「作業神学」2007年3月12日(月)

神学モノローグ

  エマニュエル・レヴィナスの哲学を関心を持って読んでいる。ユダヤ人でタルムードの学者でもある。旧約聖書の哲学者の感がある。メシアを待望してる哲学である。満たされることなく絶えず求め続けている形而上学的渇望であるという。パンを食べて満腹するという意味の渇望ではない。それは「まったく他なるものをめざし、絶対的に他なるものに向けられている。」そのために「なじみ深い世界から旅立ち、私たちが住まっている『我が家』をはなれて、見しらぬ自己の外部、向こう側へとおもむく運動」となる。ヘブル書11章で言われている「さらにすぐれた故郷」を求めている「旅人」に通じる。

そんな哲学が、大学時代にかじったハイデッガーの哲学の対極にあることでより関心を持っている。レヴィナスは戦前ハイデッガーの哲学に共鳴して、フランスに紹介した。しかし、ハイデッガーはナチスの党員となり大学の学長になる。レヴィナスはフランス軍兵士としてドイツの捕虜収容所にはいる。ホロコーストで生まれ故郷のリトアニアの家族、親族を失ったことを戦後知る。そんな時代の負い目を負いながらハイデッガーとレヴィナスは哲学をする。

ハイデッガーは、ただ私の存在の有り様を追求する。なぜ無ではなくて有なのかと問う。死を乗り越えることのできない実存の穴を掘る。詩人のように、神秘主義者のように実存を見つめる。レヴィナスは、私はすでに他者に投げ出されている裸の存在と見る。アウシュビッツで裸にされてガス室に投げ込まれた同胞の姿を見ている。他者のために「身代わり」として生きる存在として自己を見る。父は息子の身代わりとなることで父となる。別の仕方としての自己を追求している。死を乗り越えた実存の向こうを見ている。

大学の時にハイデッガーをかじって、そのまま手がつけられないで残された感覚、実存の穴を掘ってどこにも行けないためらい、詩人か神秘主義者になるしかないのだろうとう哲学的行き詰まり、そんな思いを抱えていた。そして、ハイデッガーの哲学も時代の流れに押し流されていった。レヴィナスは、ハイデッガーよりひと世代のあとである。しかし、彼がアウシュビッツの廃墟から「存在の彼方」を見つめて問いかけている問いが、形而上学的渇望として80年代以降生きている。避けることのできない他者の「顔」が驚きとして出現している。

ハイデッガーとレヴィナスの共通の師は、現象学を確立したフッサールである。レヴィナスはドイツにフッサールのもとで学び行って、すでにその現象学を存在の追求に適用して1927年に『存在と時間』を出したハイデッガーと、まさに運命的な出会いと決別をする。現象学を手元に置きながら、存在の穴を掘る哲学と、存在の彼方を見つめる哲学と別れる。それぞれ存在そのものの有り様をしっかりと見つめる。その見つめる眼を現象学からいただく。現象学は存在の有り様を、すなわち現象をそのまま見つめようとする作業である。

そんなことで、レヴィナスの延長線上でフッサールを読んでいる。現象学のキーワードは「判断停止」である。既成の方法論、価値観、世界観を一度棚上げにすることである。主体と客体の二元論で成り立っていた西洋の存在論と認識論を棚上げにして、すでに他者を取り込んでいる意識の有り様を見つめる。経験としての意識を取り扱う心理学ではない。経験以前の先験的な意識の有り様を見つめていく。ハイデッガーはそこで死に向かっている不安を捉え、レヴィナスは存在の向こうを見る。

フッサールの現象学の判断停止は、存在の有り様をそのまま見つめていくことを助けてくれる。しかし、存在の有り様はどこか遠いところになるのではない。寝て起きて、ご飯を食べ、仕事をし、人と会い、音楽を聴き、テレビを観ているまさに自分の有り様である。私の有り様から存在そのものを見つめていく作業である。具体的な作業である。議論のための議論ではなく、自己解明の作業である。意味の解明である。それで、フッサールは現象学を「作業哲学」と呼んでいる。

判断停止をもとにした作業は、その人の意識の志向性を明らかにする。意識の手前のその人のなかに潜んでいる志向性である。それでその作業は、作業に取りかかる人が負っている重荷、負い目、傷、過去が取っかかりになる。レヴィナスを読んでいて彼の人生の眼を感じ取る。哲学の書でありながら、彼の人生の物語が伝わってくる。600万の同胞の死の悲しみが伝わってくる。その人の作業でありながら、悲しみが深ければ深いほど存在への眼差しへの共感が生まれてくる。共鳴してくる。そして、人それぞれの作業を促してくれる。

存在の裸性を出発にしたレヴィナスの哲学が、メシアを待望するかのように存在の向こうを見ていく。その背後にホロコーストを経験していながら、なおアブラハム、イサク、ヤコブの神への揺るぐことのない信頼を感じる。その神の記録の書である旧約聖書にタルムードをたより近づく作業をしていると言える。判断停止をもとにしているので聖書の枠は取り除かれている。それでも、存在の裸性を見つめる眼差しが存在の向こうをめざしていることが分かる。そんな哲学がいまの時代に共鳴している。

前回書いたチャック・スミスの聖書へのアプローチも、みことばをたよりにしながら神に近づいていく作業のように思えてきた。彼は文字通りに創世記から黙示録までを何十年と繰り返している。それは聖書全体を通して、みことばを手がかりにして、神に近づくチャック・スミスの作業である。それは絶えることのないの作業である。絶えず繰り返し試みられる作業である。またチャック・スミスの作業を聞きながら、自分の作業を身に着けていく指針でもある。

自分の説く聖書理解が絶対だと思う必要はなくなる。いつも教え、諭さなければ説教でないという思いから解き放たれる。楽しんで作業に取りかかることができる。不十分でも、不完全でもともかく今の状況での作業として楽しむことができる。神学もそれぞれの人の、それぞれの教派の作業部会と言える。聖書がしっかりとそこにあるので遠慮なしに作業に取りかかることができる。絶対の神学をうち立てる必要はない。そんな神学はあり得ない。ただ作業の真剣さが問われる。存在の裸性をさらけ出した者の神への後戻りできない作業である。自分の意識の背後にある心の求めに聞きながら、聖書をたよりに神に近づいていく作業である。避けられない作業である。作業神学と言える。

 

上沼昌雄記

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