「存在の涙・バビロン川のほとりで」2006年9月1日(金)

神学モノローグ 

レヴィナスの代表作である『全体性と無限』(岩波文庫上・下)と『存在の彼方へ』(講談社学術文庫)をこの夏中にと思って、頑張って読んだ。「他者」を視点に哲学を展開している。自己である「主体」を展開する哲学に慣れているために、レヴィナスの哲学のポイントを捉えるのに苦労させられた。しかし慣れてくるうちに、この「他者」は家族であり、隣人であり、先祖であり、民族であり、その先の先の先にまで遡って無限者としての神にまで通じていることが分かった。当然のように通じているのである。そんなユダヤ人としての、またタルムードの解釈者としてのレヴィナスの哲学書を読みながら、旧約聖書の系図がすんなりと私の中に入ってきた。

彼の哲学の方法論はフッサールに始まる現象学である。現象学は意識の世界の哲学である。心理学ではない。哲学は伝統的には主体と客体の二元的な展開でなされてきた。主体を中心とした認識論と、客体を中心とした存在論である。現象学はこの二元的な展開を避けて、主体と客体のまさにそのあいだの意識に焦点を当てている。意識はあることの意識であり、意識している私である。このあることを「他者」と呼び、意識している私を「同」と呼んでいる。レヴィナスによれば、ハイデッガーは結局この「同」の世界に留まって、その存在の住処を捜し求めたことになる。

レヴィナスは意識の向こう側、意識を引き出している「他者」の世界こそが私の存在を脅かしているとみている。すなわち、意識の手前ですでに「他者」は「顔」を持って沈黙のうちに語りかけている。私はその沈黙のこだまを聞くことである。「他者」は決して「同」には還元されない超越である。「同」を中心とした概念で築き上げられた「全体性」の世界を打ち破るのがこの「他者」である。「他者」は私が何かを意識する前にすでに隠れることなく存在している。「他者」の暴露は、脅迫であり、語りである。

私はこの「他者」のために開かれている。むしろ「他者」のゆえに開かれてると言える。閉ざされない「同」としての私は、「他者」のゆえに、「他者」のために「身代わり」として存在している。私たちからみると新約聖書の世界がそのまま展開されていることになる。父は、自分が父でありながら父でないことで父になる。すなわち、父は息子の「身代わり」であることで父になるという。哲学書で「父性」に出会ったのであるが、その「父性」の延長線上に旧約聖書の系図が繋がって来た。

彼はホロコストのことは何も語っていない。ただ『存在の彼方へ』は虐殺された6百万の同胞に捧げられている。ホロコストを不思議なかたちで生き延びたレヴィナスにとって、いまあるということは6百万の同胞の犠牲に上になっていることは避けることのできない事実である。

私がいまあるというのは、「他者」との連綿の上に驚異として置かれている。最後の最後まで私の存在である。しかし、私の前にすでに「他者」が存在し、私の回りにいつも「他者」が存在している。私はその「他者」のために「身代わり」として存在することで、究極的に無限の存在である神に結びつくことになる。勿論、無限定の神はすでに語りかけているので、開かれた私も応答することができる。神を「同」の世界に引き寄せることは決してできない。私である「同」が無限である神の世界に引き入れられるのである。

レヴィナスの哲学書を読みながらどうしてか分からないが、詩篇137篇で歌われているバビロン川のほとりでシオンを思い起こして涙を流したイスラエルの民のことが思わされてきた。ホロコストの後に「他者」の「顔」を思い観ながら神の語りを聞いているレヴィナスのうめきの哲学と、バビロン川のほとりで神を思い起こしている彼の先祖たちの悲しい詩とが共鳴してきた。存在の涙が綿々と流され続けている。そのように存在することで神に結びついている。概念では閉じこめられない時間の流れのなかで生きている。そんなとてつもない時間を持っているイスラエルの民に驚異を感じている。

 

上沼昌雄記

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中