「ギリシャ正教会とキリストの受肉」2006年12月8日(金)

神学モノローグ

     雑誌『クリスチャニティー・ツディ』の12月号は、クリスマスにちなんで、最近アメリカで映画になったキリストの「降誕物語」のことと、その脚本を書いた人のこと特集している。それとは別に「21世紀はギリシャ正教会の時代か?」という記事が載っている。記事を書いた人はギリシャ正教会のなかで育ち、高校時代に福音派の友人を通してキリストとの出会いを経験している。いまその両面に働きかけながらギリシャ正教会が福音の力で活性化することを、福音派がギリシャ正教会の宝を生かして豊かになることを願っている。

著者の視点は記事を読んでいただくと分かる。ここでは自分なりに思わされていることをまとめてみる。というのは結構長い間、ギリシャ正教会が拠って立っている初代教会の神学といえる、ニケア信条、その後のカパドキアの三教父の神学を自分なりに学んできたからである。拙書『夫婦で奏でる霊の歌雅歌に見る男女の対話』で引用しているニュッサのグレゴリオスはそのひとりである。三つの視点でまとめてみる。

 

第一は、福音派は自分たちの神学的な枠がそのまま聖書の枠と思っているが、その間に初代教会があり、中世カトリックがある。プロテスタントはカトリックのプロテストとして生まれいるが、初代教会の遺産を通り過ごしている。初代教会は長い迫害の後に、また異端との戦いのなかで神学をまとめてきた。その神学とプロテスタント福音派の神学の違いに自分たちが気づいてきている。多くのプロテスタントの神学者たちが30年ほど前から初代教会の遺産に注目してきている。

具体的な例は、プロテスタント福音派の神学の枠では雅歌を取り扱う手がかりがない。実際にほとんど取り上げていない。初代教会では雅歌を大切なものとしてきた。ニュッサのグレゴリオスの『雅歌講話』に見ることができる。その必要をカトリックの人たちも分かってその人たちの努力で邦訳されている。そんなことで、初代教会が受け継いだ遺産の方が聖書により近いのではないかという問い直しがでている。福音派もその問いかけに耳を傾けてきている。

 

第二は、さらに具体的な神学のアプローチとして、ニケア信条と福音派の信条に現されている、受肉の理解の違いである。さらにそれに関わる救済論、キリスト論、三位一体論の違いである。ニケア信条では、キリストの受肉は私たちのため、私たちの罪のためと明記されている。十字架と復活はそれに続いている。ニケア信条の中心人物であるアタナシウスの『神のことばの受肉』にもその意味がまとめられている。福音派の信条では、受肉は処女降誕の証としてまとめられているだけである。救いの理解は十字架から入る。いわゆる十字架の神学である。受肉は救済論から落とされている。

この違いは、救済の意味づけ、キリストの位置づけ、三位一体論の捉え方と、神学全体の枠の違いをもたらす。初代教会では救いの目標はキリストとの一体におかれている。福音派では義認論が中心に回っている。初代教会では、キリストとの一体感がなければ、キリストとおなじ道を通されるという迫害に耐えることはできなかったという現実が基盤になっている。義認論の後にはキリスト者がどのように生きるのかという課題がでてくる。聖化と栄化というテーマで論じられている。そしてさらに、生きた三位一体論と思弁的な三位一体論の違いである。

 

第三は、初代教会は信仰の影の面を真剣に取り上げている。闇の世界、魂の暗夜のことである。福音派は福音の積極面を見ているので、人間の陰の面を取り上げることは不信仰という感じがある。福音の積極面の強調で福音派の進展をみた。同時に取り残されてきたことが、福音派がそれなりに安定してきたことで課題になってきている。個々の取り上げはあるが、神学として魂の暗夜のことをどのように取りかかってよいのか手がかりがない。初代教会の神学は不思議な影を持って投げかけてくる。

初代教会で受肉が前面に取り上げられていることで、同時に肉を持つ人間の弱さ、肉がうちに持っている悪の世界を正面から取り扱うことができる。プロテスタントは二元論を否定はしているが、二元的な視点を保持している。すなわち霊肉二元論な視点であって、肉の面を否定的なものとしてはじめから落としている。霊の面、信仰の世界だけのこととして聖書を理解している。そのために肉が負っている闇の世界を神学として取り扱うことができない。ニュッサのグレゴリオスは雅歌の麗しい交わりのために、暗夜の試みを通らないと入ることができないと見ている。光の世界にはいるために、闇の世界をしっかりと見据えている。

 

福音派からギリシャ正教会に改宗するとかいう問題ではない。福音派がいただいているものを大切して、同時に見落としてきたものを素直に認め、初代教会が持っているものを取り入れながら、自分たちが豊かになればよい。といってもそのための手がかりも限られている。ともかくニケア信条をもう一度確認することから始めたい。ニュッサのグレゴリオスの『雅歌講話』に取りかかるのもよい。初代教会の神学としてA. ラウス著『キリスト教神秘思想の源流』(教文館)はよい手引きである。ギリシャ正教会の神学としてはアラジミール・ロースキイの『キリスト教東方の神秘思想』(徑草書房)がある。

それにしてもアメリカの福音派も自分たちの変容を強いられていることが分かる。それなりに敏感である。日本の場合には一度確立した福音派をそのまま守る、保守的な、保身的な体質が染み込んでしまっている。世界を観るときである。歴史をしっかりととらえるときである。変容を受け入れるときである。

 

上沼昌雄記

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