの女性が歌うやさしい響きを持った「ダニー・ボーイ」である。何度も聴いている。この場面を思い起こしながら聴いている。まだビン・クロスビーのものは聴いていない。この本の英訳では「ダニー・ボーイ」の歌詞まで載せている。それも気の利いたことである。

 

「僕」が唄で心が温められているときに、光がどこからか差し込んでくることに気づく。天上の薄い電灯の光りではない。輝くような光りである。それが今まで死んでいたような頭骨からでていることに気づく。その内側から光を放っているのである。そして「僕」の目がその光りに耐えていることに気づく。門番に傷つけられた目は光を受けることができなかった。今その目が癒されていることが分かる。光りを見据えることができる。光りの温まりを心が受け取ることができる。

同じ時に彼女のソファーでぐっすり寝ていた「私」は彼女に起こされる。テレビの脇に置いてあったレプリカの骨が光を放っていたのである。その光も優しさを醸し出すもので、彼女も安心をする。手で触ってみる。その温かみは「私」のなかに何かの癒しをもたらしているように思う。「私」はそれがどのようなものか分からないが、何かの変化が起こっていることを認める。

「僕」はいま光りをたたえている頭骨が抱き込んでいる記憶を読み解いていく。以前よりもはっきりと読むことができる。いろいろなことが結びついてくる。それは彼女の心である。彼女が失った心である。彼女の心がよみがえってきた。「僕」は彼女を特別のように思う。彼女も「僕」を慕っている。愛がよみがえってきた。彼女と一緒にいたいと思う。

しかし影は「僕」の作った「世界の終わり」の地図をたよりに脱出の計画を立てている。「僕」も同意している。それが一番良いと思っていた。それしかないと思っていた。壁は高くてとても脱出はできない。門からは抜け出してもすぐに門番に捕まってします。影が考えついた方策は、南の水のたまりである。そのたまりは生きている。そこだけが地下水を通して外の世界と通じていると確信している。「私」がやみくろの世界から脱出するために通った水のようである。

「僕」は死にかけている影を門番の目を盗んで南のたまりまで連れて行く。そこで影だけを脱出させて「僕」は「世界の終わり」に止まることを告げる。影は当然驚く。しかし「僕」はその理由を言う。それはこの「世界の終わり」は「僕」自身の作り上げたものであると分かったからだと言う。この壁も、その街の川も、獣たちが死んで焼かれる煙も自分が作りだしたものだと言う。それで責任を取らなければならないと告げる。

影はそれを初めから知っていたと言う。ただ黙っていた。「僕」が知らなくても影は知っていた。その影が知っていたことを「僕」がいま知ったので、影がいなくても「僕」は生きられることが分かった。それで「世界の終わり」に止まる決心をした。影はそれ以上説得できないと分かってたまりに飛び込む。「僕」は雪の中を戻っていく。鳥が壁と飛び越えて飛んでいくのが見える。

「世界の終わり」は「僕」がいる無意識の世界である。その「僕」の影はまさに「僕」の無意識の世界である。しかし「僕」はいま自分の無意識の世界のことを自分で知ることができ、新しい目で観ることができ、受け入れることができ、その責任を取ろうとしている。無意識が果たしている役割をいま「僕」は果たそうとしている。心を回復したのである。影を送り出して森で生きなければならないとしても、それよりも責任を果たすことを選び取る。

「僕」は回復した。少なくとも回復に向かっている。壁は今までように固く閉ざされたものでない。どこかでほころびを持ってくる。門番は「僕」をこれ以上縛り付けておくことはできない。冬は終わろうとしている。どこからから新しい風が吹いてくる。そんな不思議な余韻を残してくれる。

「私」はその時を覚悟して迎え入れる。死なのか不死なのか分からない。「私」も自分の置かれた状況をしっかりと受け止めようとする。ボブ・ディランの音楽を聴きながら待っている。ただ「私」は「僕」が回復したことを知らない。「僕」の影が「私」に戻ってくることを知らない。「私」は静かにその時を待っている。

 

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』をどのように理解するのが良いのだろうか。私は意識の世界と無意識の世界の連動という視点で観た。といっても心理学者のようにその関わりを解明しようとしているわけでもない。作者が意図していたことでもなかった。それは老博士が取り組んでいた研究でもなかった。村上春樹はどこかで、自分はフロイトやユングの心理学を学んだわけではないとあえて言っているところがある。それを老博士を通して言ってる。

「私」が再度老博士を訪ねたときに、どうして「私」の脳にそんな操作をしたのかを問うたときに答えている。どんな操作してもその人の自発性をどうしたらよいのかという件である。「これを追求していくと、神学上の問題になるのです」と剣呑なことをさらっと言いのけている。すなわち摂理のテーマである。神がすべてを決定していると言えるのかということである。

