「受肉の神学のために」2006年12月21日(木)

神学モノローグ

 

 ギリシャ正教会についての雑誌『クリスティアニティー・ツディ』の記事に関して、前回初代教会の持っていた受肉の理解について言及した。厳密には初代教会でもラテン教父ではなくて、ギリシャ教父の理解によっている。ギリシャ哲学や、グノーシス主義の霊肉二元論による霊の世界の偏重と肉の世界の軽視に対して、神の御子の受肉は当時の世界観の転回を要求するものであった。ギリシャ教父たちは見事に戦い抜いた。

ニケア会議は、アリウスに対しするアタナシウスの熾烈な戦いであった。アリウスは受肉を否定した。キリストは天使であった。アタナシウスは何度も形勢が不利なり、罷免されるということを通されながら、最後に奇跡的と言っていいほどにニケア信条をまとめ上げた。御子は神と本質をひとつにして(ホモウーシオス)、神からの神であり、私たちのために、私たちの救いのために肉を取り、人となられた。聖書の世界をそのまま語ることに腐心している。

ニケア信条に関してのラテン教父たちの反応は、聖霊に関してのフィリオクエ論争で現されている。その意味はすでにラテン教父たちが理性と論理の世界で神学をまとめようとしていることを伺わせている。中世のローマカトリックの神学にそのまま受け継がれている。様々の見解や、異端とのなかでの論理的な武装を強いられてきたという意味では納得できる。しかし変容ももたらすことになった。11世紀のアンセルムスの受肉論『なぜ神は人となられたか』はアタナシウスの受肉論『神のことばの受肉』とは趣をことにし、受肉に関する論理的な証左を試みているだけである。

クリスマスが、御子の誕生のお祝いで終わってしまっている。受肉が救済論から離れてしまった。大変な離反である。そのままプロテスタントにも受け継がれている。西欧の神学は二元論を否定してはいるが、二元的なメンタリティーを保持している。キリスト教が精神性の宗教になってしまった。頭で理解をして意志で従っていくという精神性である。従い得ない肉の世界を置き去りにしてきた。肉の持つどうにもならない闇の部分を取り入れることができない。理論的な信仰の美しい世界を描き、それに従うように語ることができても、従い得ない肉の世界をどうしたらよいのか手がつけられないままである。ただ精神的な、倫理的なキリスト教になってしまった。

受肉の神学は、身体性のキリスト教である。天上の神学ではなく、地上の神学であり、地下の神学である。だれもが肉を持って生きていること、肉の持つ弱さに絶えず直面していること、肉のなかに深く潜んでいる闇の世界で苦しめられていること、身体は時間のなかで不可逆的に絶えず前に進んでいること、その時間のなかでのことを身体のどこかに記憶として積み重ねていること、その人だけの人生であり、その人だけのストーリーであること、肉を持つ自分の場があり、身体を代表するかのような顔を持っていること、を真剣に取り上げていく神学である。

精神性のキリスト教は、聖書の世界を理性的に築き上げて、そこでの教えと命題を勧めとして、説教として提示していく。提示する人も聞く人も自分の足りなさを叱責して絶えず上に登ることを勧める。時にどうにもならなくらって落ち込んでします。しかし西欧の神学がどのように美しい神学を築いても、戦争は繰り返され、ホロコストという人間の悪の極みが背後から襲ってくる。西欧の闇、陰の世界がそのまま思いがけず出てくる。それはキリストを知らないからだと無責任に切り捨てていく。同じようなことはどこでも起こっている。神学校で聖書をしっかりと教えていてもとんでもない問題を抱えてしまう。ただ不幸なことだと言い聞かせている。

身体性のキリスト教は、どうにもならない自分をしっかりと受け止め、肉の弱さを直視し、自分の影の部分、闇の部分を認め、そのために御子が肉を取られたことを確認する神学である。私の肉であり、私の人生であり、私の記憶であり、私のストーリーであることをしっかりと受け止めていく神学である。御子が肉を取られたことが私の救いのためであることを知る神学である。クリスマスは、御子の誕生のお祝いだけでなく、肉を持つ自分の弱さを静かに振り返るときである。

精神性のキリスト教は、聖書からキリスト者のあるべき姿を提示する。聖書の美しい世界を築いてくれる。到達し得ない自分は置き去りにされてしまう。聖書と私たちの間に微妙な距離を設けてしまう。受肉の神学は、パウロの弱さ、ダビデの罪、ヨブの苦しみ、エレミヤの嘆き、アダムの涙に私たちを結びつけてくれる。聖書の美しくない世界を見ることを許してくれる。人間の醜い部分を見ることに勇気を与えてくれる。そのために幼子が馬小屋で産まれたことに想いを向けさせてくれる。裂かれた肉の痛みを痛みとする。裂かれなければならない自分の肉を知っている。キリストとの一体性が開かれてくる。

 

上沼昌雄記

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