「56歳の青春」2007年2月19日(月)

ウイークリー瞑想

    前回映画『硫黄島からの手紙』を観て、「よみがえる時間」という記事を書きました。ひとりの友人の牧師が返事をくれました。「『よみがえる時間』いい響きです。私には青春はうつ病になったのでありませんでしたが、今が青春です。今年56歳です。世界一幸せな牧師です。」以前まさに「世界一幸せな牧師」という記事を書いた牧師です。

数年前に最初にお会いしたときのことを思い出します。何か大きな検査を終えて帰ってきたときだと思います。初対面の私にうつ病で苦しんだ青春を語ってくれました。そんな自分がいま牧師をしているのは奇跡であると言われました。うつ病で真っ暗な世界に引き込まれていくことを何度も経験されています。今でのその戦いはあります。同時に肉体の試みも受けています。再発の心配を抱えています。

初めからご自分の闇の世界を見せてくださったので、お伺いしての入り口での挨拶でも、時候の交換でもなく、いきなり台所のテーブルにすわって家庭の事情を聞いているような感じになりました。確か教会の台所のテーブルでお話を聞きました。私がどのような人物で、どんな働きをしているのかも聞いてこられなかったように思います。いきなり暗い話を始めました。しかし暗くはなかったのです。重い話でしたが、疲れることはありませんでした。その暗やみからすでに出ているからです。出ていな人の暗い話は疲れます。堂々巡りになるからです。

初めから囲いなしに接してくださいました。普通はそうされると戸惑うのですが、不思議に戸惑いもありませんでした。その晩祈祷会でお話しをさせていただきました。私の心を受け止めてくださいました。いい話とか感動的だとか言うのではないのです。心なのです。私もそれなりに相手に合わせていきますが、そんな思いは必要ありません。ただありのままであればいいのです。ありのままを意識的にしようとしたら、結構難しいところです。そんな意図的なことはいらないのです。なにも構えなくていいのです。

青春を取り戻した。ともかくおめでとうございます。青春を謳歌してください。高校生から社会人の3人のお嬢さんに囲まれて照れながら、目を細めて眺めている浮かんできます。お嬢さんたちを眺めながら失った青春を思い起こしているのでしょうか。自分ではできなかったことをお嬢さんたちのなかに見て感激しているのでしょう。56歳の青春、それがおかしくないのです。不思議な存在感を持っています。

失った一枚の銀貨、それを捜し、見つけだして喜ぶ話し、そんな現実を見ています。少年時代に失った青春、そんな青春まで神はよみがえられてくださるのです。大変なことです。失って取り返しのつかないことを多く抱えています。しかし、そのままではないのです。神の時間のなかで取りかえされるのです。神のなかでは時間が反転するのです。私たちのなかでは流れていきます。失ったものは戻ってきません。しかし神のなかで取り戻すのです。

 

上沼昌雄記

「よみがえる時間」 2007年1月31日(水)

ウイークリー瞑想

  一昨日、クリント・イーストウッド監督の『硫黄島からの手紙』を観てきました。アメリカ映画で、アメリカのひとつの街の映画館で、ほとんど日本語のやり取りの映画を観ることになりました。考えてみると変な設定です。しかし歳をとってきたせいか、アメリカのなかでも日本人であること、日本語の本を読んだりすることに違和感を感じなくなってきました。最近では、アメリカ人に囲まれた飛行機のなかでレヴィナスの邦訳『全体性と無限』を読んでいます。以前はこのような設定を避けていたところがあるのですが、歳とともに図々しくなってきました。

この映画は、アカデミー賞の候補にも挙がっているので注目を集めています。日本でも上映されていてご覧になった方もいることと思います。すでに空も海もアメリカ軍に制圧されているなかで、新たに任命された栗林忠道中将が、島全体を洞窟の要塞にすることで、5日で終わると言われた硫黄島の戦いを一ヶ月以上も引き延ばしたこと、その間に家族に送った手紙でどのような心境でいたのかを物語っています。栗林中将を演じる渡辺謙の迫力のある演技と、パン屋出身の西郷一等兵を演じる二宮和也の戦争ここにあらずという心の演技が対照的で、印象的でした。

勝ち目のない戦争を強いられたこと、どうしてそのような破滅的なことをしなければならないのか、その責任はどのようになっているのかと観ながらも、観た後も思わされるところがあります。むしろそのような思いを残してくれるような設定をクリント・イーストウッドが見事に作り上げたように思います。日本人の制作ではまだここまでは冷静に過去を振り返ることができないのかもしれません。この映画の制作に『シンドラーズ・リスト』のスティーブン・スピルバーグが関わっていることに納得ができます。

硫黄島の戦いでは日本軍は2万人以上の死者を出しています。アメリカ軍は海兵隊だけで6千人近い死者を出しています。義樹が海兵隊史上の最大の犠牲者であると教えてくれました。そんな戦いが私が生まれる直前まで繰り広げられていました。海兵隊の上陸が1945年の2月19日です。その3日後には摺蜂山にアメリカ国旗が掲げられました。それから硫黄島全土が制圧されるのに一ヶ月以上かかっています。栗林中将が先頭指揮して最後の突撃に懸かり戦死したのが3月26日になっています。私はその3日前に生まれました。

映画を観て、硫黄島戦争の経過を追いながら、自分が生まれる直前に、意味のある戦いであったのだろうかと思わされることがなされていたことに、不思議に思いが結びつけられています。日米何万の死傷者を出したことが、自分の誕生と深く関わっているように思えてきます。過去のことですが、避けられなかったのであろうか、こんな破滅的なことをしてその責任は明確にされているのだろうか、硫黄島の戦いが終わって62年経ち、その時のことが問いを持ってよみがえってきます。時間がよみがえってきて何かを語っているのです。

イスラエルの民が出エジプトを昨日のように覚えているのが納得できます。時間が生きているのです。詩篇77篇で、苦しみのなかで叫び、嘆き、心で歌い、思い巡らすとことを通して、イスラエルの民が出エジプトのことを賛美しているのです。出エジプトはいまのことなのです。拙書『苦しみを通して神に近づく』としてまとめました。

時間は生きているのです。時間がすべてを忘れさせてくれるのではなくて、時間がよみがえってきていまも語りかけてくるのです。私たちの意識ではすべてが時間のなかに消滅してしまうように感じるのですが、その時間のなかで消滅したと思われることが神の時間のなかではもう一度意味を持って生きてくるのです。レヴィナスはホロコーストを経験しながら、自分たちの神はいまでもアブラハム、イサク、ヤコブの神と認めているかのようです。

過去の忘れたいと思う記憶も、神の時間のなかで意味を持ってよみがえってきます。自分の生存する前のことも、神の時間のなかで意味あるもとしてよみがえってきます。私は、限りある人生でありながら、限りのない神の時間のなかに生きているのです。それで詩篇77篇の作者のように言うことができます。「私は、あなたのなさったすべてのことを、思い巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。」(12節)

 

上沼昌雄記