「神のクロニクルを生きる」2006年9月27日(水)

ウイークリー瞑想

   先週末にサクラメント郊外のみくにレストランで、ミニストリーの15周年感謝記念会のバンクイットを持ちました。15年という短い歴史ですが、不思議に神のクロニクルである歴代誌を思い起こすことになりました。神のクロニクルからみたらミニストリーの15周年はほんの一瞬の瞬きに過ぎません。それでもミニストリーとそこで関わっている人にとって、このひとひらの雪片のようなクロニクルも神のクロニクルの一部、あるいはその続きとも言えるのだろうと思わされました。

「アダム」(1:1)から始まる歴代誌は神の歴史です。その延長でことが起こっているのです。「わが神よ。あなたは、このしもべの耳にはっきり、しもべのために家を建てようと言われました。それゆえ、このしもべは、御前に祈りえたのです」(17:25)というダビデのことばに惹かれました。ミニストリーを始めよという神からの導きを確信しました。それでまさに「祈りえたのです。」待つことができたのです。期待することができたのです。信じることができたのです。感謝することができたのです。

フォレストヒルというこの先は何処に通じていないという山のなかの小さな街に、17年前家族で東京から移り住みました。まさに世界の端に追いやられました。そこで出会った教会の人たちがミニストリーを受け止めてくれました。それからサクラメント郊外でレストランを始めていた荒井牧師とその家族に会いました。アメリカの教会が宣教活動として受け止めてくれました。サンフランシスコ郊外に関わりができました。そして太平洋を逆に渡り、日本に広がり、シンガポールにまで伝わっていきました。

カリフォルニアのそれぞれのところで関わった人たちが来てくださいました。妻のルイーズも参加できました。義樹は予定通りの参加でしたが、シカゴから瞳が大きなお腹を抱えながらサプライズで来てくれました。30数名の集いになりました。おいしいお寿司を一杯いただきました。スライドショウもありました。何名かの方のスピーチをいただきました。子供たちふたりとも思いを語ってくれました。和やかな時をいただきました。

参加してくださった方々のことを思い観ていたときに、それぞれに大変なクロニクルがあることを知らされました。この春に癌で奥様を亡くされた牧師、昨年脳腫瘍で大手術をされた青年とその奥様、この春に交通事故にあってそのままなくなってしまうのではないかと思った90歳になるご婦人、仕事を失った方、この2年のうちに結婚をされた若いカップル、そのような方々と関わりながらミニストリーが展開されているのです。ミニストリーだけのクロニクルではないのです。ミニストリーはそのような人たちのクロニクルと交差しながら前進しているのです。交差しながら神との接点を確認しているのです。

歴代誌をもう一度じっくり読んでみて、とても人間味のある書物であることが分かりました。歴代誌ですから出来事がただそのまま記述されているように思うのですが、そういう面を持ちながら、イスラエルのためのための神の特別の計らいを自分たちに納得できるように書いているのです。結局自分たちに都合のように書いているのです。それでいいのです。

この15周年記念会を持つことにためらいもありました。しかし持ったことで、ミニストリーのクロニクルも神のクロニクルに何らかのかたちで繋がっていることを確認しました。そのためにいままでの歩みを整理することができました。記憶をそれぞれの棚に納めることができました。そしてさらに参加してくださった方々、ミニストリーにいままで関わってくださった方々も同じように自分たちのクロニクルを整理することに役立つならば、ミニストリーの存在意義があるのだろうと思わされています。

 

上沼昌雄記

「存在することの恐怖と静かなる神」2006年9月18日(月)

主にある友へ
 この土曜日(23日)にミニストリーの15周年感謝記念会をサクラ
メントのみくにレストランで持ちます。皆さまの祈りと励ましを心より
感謝いたします。上沼 2006.9.18

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神学モノローグ

 ホロコストを戦争捕虜のゆえに生き延びたレヴィナスは後年になって
「存在への敬意」を説いているが、捕虜生活を終わって家族と親戚のほ
とんどがホロコストで亡くなったことを知ったあと、1947年に出
した『実存から実存者へ』では、「存在することの恐怖」を語ってい
る。どうにもならないほど自分が存在していることにためらいと恐れで
ある。夜とか闇とか死とか戦争とかが存在にとって恐ろしいのではなく
て、存在すること自体が恐ろしいのだという。