それで近代以降の研究の成果で、フロイトやユングがでてきて心の世界について様々な成果を発表してきたが、それは語る述語を見いだしただけで、自発性についての解明にはなっていないと言う。老博士によれば「心理科学にスコラ哲学的色彩を付与したというにすぎんですな」となる。心の世界、特に無意識の世界が少し分かってきて、その精神科学をスコラ的な概念での置き換えをしているに過ぎないとなる。すなわち形而上学的な言葉、記号の遊びに過ぎないとなる。

老博士はそんな理論のための議論をしている閑はないという。現実的に脳に回路を結びつけることでどのような効果が出てくるのかを考える。そのために生じる障害を除こうとする。それは悪の手に渡ってしまったら大変危険なことであると分かっている。それでやみくろ除けの装置を付けて東京の地下鉄の下にあえて研究所を作って、誰も近づけないようにした。

 

村上春樹はまさに、この老博士を通して言わせたような姿勢でこの無意識の世界を取り扱っている。精神科学や心理学のテーマとして説明を施しているのではなくて、意識と無意識の世界を小説としてストーリーのなかで展開することで、自分の課題として提示している。自分の意識下に自分で気づいていなくてももうひとりの自分が影のように存在している。その影は自分のことを良く知っていてだけでなく、多くの場合にコントロールさえしている。そのことを小説家としてストーリーでもって展開している。

それではどうしたらよいのかという問いを驚きを持って自分にぶつけている。村上春樹の小説の主人公は結構複雑な問題を抱えている。少なくとも問題を抱えていると主人公はどこかで気づいている。それは外に向かうものではなくて、内に向かっている問題である。すなわちそれで人に危害を与えるようなものではなくて、自分だけが気づいていて苦しんでいる心の問題である。それで犯罪のように社会問題なるというものでない。しかしそのことが人を傷つけてしまうことになることを知っている。

『国境の南、太陽の西』の「僕」はそのように人を傷つけてきた。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の「私」はむしろ老博士のゆえに、彼の研究をねらっている敵に文字通りに体に傷を受ける。しかしそのようなとんでもないことに自分が巻き込まれるスキを持っていることは分かっている。自分のなかに感情的な殻をしっかり持っているために外の刺激に無感動に耐えることができる。だから誰かが「私」を玄関マットのように踏みつけていってしまう。それで思いがけなことに巻き込まれてしまう。

それで変に人生に疲れている。疲労感にとりつかれている。「人生の中心からふつふつとと湧きおこってくる疲労感」を感じている。人生がどうでもよくなっている。離婚をしていてもそれに対しての感情もない。奥さんがある日突然でていってもその原因を探ることをしない。そのままである。あるがままにことは動いている。それはまさに閉ざされた「世界の終わり」である。そこにいる「僕」である。

その閉ざされた世界の壁のことを、「私」はまさに傷つけられてベットに横たわってスタンダールの『赤と黒』の主人公のジュリアン・ソレルの人生に同情しているときに気づく。15歳で自分の人生の要因が固定されてしまっているのは、逃げられない監獄に閉じこめられているのと同じだと思う。それは壁に囲まれているのと同じだと思う。そして壁のことが心に浮かぶ。「僕」はまさにその壁のなかにいる。

 

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のストーリーは、「私」の物語と「僕」の物語りが奇数の章と偶数の章と交互に続く。意識の世界と無意識の世界が相互に連動している。しかし解決は「僕」の世界で始まらなければならない。その意味では無意識の世界で支配されている。どのように関わり、どのように支配されているのかをストーリーのなかで見いだしていくのは結構な作業である。もともとどのように関わり、どのように支配されているのかは精神科医、心理学者でも分かっているわけでない。関わりがあるということは分かっていても、どのようにとなると必ずしも明確でない。それを村上春樹はストーリーを設定することで提示している。その微妙な関わりを伏線としてしっかりと織り込んでいる。

壁に閉じこめられた「世界の終わり」は主に秋から冬にかけての描写である。黒い雲に覆われ、じっと時の流れをそのままに過ごしていく。ことはすでに決まってしまっている。それを繰り返していても飽きることはない。心を失っているからである。ただ定められたことをそのままやり過ごすだけである。そしてまもなく雪に覆われる。そんな情景を思い描くことができる。

その冬の雪の情景は、「ナルニア国物語」で衣装ダンスを通して入っていって最初に出会ったのが魔女に支配されている氷の世界、雪の世界であることと結びつく。私たちの氷付いた心を語っている。いのちのない、すべては氷のなかに閉じこめられた世界である。愛のない、躍動のない世界である。ルイスがナルニア国に入る入り口に設定した氷の世界と、村上春樹が「世界の終わり」で設定した雪に閉じこめられる世界が共鳴してくる。

