「村上春樹・体験—その3」2006年7月4日

『やがて哀しき外国語』と『遠い太鼓』

 

先週サクラメントで荒井先生とお会いした。ミニストリーのこと、JCFNのことで話し合ったのであるが、最後に村上春樹のことになった。今の私はどうしても村上春樹のことになってしまう。特にレスポンスを期待していなかった。ただ村上春樹のことで書いていることを紹介するつもりで話を出した。荒井先生は教会の人に紹介されていま読んでいると言うことだった。それでしばらく村上春樹のことで話し合うことになった。

荒井先生の感想は「この人はおかしいのではないか」というものであった。現実をごまかしているというか、すりかえながら生きているのではないかと言う。どうも村上春樹のストーリーの組み立てには馴染めない感じであった。しかしどこかで三島由紀夫に似ているのではないかと言われた。すごい洞察だと思った。状況や人や自然を描くときにとても細かくて正確に描写していることが似ているということであった。しかもその精密さが三島由紀夫を死に追いやった異常さに結びついていることを言いたかったようである。

荒井先生もマラソンをされるので、村上春樹もボストン・マラソンなので走っていますと言ったら、マラソンをする人はおかしな人ですよと言い返してきた。それで村上春樹の旅行記やエッセイを読むと、この作家の別の面が出てきてホッとすることをお伝えした。確かに彼の小説は嫌いだが、エッセイや旅行記は好きだという人に遇ったこともある。村上春樹自身どこかで、小説を書いているときはおかしくなるのですが、それ以外は全く普通のどうにもならない人間ですというようなことを言っている。

今回取り上げる村上春樹体験はまさに彼のエッセイであり旅行記である。荒井先生と話をする前から取り上げたいと思っていたので、荒井先生のコメントは成り行きとして興味深かった。

 

悲しいことで『国境の南、太陽の西』を読むことになって村上春樹の世界に興味を持った。多分その後、『ノルウェイの森』『ダンス、ダンス、ダンス』そして『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の順で読んだような気がする。何か霧の向こう、壁の裏側、地下の闇の世界を描いていることが分かった。自分のなかで触れないでいたものに触れたような気がした。心の何かに引っかかってくるものを感じた。さらに惹きつけられることになった

その後初期の3部作といわれる『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』と『羊をめぐる冒険』を読んだ。村上春樹の出てきたところが分かったような気がした。正確な順序は覚えていないが、この3部作と前後しながら『やがて哀しき外国語』と『遠い太鼓』を読んだ。前者はエッセイといったらよいのか紀行文といったらよいのかアメリカでの体験であり、後者はヨーロッパの旅行記である。

このふたつの本に接して村上春樹の生きる姿勢と、文章を書く姿勢に興味を持った。当たり前の世界があり、当たり前のように、しかししっかりと生きていて、それでいてどうにもならない世界があって、それで振り回され、苦しめられ、格闘をしていることが人生なのだと、ステートメントでもなく、メッセージでもなく、淡々と書き記すことに感心した。当たり前の作家の顔がこのふたつの本には出てきて安心するのと、当たり前の顔の裏側で、誰もそうであるように村上春樹も苦しみ、格闘していることがよく分かった。

『やがて哀しき外国語』と『遠い太鼓』を読んで、村上春樹の文章にも大変な親しみを覚えた。それまで読んできた小説では何かが心の琴に触れることを覚えていたが、とうてい自分にはそのような文章は書けないことが分かっていた。しかし『やがて哀しき外国語』と『遠い太鼓』に接して、「待てよ、自分でも書けそうな気がする」というそれこそ不遜な思いが出てきた。ミニストリーで起こったことや出会った人のことをいままでニュースレターなので書いてきたが、何かその延長線上にこの2つの本があるように思った。

結果としてこのような思いがあったので拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』と『苦しみ通して神に近づく』を書くことになった。ともかく書いても良いのだと自分に言い聞かせることができた。自分の拙い経験であっても世に出しても良いのだと思った。とんでもない村上春樹体験である。

