「うめき」2007年2月26日(月)

ウイークリー瞑想

    心を静めて自分の心に耳を澄ませていくと、心の底から何かが響いているのが分かります。心の底が深み闇の奥に通じていて、地の底から風が吹き上げてきて絶えず何かを唸らせています。地の底に誘い込むような響きです。しっかりと聞き届けられるものではなく、ただ心のなかに穴が開いていてそこから風が通り抜けていくような音です。聞きたくものない音です。それでも心の耳に届いてきます。寝ているときも、仕事をしているときも、人と話をしているときも、聖書を読んでいるときも、祈りをしているときも心の耳から離れません。

パウロはそんな自分の心の底の響きを、ロマ書8章で「うめき」と言っているようです。「被造物のうめき」と「御霊のうめき」にサンドイッチのように挟まれて自分の「心のうめき」を聞いています(ロマ書8:22−26)。あたかも自分の心のうめきに耳を澄ませているときに、自分の外でも同じようなうめきがあることに気づいて聞き届けているようです。心の底の深い闇の奥で響いているうめきが、地の隅々から、またさらに地を越えたところから聞こえてくるようです。地表から染み込んで地の底の真っ暗闇のなかから鳴り響いているようです。また、地をはるかに越えた天でも響いているようです。

パウロがなにをうめいていたのかを、自分の心のうめきに聞きながら、想像します。それにしても「何を」というのは明確には出てきません。むしろ訳もなくうめいている自分の心に対面します。パウロの心より自分の心のことが気になります。ただパウロの心のうめきに気づいて、自分の心のうめきを聞き取る手がかりをいただいているのです。そして、うめきが連動してその先の先と進んでいきます。あたかもうめきに物語があるように先に先にと進んでいきます。失敗や、別離や、空白や、恐れや、怒りや、不信や、後悔の物語です。うめきが積み重なって暗い闇夜の唄となってきます。

男性として自分の心のうめきに耳を澄ませていると、他の男性の心のうめきが伝わってきます。人生で失ったもの、取り返しのつかないこと、家族を傷つけてきたこと、満たされない心、劣等感で苦しんでいること、優越感の虜になっていること、あたかもアダムがエデンの園を追われて、決定的に何かを失って失ってしまったものを探し求めているようです。うめいていながらこの地上では得られないようです。どこにも行き所のない、たどり着けないうめきです。

自分の心のうめきに耳を澄ませていると、少しだけパウロのうめきが聞こえてくるようです。パウロが被造物のうめきを聞き届けていたのも分かるような気がします。それでも分からないというか、驚かされることは、パウロが自分の心のうめきをじっと聞きながら、そのうめきを御霊みずからがうめいていると気づくことです。自分の心のうめきと御霊のうめきが結びついてくることです。どうしてそれが可能なのか、立ち止まるのみです。決定的な隔たりがありながら、どうしてあたかもコインの両面のように結びついてくるのか、驚かされます。その結びつきを知りたいと願います。

パウロはそんな御霊のうめきに気づいて、その後「御霊の思い」、「神のみこころ」、そして「神のご計画」(ロマ書8:27.28)について語っていきます。ですから自分の心のうめきを聞きながら御霊のうめきに気づくことで、神の世界に導かれていることが分かります。あたかも自分の心のうめきが神の計画を知る手がかりであるようです。うめきが神に近づく手立てのようです。

自分の心のうめきを聞くことは、自己憐憫ではないのです。自己憐憫はどこにも行き着けません。自分の心のうめきの聞きながら、他の人のうめきに共鳴するのです。さらに御霊のうめきにまで届いていくのです。それは自分の心のうめきをしっかりと、じっくりと聞き届けることで開かれます。聞き続けることです。立ち止まって耳を澄ませることです。

 

上沼昌雄記

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