 この書物はすでに捕囚のなかで書かれていたものであるが、「存在す
ることの恐怖」は子どもの頃から胸に秘められていたものであったとい
う。それがホロコストを通して消すことのできな事実となった。眠られ
ない夜に、私でも、家族でも、世界でもなく、ただ<ある>という無名
の沈黙の響きがどこからともなく届いてくる。「<ある>がそっと触れ
ること、それが恐怖だ。」死への不安ではなくて、<ある>という無名
性への恐怖である。私の存在を消してしまうただ<ある>というおぞま
しさである。

 フッサールの現象学は、外の世界のあることへの意識と意識している
自分を出発点としている。それは理論化も概念化もできない私という存
在を浮き彫りにする。ハイデガーはその存在を現存在として捉えてい
く。すなわち私の実存の現象学である。フッサールを根拠にし、ハイデ
ガーに共鳴しつつも、レヴィナスは私の実存より先に、すなわち、私の
存在が意識にのぼる前に、ただ<ある>という無限定な、不確定な重苦
しい気配を感じ取っている。

 昼には私は生きているを知っている。私にはミニストリーという仕事
があり、コンピュータに向かいメールを書き、記事を書く。妻と話を
し、家族と話をし、人と会話をする。私の存在を私は意識している。そ
れで安心感を得る。掛け替えのない自分であると自分に言い聞かせる。
しかし不眠の夜はそんな自分は助けてはくれない。私といいう主体は消
えてしまう。ただ暗闇に覆われ、無名の実存がうごめいていることに気
づく。ただ<ある>ということ、明日もまた生けなければならないとい
うこと、その重荷に疲れ果てる。

 レヴィナスはこの思いを子どもの頃から胸に秘めていたという。ただ
どうにもならないほどに世界が存在し、私も存在しなければならないと
いう恐れである。生き続けなければならないという恐怖である。ホロコ
ストがあっても生き続けなければならないのである。そんな<ある>の
不気味さを語っていながら、その<ある>をも支えている神への信頼は
一点の疑いもないほど澄み切っている。それは光りである。その光りが
あるので、私は「影」をいただいて生きることができる。

 小さいとき家の外からはるか北に見上げる赤城山の夕陽に照らされた
すそ野を眺めて、当然私とは関係なしに<ある>ことが存在しているこ
とに少なくともためらいと恐れを覚えた。私は家に入って夕食を食べ、
宿題をしてということでそんな思いはすぐに消えてしまったのである
が、いままたレヴィナスを読みながらそのときの思いがよみがえってく
る。そのためらいと恐れはしかし何度もよみがえってくる。ワイオミン
グの大自然に触れたときもそれがよみがえってきた。自然への驚異では
ない。私とは全く関係なく大地があり、天空があり、世界があるという
無名の「存在することの恐怖」である。

 赤城山はその名の通り、夕日に映えてすそ野が赤くなる。そのすそ野
が長く伸びているのが赤城山の特徴である。そのすそ野をはうように
空っ風が吹き下りてくる。その空っ風に向かいながら自転車をこいで高
校から帰る途中に宣教師館があった。そこでのバイブルクラスを通して
信仰を持った。神はどのようなことがあっても「在って在る者」として
存在しておられる。静かに存在しておられる。

 レヴィナスの存在への恐れは、私のなかで起こった存在への最初のた
めらいを新鮮なものとしてよみがえらせてくれた。そのためらいが静か
に存在しておられる神への信仰をもたらしてくれたのかも知れない。

上沼昌雄記

主にある友へ

 いつも「ウイークリー瞑想」「神学モノローグ」を通しての交わりを感謝いたします。何度か取り上げてきました雅歌を用いての新しい本『夫婦で奏でる霊の歌ー雅歌にみる男女の会話』(いのちのことば社、1050円)を9月11日に出版、発売することができました。今回の表紙は花畑の間を通っている道です。雅歌で花嫁と花婿が互いを花と木でた
とえるながら、愛のやり取りをしています。そんなイメージにぴったりです。明るい美しい本です。
 しかし裏表紙の帯には「本文から」と言うことで、夫婦が辿る闇の冒険のことを掲げました。雅歌の3章と5章で、花嫁が花婿を捜しに「夜」出かけていくことです。次の文章です。「夫婦は、暗夜の冒険を覚悟しなければならない。その夫婦だけが抱える課題を引き受ける勇気である。ほかの夫婦の経験も役立たず、だれも手引きをしてくれない。
……行き先のわからない冒険である。真っ暗闇の中に出て行く冒険である。」