 

『やがて哀しき外国語』は、村上春樹が1991年から95年までアメリカのニュージャージー州のプリンストンとマサチューセッツ州のケンブリッジに住んでいたのであるが、その前半のプリストン時代のことが書いてある。『遠い太鼓』は時間は遡って、1986年から89年までヨーロッパに住んでいたときの記録である。私が読んだのは『やがて哀しき外国語』が先であった。それで興味を持って『遠い太鼓』を続いて読んだのも覚えている。それで体験した順序に従って『やがて哀しき外国語』を先に出している。

ともかく村上春樹は37歳から46歳まで、その間1年ちょっと日本での生活を挟んで、海外で生活し、活動していたことになる。ヨーロッパ滞在の間に『ノルウェイの森』と『ダンス、ダンス、ダンス』を刊行し、アメリカ滞在の間に『国境の南、太陽の西』と『ねじまき鳥クロニクル』を出している。『遠い太鼓』はギリシャから始まった旅と生活の体験談であるが、折々に執筆のことが書いてあって興味深い。ともかく直接的な体験を鮮明に書いている。『やがて哀しき外国語』は、アメリカ生活で感じ、考えたことをテーマを選んで書いている。

村上春樹がアメリカで生活し、執筆を始めたときは、私が家族でカリフォルニアに移り住んで2年経ち、生活を立てあげるのに苦労していたときであり、いまのミニストリーを始めたときでもある。実際に『やがて哀しき外国語』を読んだのはそれから8年経って1999年ぐらいであったが、私なりのアメリカ体験があり、思うところがあったので、同意しながら、時には代弁してくれているような気になって、時にはなるほどと感心しながら読んだ。本を紹介してくれた人がいたわけでなく、小説のようにストーリーとしての舞台装置があるわけでなく、彼が経験し、思ったことと私自身の経験し、思わされたことがストレートに結びついた。水平的な村上春樹体験であった。

『やがて哀しき外国語』の「あとがき」で村上春樹が言っていることになるほどと思わされた。「長く日本を離れていていちばん強く実感することは、自分がいなくても世の中は何の支障もなく円滑に進行していくのだなと言うことである。」彼はすでに『ノルウェイの森』で超ベストセラー作家になっていたわけであるから、彼がもし飛行機事故でなくなったら大変な記事になるのは明らかであるが、それでも世の中が混乱することはなく、困ることもないと言う。そこまで言われたら私が日本からいなくなっても誰も、何も困るわけでないこと明らかだと納得できる。

「外国に長く出るというのは社会的消滅の先取り=疑似体験であると言っていいような気がする。」社会的な存在の死である。日本で生活し、その役割に追われている状況では、「自分の無用性」に付いて考える暇はないのは確かであると言う。社会的な存在の死を体験することで、本来の自分のあり方の再確認をすることにもなる。星野富弘さんのように社会的、身体機能的な死を経験することで、星野さんの本来のものが生きてくるのであろうと思わされる。

ここまで言えるのはすでに村上春樹がその前のヨーロッパから始まって海外生活で自分をしっかりと見つめているからである。海外にいても日本をそのまま引き連れている人もいる。村上春樹はプリストン大学でそのような日本での身分や、場合によっては自分の偏差値まで引き合いに出している人がいると言う。教職者の身分でアメリカに2,3年留学をされても、日本人としての尺度だけでアメリカを見てしまう人がいる。教職者の場合にはその尺度を捨てて、聖書の尺度を身に着ける大変よい機会であるが、日本人としての尺度を固持することが聖書的と思っている。

