「石を枕に、夢を見る」2006年7月16日(日)

ウイークリー瞑想

 

 JCFNの15周年記念修養会でハワイに来ています。日本からの参加者を含めて60名ほど集っています。マキキ教会でハワイアン・ナイトで歓迎してくれました。そして次の日にスモールグループのチームビルヂングの形成のためのゲームを、アラモアナ・ショッピングセンターとアラモアナ・ビーチでして、会場であるカトリックの施設にバスで移って来ました。賑やかなホノルルの反対側に山越えをしました。中腹の切り立ったところにひっそりと佇んでいるカルメル会の修道院です。その敷地にリトリート・センターがあります。

ここがハワイなのかと思わせるほど静かなところです。幹線道路から斜面に下りてきています。その車の音が少し聞こえるだけです。鳥たちが私たちを歓迎してくれました。見渡した遠く向こうには海が見えます。空の色よりははるかにしっかりとしたブルーをしています。その海に沿って街が立ち並んでいます。カイルアの街です。澄み切った静かなビーチを抱えている街のように見えます。行ってみたいのですが機会がなさそうです。会場のどこからでもそのような景色を見下ろすことができます。その海から気持ちのよい風が絶え間なく吹いてきます。

京都の宇治に同じカルメル会の施設があります。同じ精神でこの会場が成り立っていることが分かります。沈黙を大切にしています。人里から離れて、ただ神に出会うことを切に求めています。修道院はいつもひっそりとしています。人のいる気配はあるのですが、その姿を見ることがあまりありません。それでも、このような場があるので皆さん自由に使ってくださいといっているように感じます。押しつけるところがありません。ただじっと佇んでいることで何かを語っています。その深い沈黙に惹きつけられます。

最初の朝にグループでのバイブル・スタディーがありました。創世記28章からヤコブがエサウを避けて旅立っていく場面です。一夜を明かすために石を取って、それを枕にして眠ったときに見た夢の話です。大変意味深い夢です。私は夢の内容よりは、夢を見ることが神との会話として用いられていることに関心を持ちました。しかも石を枕にして夢を見るのです。石と夢が神との会話、交わりの手段なのです。

夏目漱石が自分の名前のことで石を枕にすること語っているのを読んだことがあります。ヤコブの話が関わっているとは言われていなかったように思います。ただ人生の旅をしながら時には石を枕にして横になり、そこで思い浮かんだことを記していくことが自分の仕事のように感じているという文面であったように思います。

昼前に聖餐式がありました。その前に一人ひとりが自分の過去を振り返って、示されたことを石に書いて、それを祭壇に捧げることをしました。ヤコブが自分が枕にした石を柱として立てたことを私たちも追体験したのです。私は迷わずに「石を枕に、夢を見る」と書きました。聖餐式の前にそれを石の柱として捧げました。それを修養会の終わりにまた用いるのだと思います。

どうしてそんなことを書いたのか不思議です。現実に石を枕にするようなことはありません。一年に何度か旅をしますので枕はよく変わります。夢を見ますが、ヤコブのような夢は見たこともありません。意識のどこかに隠れていることが、しかも忘れていたと思うことが、全く思いがけないフォーマットで夢になって出てきます。覚えておこうと思ってもすぐに忘れてしまいます。夢にどのような意味があるのかそのような分析をしたことはありません。それでも意味があることは分かります。

神はこの時点で夢を通して私に何かを語ろうとしているのだろうか。自覚の膜で張られている私の意識が眠ることが解き放たれて、無自覚の状態になるのを待って神は語ろうとしているのだろうか。覚醒しているときに把握したことは、確かであるようで実際には不確かであることを夢を通して教えようとしているのだろうか。ヤコブのように夢で明確に何かを示し、何かを語ろうとしているのであろうか。

「石を枕に、夢を見る。」ハワイに来て、もうひとつ不思議な旅に出かけているような気がしています。

 

上沼昌雄記

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