「存在への敬意と9・11」2006年9月11日(月)

神学モノローグ

 ホロコストを経験したユダヤ教学者でもあるレヴィナスが「他者」を
視点に展開している哲学のひとつの結論が「存在への敬意」である。自
己である「同」を中心とした哲学は、暴力を用いてでも他者を自己のな
かに閉じこめてしまう全体性の世界観である。概念化は「他者」を自己
の体制に論理的に引き込むことである。それは「他者」の従属を前提に
している。

 しかし「他者」は自己には閉じこめることができない。超越してい
る。超越をしているので「他者」の顔は驚きであり、自己を打ち破る驚
異でもある。「他者」を概念化することはできない。論理を越えた存在
である。意識の手前ですでに存在している「顔」である。意識の手前で
「無言の響き」を漂わせている。私への意味を漂わせている。

 「父であるとは、自己自身でありながら他なるものであるしかたであ
る。」すなわち、「他者」である息子のために存在しているのが父であ
る。息子のための「身代わり」として存在することで父は自分から解放
される。夫婦においても当てはまる。私は妻のために存在することで本
来の自分であり得る。自分自身から解放される。妻は驚きであり、驚異
である。その妻のために存在しているので私は自己から解き放たれて、
超越への関わりを手に入れることができる。そして、超越が意味をもた
らす。

 レヴィナスは言う。「超越が意味しているのはむしろ、存在するもの
への敬意である。存在への敬意としての真理ーここに形而上学的な真理
がある。」「他者」の無言のつぶやきに耳を傾ける。じっと耳を傾けて
「他者」への敬意を表す。

 9・11から5年経った。その間の当事国であるアメリカの現政権の
論理の押しつけに無理が来ている。民主主義の正当性はその通りであ
る。しかしその論理は全体性として非寛容さを身に着けている。論理の
整合性が優先してしまうために、「他者」はその論理に隷属することが
求められる。

 それでも当事国であるアメリカの取っている行為には理解できるとこ
ろがある。気になることはアメリカの現政権の論理を後押ししている保
守的な信仰の論理、神学である。聖書を論理の世界に還元してその整合
性で神学を築いているのであるが、論理の明快さは論理の展開している
こちら側の力の論理でもある。すなわち、論理的に正しければ力を行使
してでも他をねじ込めていく力である。それを許してしまう論理である。

 民主主義も神学もその力を行使することを望んでいない。現実に世界
中でのアメリカの非営利団体による奉仕はキリスト教の精神から出てい
る。それでいながらその精神が受け止められるよりも、その背後にある
論理とその力による非寛容さが逆に世界を刺激してしまっている。現政
権が自分たちの妥当性を主張すればするほど世界は離れていってしま
う。世界はその論理に隷属するために存在しているのではないと気づい
ているからである。

 神学の論理の正当性は聖書の正当性とは異なるものである。前者は論
理を展開している人間の正当性であり、後者は神の義の正当性である。
レヴィナスはあえて「神学の破産」を宣告している。論理の世界を後に
して聖書の世界に戻ることである。それは大変難しいことである。2千
年の神学の歴史が重くのしかかっているからである。

「他者への敬意」は無限の他者である神への敬意である。神を自分の論
理の世界に引き下ろすのではなくて、神の世界に自己を放つことであ
る。神のことばにただ耳を傾けることである。そして、神の備えてくれ
た「他者」に耳を傾けることである。その「他者」に自己を放つことで
ある。聖書の論理とアメリカの論理を打ち破って、非寛容さを脱ぎ捨て
て「他者」に耳を傾けていくことである。

上沼昌雄記

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中