村上春樹のこの洞察は私に深い納得を与えてくれた。社会的消滅はそんなに気持ちのよいものではない。そのような身分があり、地位があればそれで自分の役割を演じることができる。私がアメリカに家族で移ることになったのは44歳の時であった。いちばん働き盛りなのにとある人から言われたのを覚えている。実際にアメリカに移ってから数年は皿洗いやペンキ塗りをしながら何とかミニストリーを軌道に乗せるのに腐心していた。その上に信じられない導きで自分の家を建てることになり、ともかく数年は肉体労働に追われていた。それでもその間不思議に日本のことも、自分の立場のことも全く気にならなかった。

残っていたのは自分と神のことである。どうすることが神に喜ばれるのかという信仰命題的なことよりも、どうすることを自分が一番求めているのかと神に問われたときである。既成の体制のなかで求められることでもなくて、人の期待に応えるためでもなくて、ただ自分の心が一番必要としていることで、同時に神が許してくださることを祈り求めた。ミニストリーはそのようなかで与えられた。村上春樹のこの洞察に接したのはミニストリーが始まって8年ほど経っていたときなので、ただうなずくばかりであった。

 

村上春樹自身の社会的消滅の経験は、彼の小説の普遍性を生み出している。社会的な文化的なものを越えて彼の小説が世界的に読まれている。それは、ともかく人としての存在の誰もが抱え、彼もが苦しんでいることに触れることができているからである。小説の舞台は紛れもなく日本であり、日本人であるが、そこで展開されることは人の心であり、人が日常生活でふっと感じさせられる不安であり恐怖である。どこかから襲ってくる闇であり、深い泥沼に引き込む暗闇である。

アメリカでじっくり生活をして分かることは、アメリカ人も日本人と同じように、同じようなことで心のなかで苦しんでいることである。表面的な違いは確かにあるが、アメリカ人も劣等感や、アイデンティティーや、依存症で苦しんでいることが手に取るように分かる。言葉や生活様式の違いは全く表面的なものになる。問題の出方が少し異なったり、対応が異なったりしているだけである。そのように思っているので、教職者や宣教師が文化論を持ち出してくるとどのように対応したらよいのか困惑してしまうのである。

『やがて哀しき外国語』は一見村上春樹の文化論とも読める。最初にヨーロッパに脱出した経緯はあまり書かれていない。多分その前に出した『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に関して心外な批評を、いわゆる分かったようなことを言っている批評家から言われて、怒りを覚えて日本を脱出したのではないかと勝手に想像している。アメリカにはプリストン大学に招かれて来た。それぞれ日本を出ていった理由は違うのであるが、『やがて哀しき外国語』では結構日本のことも書いてある。「アメリカで走ること、日本で走ること」というテーマはその意味でおもしろい。それでも文化論に終わっていない。アメリカと日本の違いを見る彼の視点が浮き彫りにされている。

その村上春樹の視点は、日本に属しているわけでもない、もちろんアメリカにあるわけでもない。彼自身が持っているものであり、彼固有のものである。それでいながら世界に通用するものである。その意味でアメリカには私よりはるかに短い滞在でありながら、アメリカが抱えている課題を見事に捉えている。世界を旅をして生活をしながら村上春樹自身の視点が定まってきたと言える。その視点が世界に通用している。小説の舞台は日本であっても、そこで展開される心の世界は普遍的な意味合いを含んでいる。

 

『遠い太鼓』の「はじめに」に『ノルウェイの森』と『ダンス、ダンス、ダンス』を書いたときのことが記してある。「このふたつの小説には宿命的に異国の影がしみついているように僕には感じられる。」日本にいてもこのふたつの小説は書いていたと思うが、違った色彩を帯びていたであろうと言う。「はっきり言えば、僕はこれほど垂直的に深く『入って』いかなかったであろう。良くも悪くも。」実際にはどこが「宿命的な異国の影」なのかを言うのは難しい。しかし「垂直的に深く入っていった」ことは分かる。