 夫婦における昼と夜です。まさに経験させられていることです。それはしかし花婿であるキリストとの間でも経験させられていることです。キリストと一つとなろうとするときにどうしても経験させられる霊的闇
です。そんな葛藤が霊の歌を奏でるのだろうと思わされています。自分
たちが霊の歌を歌っているというものではありません。ただ不協和音も
霊の歌だと思わされています。
 雅歌についての歴史的解釈のことも少し取り上げています。福音主義
神学にとってもチャレンジにもなっています。
 機会がありましたら読んでいただければ幸いです。

 祝福を祈りつつ。上沼昌雄 2006.9.12

「存在への敬意と9・11」2006年9月11日(月)

神学モノローグ

 ホロコストを経験したユダヤ教学者でもあるレヴィナスが「他者」を
視点に展開している哲学のひとつの結論が「存在への敬意」である。自
己である「同」を中心とした哲学は、暴力を用いてでも他者を自己のな
かに閉じこめてしまう全体性の世界観である。概念化は「他者」を自己
の体制に論理的に引き込むことである。それは「他者」の従属を前提に
している。

 しかし「他者」は自己には閉じこめることができない。超越してい
る。超越をしているので「他者」の顔は驚きであり、自己を打ち破る驚
異でもある。「他者」を概念化することはできない。論理を越えた存在
である。意識の手前ですでに存在している「顔」である。意識の手前で
「無言の響き」を漂わせている。私への意味を漂わせている。

 「父であるとは、自己自身でありながら他なるものであるしかたであ
る。」すなわち、「他者」である息子のために存在しているのが父であ
る。息子のための「身代わり」として存在することで父は自分から解放
される。夫婦においても当てはまる。私は妻のために存在することで本
来の自分であり得る。自分自身から解放される。妻は驚きであり、驚異
である。その妻のために存在しているので私は自己から解き放たれて、
超越への関わりを手に入れることができる。そして、超越が意味をもた
らす。

 レヴィナスは言う。「超越が意味しているのはむしろ、存在するもの
への敬意である。存在への敬意としての真理ーここに形而上学的な真理
がある。」「他者」の無言のつぶやきに耳を傾ける。じっと耳を傾けて
「他者」への敬意を表す。

 9・11から5年経った。その間の当事国であるアメリカの現政権の
論理の押しつけに無理が来ている。民主主義の正当性はその通りであ
る。しかしその論理は全体性として非寛容さを身に着けている。論理の
整合性が優先してしまうために、「他者」はその論理に隷属することが
求められる。

 それでも当事国であるアメリカの取っている行為には理解できるとこ
ろがある。気になることはアメリカの現政権の論理を後押ししている保
守的な信仰の論理、神学である。聖書を論理の世界に還元してその整合
性で神学を築いているのであるが、論理の明快さは論理の展開している
こちら側の力の論理でもある。すなわち、論理的に正しければ力を行使
してでも他をねじ込めていく力である。それを許してしまう論理である。

 民主主義も神学もその力を行使することを望んでいない。現実に世界
中でのアメリカの非営利団体による奉仕はキリスト教の精神から出てい
る。それでいながらその精神が受け止められるよりも、その背後にある
論理とその力による非寛容さが逆に世界を刺激してしまっている。現政
権が自分たちの妥当性を主張すればするほど世界は離れていってしま
う。世界はその論理に隷属するために存在しているのではないと気づい
ているからである。

 神学の論理の正当性は聖書の正当性とは異なるものである。前者は論
理を展開している人間の正当性であり、後者は神の義の正当性である。
レヴィナスはあえて「神学の破産」を宣告している。論理の世界を後に
して聖書の世界に戻ることである。それは大変難しいことである。2千
年の神学の歴史が重くのしかかっているからである。