「ナルニア国物語」の冬の雪の情景が契機で、この「世界の終わり」の描写にことさらに心が向いていった。そして不思議に、また逆説的に慰めを覚える。それは取りも直さず私自身の心の描写であるが、描かれていて読むことができ、自分の心でまた描き直すことで、不思議に納得できるからである。ストーリーの「私」と私は随分違っていても、ストーリーの「僕」と私とは意外に近いことが分かるからである。そんな姿をみることでことで重しの付いたような納得が心の深くに収まっていることが分かる。

表層の世界、意識の世界では人はそれぞれ違う。しかしその表層の皮の下の世界では不思議に水脈が通じていて共通の世界が開かれている。その世界をストーリーとして提示することで、多くの人に届いてくる。メタファーであり、ファンタジーであることで多くの人が「世界の終わり」を共有できる。概念でも、命題でも、原則でもない。心を取り込む物語である。

おそらく村上春樹がこの小説を書いた80年代の半ばは、激動の60年代、70年代を終えて経済的にも安定してきて表層的には満たされてきたときなのであろう。しかし同時にその表層の皮をむいた一枚下の世界はより複雑になり、混迷になり、闇を増していったのであろう。村上春樹はそれを感じ取ったのであろう。あるいは先取りしたのかも知れない。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は確実に人の心を捉えてきている。20年以上経っても新鮮な響きを漂わせている。むしろ時と共にその意味がより増してきているかのようである。

 

聖書の福音は本来、この表層の皮を一枚むいた世界にまで届くものではないかと思う。現実には表層の世界で止まってしまっている場合が多い。福音が概念化され、記号化されてしてしまってクリスチャンの表層の世界にただのしるし、記録のように停止してしまっている。聖書には命題化できない世界がある。命題化することは聖書ある部分を切り捨てることになる。そして意識の表層の世界の出来事で満足してしまう。意識のなかでのやり取りとして操作を始める。多くの場合にそのやり取りを安定化し、固定化することでそれぞれのグループのあり場を決めている。すなわち、教派や教会のあり場を決めている。それで安心している。

聖書が概念の世界でなく、物語の世界であり、たとえの世界であるのは、表層の世界の皮を剥ぎ取っても福音がなおその下に届いていくことを意味している。下意識の世界、無意識の世界にまでいのちを与えていくことを意味している。もちろんはじめから無意識の世界を認めない強い傾向ある。福音による変革は意識の世界、すなわち理性と意志で成し遂げられると思っているところがある。しかし現実には何も変わっていないことを知らされる。表面的に変わったに過ぎない。心の深くはそのままである。

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は取りも直さず、福音が心の深くに届くにはどうしたらよいのかという大変な問題提起をしている。フロイトやユングの言っている意味での無意識の世界をあえて考えなくてもよい。ただ心の深く、どこか分けの分からないところで闇のようにあって、私たちを動かしている世界と言ってもよい。そんな世界にまでどうしたら福音を届けることができるのか問われている。

村上春樹もあえて意識・無意識というパターンを避けているところがある。そのような理論付けは信じていない。ただ作家として真摯に取り組んでいる。彼のそのような心が読者にも届いている。それに対してプロテスタントの福音派の福音提示はあまりにも命題的あり、それだけ教訓的であり、心が離れてしまっている。多分に心の深くで求めを感じている人の上を通過してしまっている。深いズレがある。

 

「世界の終わり」で「僕」は手風琴でようやく唄を思い出す。何度もそれを奏でる。その響きが心の隅々に届いていく。そして頭骨に光が輝いていく。光りの温かみを増していく。凍り付いた心が溶かされてくる。「ナルニア国物語」で氷付いた人たちがライオンの息で溶かされるように溶かされていく。深い遠い記憶が糸を辿るようによみがえってくる。失ったものを回復する。心がよみがえる。福音はそのように心の深くに届いていく。

ダビデは罪を犯して神の前から逃げていった。天に上っても、神はそこにいることを知る。よみに床を設けても、神はそこにいることを知る。結局自分の心の闇の世界に逃れても神から離れられないことを認める。認めることでやみも暗くないことを知る。そして言う。「罪ある者として母は私をみごもりました。」心の闇の奥に光りを届けることができた。闇の奥は母の胎にも通じている。そこにも神はいる。

パウロは神に喜ばれたいという思いとは別に、自分のしたくなことをしてしまうもうひとりの自分がいることに気づいて驚き、苦しむ。自分の心を探っていく。心の底に住みついている罪を知る。愕然とする。自分ではどうすることもできないことを認める。神が心の底にまで介入することを認める。神の恵みにすがる。パウロはただ恵みによって今の自分であることを知る。

自分の心の深くに、そこが闇に覆われた暗闇であっても、聖書と共に下りていくことができる。「やみを隠れ家」としている神に出会うことを知っているからである。光りが届き、新しい風が吹き込んでくることを知っているからである。失ったものが見つかり、心が回復してくるからである。

 

上沼昌雄記

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