海外で生活していたら自分を見つめる以外にない。いつでも日本に帰ると思っていたら日本の枠をしっかり持ったままで我慢すればよい。そう簡単には帰れないと分かったら覚悟しなければならない。外的にも内的にも自分を見つめることである。人に頼ることはできない。誰もこうしろとかああしろとかは言わない。自分で決めなければならない。そのだけ自分の世界にそのまま入ることができる。ストレートに入ることができる。多くの場合にストレートに深く入る以外にないのである。

自分が何を求め、何を必要としているのかが見えてくる。逆に言えば、自分が何を失い、何を欠いてきたのかが見えてくる。定められたレールに乗って、決められたことをこなしていることでは見えなかった自分が見えてくる。自分の人生をしっかりと責任を持って考えていくことになる。誰も何も言わないし、誰にもないも言われない自分の人生をしっかりと責任を持って生きていく以外にない。

作家として村上春樹は書きたいことが分かっていた。そのように言っている。その書きたいことにストレートに入っていくことができた。それは彼の心の渇望であり、彼の人生が必要としていたものであった。日本にいても書いたであろうと言っている。しかしそれほど「垂直的に深く入った」いったのは、ただ自分を見つめながら、心から湧き出るものを書いたからである。誰のことも、誰の意見も気にしないで、書きたいことを直截に書いたのである。

それが結果としてどのような「宿命的な異国の影」を醸し出しているのかは的確には表現できない。村上春樹はそれが「しみついている」と言う。またそれしか言えないという。実際にはギリシャで書き始め、シシリーに移り、ローマで完成したと言う。言えるとすれば地中海的な穏やかさ、温かさではなくて、まさにノルウェイの薄暗い森の臭いが染み込んでると言える。どちらにしても日本では削がれてしまいそうな集中力と創造力をもって書いたことが分かる。そのように垂直に深く入ったところは村上春樹自身の心である。それが文章化されることで、その心に染み込んでいた趣が逆に異国にも響いていったのである。

 

村上春樹の作品を批評したりコメントをしたりすることが目的ではないが、ただ彼が数年日本を離れ異国の地で生活をし、小説を書いたのは、作家としての資質を飛躍的に高めることになったように思う。人間としての求めが明確になり、取り扱う課題に直截に入っていくことができたからである。結果として彼の作品はグローバルに読者を惹きつけている。

流れとしては『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を刊行した次の年からヨーロッパでの旅が始まり、『ノルウェイの森』を書き出している。ファンタジー小説とリアル小説とも言えるほど趣を異にしている。ただ『ノルウェイの森』ではリアルな設定のストーリーに垂直に深く入ることができた。日本でのうるさい声を一切後にして、心の深くにあるものを見つめながら、リアルな設定の上にその思いを直截に出している。そしてこのふたつの作品で出てきたファンタジーとリアリティーはその後の彼の小説に受け継がれている。

海外で生活をしているときには否応なしに自分を見つめることになる。時にはそんな時間が悠々と何時間も続くことがある。結果として自分が何を求めているのか問われてくる。自分がしたいこと、人生ですべきと思うことに集中してくる。そして少なくともアメリカではそれが法に外れていなければ思い存分することができる。そのために努力していることが分かれば周囲が認めてくれる。そのために皿洗いやペンキ塗りをしてることも理解してくれる。ミニストリーはそのようにして始まった。

日本にいたらできないことがある。雑音に振り回されたり、心が萎縮してしまったりする。周囲を気にしながら文章を書いたら趣が異なってしまう。同じことを同じようにすることが求められる。外れることは心情的に許されない。なんだかんだといって締め付けてくる。村上春樹はそんな状況を「先端的波乗り競争」「文化的焼き畑農業」「文化的消耗」と呼んでいる。

村上春樹は日本ではいわゆる文壇に入らない。いわゆる批評家の批評は読まない。メデアにでない。いわゆる文学賞の審査員にならない。サイン会もしない。結構はっきりと方針を出している。それなりに厳しいことだと思う。そんな決別を海外生活をすることで内外とも示したのだと思う。結構いろいろなことを言われたことをどこかで述べている。いまではそんな雑音も出ても届かないほどの高みと言うより、深みに村上春樹はいる。