「他者への敬意」は無限の他者である神への敬意である。神を自分の論
理の世界に引き下ろすのではなくて、神の世界に自己を放つことであ
る。神のことばにただ耳を傾けることである。そして、神の備えてくれ
た「他者」に耳を傾けることである。その「他者」に自己を放つことで
ある。聖書の論理とアメリカの論理を打ち破って、非寛容さを脱ぎ捨て
て「他者」に耳を傾けていくことである。

上沼昌雄記

「存在の涙・バビロン川のほとりで」2006年9月1日(金)

神学モノローグ 

レヴィナスの代表作である『全体性と無限』(岩波文庫上・下)と『存在の彼方へ』(講談社学術文庫)をこの夏中にと思って、頑張って読んだ。「他者」を視点に哲学を展開している。自己である「主体」を展開する哲学に慣れているために、レヴィナスの哲学のポイントを捉えるのに苦労させられた。しかし慣れてくるうちに、この「他者」は家族であり、隣人であり、先祖であり、民族であり、その先の先の先にまで遡って無限者としての神にまで通じていることが分かった。当然のように通じているのである。そんなユダヤ人としての、またタルムードの解釈者としてのレヴィナスの哲学書を読みながら、旧約聖書の系図がすんなりと私の中に入ってきた。

彼の哲学の方法論はフッサールに始まる現象学である。現象学は意識の世界の哲学である。心理学ではない。哲学は伝統的には主体と客体の二元的な展開でなされてきた。主体を中心とした認識論と、客体を中心とした存在論である。現象学はこの二元的な展開を避けて、主体と客体のまさにそのあいだの意識に焦点を当てている。意識はあることの意識であり、意識している私である。このあることを「他者」と呼び、意識している私を「同」と呼んでいる。レヴィナスによれば、ハイデッガーは結局この「同」の世界に留まって、その存在の住処を捜し求めたことになる。

レヴィナスは意識の向こう側、意識を引き出している「他者」の世界こそが私の存在を脅かしているとみている。すなわち、意識の手前ですでに「他者」は「顔」を持って沈黙のうちに語りかけている。私はその沈黙のこだまを聞くことである。「他者」は決して「同」には還元されない超越である。「同」を中心とした概念で築き上げられた「全体性」の世界を打ち破るのがこの「他者」である。「他者」は私が何かを意識する前にすでに隠れることなく存在している。「他者」の暴露は、脅迫であり、語りである。

私はこの「他者」のために開かれている。むしろ「他者」のゆえに開かれてると言える。閉ざされない「同」としての私は、「他者」のゆえに、「他者」のために「身代わり」として存在している。私たちからみると新約聖書の世界がそのまま展開されていることになる。父は、自分が父でありながら父でないことで父になる。すなわち、父は息子の「身代わり」であることで父になるという。哲学書で「父性」に出会ったのであるが、その「父性」の延長線上に旧約聖書の系図が繋がって来た。

彼はホロコストのことは何も語っていない。ただ『存在の彼方へ』は虐殺された6百万の同胞に捧げられている。ホロコストを不思議なかたちで生き延びたレヴィナスにとって、いまあるということは6百万の同胞の犠牲に上になっていることは避けることのできない事実である。

私がいまあるというのは、「他者」との連綿の上に驚異として置かれている。最後の最後まで私の存在である。しかし、私の前にすでに「他者」が存在し、私の回りにいつも「他者」が存在している。私はその「他者」のために「身代わり」として存在することで、究極的に無限の存在である神に結びつくことになる。勿論、無限定の神はすでに語りかけているので、開かれた私も応答することができる。神を「同」の世界に引き寄せることは決してできない。私である「同」が無限である神の世界に引き入れられるのである。

レヴィナスの哲学書を読みながらどうしてか分からないが、詩篇137篇で歌われているバビロン川のほとりでシオンを思い起こして涙を流したイスラエルの民のことが思わされてきた。ホロコストの後に「他者」の「顔」を思い観ながら神の語りを聞いているレヴィナスのうめきの哲学と、バビロン川のほとりで神を思い起こしている彼の先祖たちの悲しい詩とが共鳴してきた。存在の涙が綿々と流され続けている。そのように存在することで神に結びついている。概念では閉じこめられない時間の流れのなかで生きている。そんなとてつもない時間を持っているイスラエルの民に驚異を感じている。

 

上沼昌雄記