「存在の手前の神学」2006年10月16日(月)

神学モノローグ

    「存在の涙」「存在の敬意」「存在することの恐怖」ということでエマニュエル・レヴィナスの哲学からヒントをいただいて神学モノローグを書いてきた。シンガポールへの20時間の飛行機のなかで『存在の彼方』という本を読んできたというより、以前読んで印を付けてきたところを紐解きながら追ってきた。そして、タイトルの「存在の彼方」は実は「存在の手前」でもあることが分かった。「彼方」は「手前」で現されている。

「彼方」とは言語化された存在の理解の向こうに見ている世界である。言語化された存在の理解とは私について概念化された身動きの取れない全体性の世界である。私のあり方について、私のあるべき姿について概念で体系化された世界である。それは西欧の哲学であり、神学であると言う。レヴィナスは概念化されない存在の涙、存在への敬意、存在することの恐怖を感じ取っている。ホロコストを生き延びたことで存在への涙をいまも流している。ホロコストは概念化による全体性の暴力であった。それを越える存在の「彼方」への敬意を『全体性と超越』でレヴィナスは求めている。

そしていま「彼方」とは存在の「手前」であるという。存在の向こうに望み見ていることはすでにその手前で響いているという。言語化されたものは「語られたもの」である。その「語られたたもの」の手前で何かが語りかけている響きがある。言語化される前の「語ること」である。言語化される前のことなので、それは「沈黙の響き」として届いてくる。「夜の静寂のなかで家具が軋む」音のようである。その音を聞いて存在することの恐怖を覚える響きである。

レヴィナスの哲学は現象学を基にしている。現象学は主体と客体という二元論ではなくて、主体と客体がすでに混然としている意識を取り扱っている。レヴィナスの場合には、その意識にのぼる前に存在がすでに聞き届けている響きに耳を傾けている。耳を傾けているというよりその響きをじっと観ている。「沈黙の響きを聞く眼」である。存在の手前で何かが語りかけている。その「語ること」が沈黙の響きとして「聞く眼」に届いてくる。

ヴィットゲンシュタインという哲学者はその「沈黙」を哲学の結論とした。そして文字通り沈黙をした。しかしレヴィナスはその沈黙を聴くこと、じっと観ることが哲学だと言う。その沈黙を聴く眼が、80年代以降ヴィトゲンシュタインをも越えて静かに浸透し、広がっている。それではどこで聞き、観ることができるのであろうか。レヴィナスはあたかも砂漠の聖者のように言う。それは「自己自身の闇のうちに引き籠もる仕方にとどまる」ことである。

聖書は神のことばである。しかし概念化された体系ではない。体系は神学の仕業である。聖書は体系化されないで神のことばである。その神の語りをことばの手前で聞き届けている人がいる。ダビデは「ことばが私の舌にのぼる前に」(詩篇139:4)自分の心を聞き届けている神を観ている。それはダビデの闇の世界であった。そこでいま神を認めている。パウロは心の「うめき」を御霊ご自身が聞き届けていることを知っていた。イエスはニコデモのことばの手前に届いていった。そのようにイエスはいまも私のことばの手前に届いてくださる。私のうめきを聞いてくださる。心深く闇のようなところで響いている叫びである。

存在の手前の神学は、ことばの手前の神学である。ことばの手前での神との交わりである。うめきが聞き届けられる神学である。それは霊性神学とも言い表すことができる。

 

上沼昌雄記

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