 

自分がいなくても日本が変わるわけでなという「社会的消滅の先取り=疑似体験」と、「宿命的な異国の影」という村上春樹の体験はそのままどこかで自分のものに結びついてくることなので、このふたつの本はすんなりと直接的に私のなかに入ってきた。海外で生活しているがゆえに経験させられていることを文章化していることに親しみを覚える。小説とは違った体験である。海外で生活しているがゆえの共有体験を許してくれる。小説を通しての体験はかゆいところに手が届く感じであるが、このふたつの作品を通しての体験はお腹のあたりで感じることができる。身近で親しみがある。

彼はおかしいのではないかという荒井先生のコメントは、村上春樹にある一面を語っている。このふたつの作品は彼の直接的な面を示している。当たり前の世界を提示している。そのぶだけ読んでいて安心をする。確かなバランスをもって書いていることが分かる。自分の目の回りにあることをしっかりと見つめていることが分かる。その描写は見事であるが、不思議に親しみを覚える。読みながら、規模も資質も全く比べものにならないが、自分もミニストリーで経験したことをニュースレターなどで書いてきたことを思い出した。出会った人や体験したことを私なりに文章化してきたことを思い出した。

村上春樹のこのふたつの作品は、私自身の拙い体験を掘り起こしてくれた。隠れたところでもじゃもじゃしていたものを表に出してくれた。ミニストリーとして体験し感じたことを文章化することを促してくれた。私の拙い文章でも誰かの体験を少しでも刺激することができるかも知れないと思うようになった。体験は全く自分だけのものでありながら、どこかで共鳴を引き起こしていくことが分かった。そんな思いがあってミニストリーとしてのホームページで「ウイークリー瞑想」と「神学モノローグ」を書くようになった。すでに書きだしていたのかも知れないが、大いに刺激されたことは確かである。

 

村上春樹の文章について語ることはできない。ただ彼が情景をそのまま描いていることで、また小説の場合はストーリーを通してある場面を描いていることで、不思議にその中に引き込まれる。当たり前の情景であり、特別の場面でないと思わせる。そのように引き込まれることで共有体験をさせられる。共時性を感じる。村上春樹は自分の文章で何かのメッセージを伝えようとしているのではないとどこかで言っている。共有体験をさせられることで自分のなかに沈んでいたものが引き出される。文章を提供するというのはそのような共有体験の場を提供することだと分かる。他の人との共時性を獲得するためである。

このことはしかし説教者にとっては難しいことである。どうしても何かのメッセージを伝えたくなってしまう。教えたり、伝えるのが使命だと思ってしまう。どんな文章でも最後はお説教になってしまう。そのお説教の部分がなくても充分に伝わるし、逆にないだけ読む人に自由を与えてくれる。そんなこともあって「ウイークリー瞑想」では説教をしないことを心がけている。

村上春樹の文章は読み手に自由を与えてくれる。どのような取り方でもできるような面がある。というよりいろいろなドアがあって、どのドアから入るかでそれぞれの場面が展開されてくるところがある。あるやり取りで、村上春樹の文章が国語の試験問題になっていて、その意味は何か、次のなかから選びなさいと言うのあったと言う。そんなのはおかしいですようねと村上春樹が言っている。とても安心した。国語のこの種の質問にはいつも疑問を持っていた。読む人によって随分異なってくるのではないかと思っていた。村上春樹があっさり言ってくれて安心をした。

『ノルウェイの森』は大学ノートに書き、次の作品からワープロに変わり、最後はマックのパソコンで書くようになったと記している。手書きとワープロやパソコンで書くのと文体に違いが出てくるのかとことで、分からないと言っている。夏目漱石や谷崎潤一郎や三島由紀夫や吉行淳之介の文章はワープロやパソコンでは書けないだろうとも言っている。その辺の機微は分からないが、パソコンの進歩とともに文章を通してのミニストリーの役割が大きくなってきているのは確かである。マックでないと書けないとまで言っているのも分かるような気がする。

