「大村晴雄先生と聖書研究会」

ウイークリー瞑想

  日本を発つ前日に大村晴雄先生を訪ねることができました。5月の時には骨折の後でリハビリのために入院をされていました。その後どのようにされているのか気になっていました。一ヶ月前にご自宅に帰ってくることができ、ご家族の方が同居されてお世話をされているとのことです。車いすですがお元気な様子でした。

拙書『夫婦で奏でる霊の歌』をお渡しすることができました。虫眼鏡を使って目次をじっくりと調べておられました。そして今朝の聖書研究もイザヤ書の5章の「ぶどう畑についての主の愛の歌でした」と言われました。お宅に11名集まられたということです。すでに長い間続いているもののようです。

その聖書研究は先生が講義をされているということです。それで5月の折りに病院でその箇所についてユダヤ人が書いた註解書のことで質問されてこられたことが分かりました。この時のための準備をすでにしていたのです。しかもヘブル語で確認をしているのです。

いつもは哲学のテーマが話題になるのですが、しばしヘブル語の世界のことを語り合いました。特にヘブル語の時制では完了と未完了だけで現在形がないことを尋ねてきました。哲学では「永遠の今」という概念で神の現在性を確認しているけれど旧約の世界ではどうなっているのかとことです。

返答に困ることでした。しかし最近レヴィナスの本を読んでいてユダヤ人が持っている時間観で気づいたことをお話ししました。ホロコストを経験していながらレヴィナスにとっては神はいつも「アブラハム、イサク、ヤコブの神」であるのです。「哲学者の神はいない」ようなことを言っています。何と言ってもアブラハム、イサク、ヤコブの神で、時間も空間も超えて通じてしまうユダヤ人の世界があることを、レヴィナスを読んで感じていました。

大村先生も「アブラハム、イサク、ヤコブの神か、うん、なるほど」と2,3回言われました。しばし沈思黙考の時となりました。西洋の時間観では捉えきれないものを旧約の世界が持っていることに共感して、言葉がないときが続きました。ただ自分たちの神がアブラハム、イサク、ヤコブの神であることを感謝しているようでもありました。まさにそうなのです。

96歳になられてもなお真理を探究している姿勢にプロテスタントの精神をみるおもいでした。真理であるキリストを知っても、その真理に関わる真理をさらに追い求めているのです。そのために開かれた心があるのです。自説を留めてなお聞いていく勇気があるのです。時の流れの向こうを行く超越があるのです。真理を愛する愛智があるのです。枯れることのない泉があるのです。

 

上沼昌雄記

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