 

『やがて哀しき外国語』と『遠い太鼓』を読んで村上春樹が身近になった。親しみを覚えた。一見不可思議と思える小説を書いているもうひとりの村上春樹とのバランスがとれてきた。誰もが影の部分を持っている。それが彼の小説に出てくる。誰もが日常の生活を送り、時には旅に出ていく。そこで経験したことがこのふたつの作品で描かれている。小説で描かれていることも自分の一部であることが分かる。小説家だけが特別な人種ではないことが分かる。むしろ村上春樹の苦悩が身近になってきた。

彼の文章も親しみを感じる。一見誰でも書けそうだと思える感じで書いている。あなたも書いていいのですよという感じを与える。少なくとも私はそんな感じを持った。もちろん彼のようには書けない。ただ自分の書きたいように書いたらいいのだという促しを与えてくれる。そんな思いが募ってきて、私がその時経験していた男性だけの集会で出てきたことをまとめてみたいと思った。それで拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』を書くことができた。何とも言えない村上春樹体験である。

自分の文章がどのようなものなのか自分では分からない。ひとりの方が村上春樹の影響を言ってくれた。この方は村上春樹の千駄ヶ谷のジャズ喫茶「ピーター・キャット」でボブ・ディランをリクエストしたこともあると言う。この方も大変な文章を書く人である。信仰の世界のことで真剣にやり取りをしたことがある。それ以来私の文章にも真剣に接していてくれる。その人からも大変な刺激をいただいている。

 

上沼昌雄記

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「「村上春樹・体験—その3」2006年7月4日」への1件のフィードバック

  1. 2012年10月、ノーベル賞ウィークとなり、村上春樹のことが思い出され、
    その延長上で、このエッセイを読みました。

    村上春樹の視点は日本に属しているわけでもない。またアメリカに属しているわけでもない。。。

    このエッセイの一部を読みながら、自分に共感する部分があり、驚いています。

    私は所属感がありません。26歳で故郷九州を離れました。母親となかなか折り合えなかったものですから、家での居心地は悪く、逃げるようにして故郷を離れました。故郷のない旅というのは心もとなく、出て行った土地でも仕事の関係は築けても、こころ安らぐ温かい関係を周囲の人間と築くのは難しいものがありました。
    教師の仕事をやめました。結婚をし専業主婦になりました。
    子どもが授かり、母親となりました。
    ここで一生懸命悩みました。母親とはなんだろうと悩みました。

    過労となり甲状腺の病で、大好きな栄聖書教会に通うことができなくなりました。そして一番自宅に近い豊明希望チャペルに病に聖日を守るために通うようになりました。

    今は特に二つの教会で何か奉仕をしているわけではありません。

    教会の中で、特にわたしがいなくても教会の機能にはまったく支障がないわけです。

    去年母親が自らいのちを絶ちました。
    そのことで死に向き合いました。人間はいずれ死ぬということに向き合いました。

    クリスチャンだという社会的な
    使命を追いつつも自分の肉親が死ぬ、そして自分も病気と共にいるためにさほど教会で何かをしているわけではない
    そのことが自分を打ちのめしていました。

    いてもいなくてもいいような自分の存在の希薄さがたまらなくつらい時間でした。

    しかし、これだけの多くの喪失は恵みなのだと思えてきました。
    このエッセイを読んでそうなのだと思えてきました。やっと神様と一対一で
    向き合えていると思っています。

    これからどのように生きようかと祈っていますが
    何か既存のレールに乗っかっていくよりも、上沼先生がアメリカでいのったときのように、本当に自分がしたいことは何かを今は焦らずに祈り求めようと思えました。

    今は焦らずここにいるだけでいいのだと思っています。

    そのことに長らく悩んできました。

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