「雅歌、再び」2007年4月17日(火)

ウイークリー瞑想 

前回の「雅歌の匂い」に対して、いま雅歌を恋人に会うように気持ちでワクワクしながら読んでいますというメールをひとりのご婦人からいただきました。主との親しい交わりを雅歌のなかで感じ取っているのです。慕っていた方にようやく出会うことができたような感動が伝わってきます。

山形での水曜日の午前の集会に参加しました。自己紹介のつもりで自分を花でたとえることをしました。喜んでくださったこともあって、たとえで自分を見つめる作業を続けることになりました。そしてその集会の指導している牧師ご夫妻に花と木でお互いをたとえる作業をしていただくことになりました。2年前にもしました。いまお互いをどのようにたとえるのか興味がありました。

ご主人は確信を持って奥様を「真っ赤なバラ」と言われました。言った本人も、言われた奥様もうれしそうでした。2年前はスイートピーであったがいまは「真っ赤なバラ」だ念を押していました。奥様はご主人を「無花果の木」と遠慮がちに言われました。ご主人は驚かれました。2年前は「松の木」で枝が折り曲がっていることで趣があるということでうれしかったが、「無花果の木」で核心をつかれた気がすると言うことでした。多少のショックを受けていました。

その夜の上山の教会の祈祷会での奉仕の前に、そこの牧師としばらく話し合う機会がありました。そしてこの新年の礼拝から3月半ばまで雅歌の講解説教をしてきたというのです。文字を追うだけでは捉えられない感情が雅歌にあって、それは自分の夫婦としての感動を抜きにしては伝えられないと言われました。とてもうれしそうでした。奥様も喜ばれていたでしょうと伺ったら、照れていました。

いままでの私たちが受けてきた厳密な解釈を施すという方法では、どうしても文字を追うだけになってしまいます。その論理性が大切になってしまうからです。雅歌の感性を捉えられません。神学校で教えられたことが絶対であると思っていたが、聖書の豊かさはその枠を越えていることに気づかれたと言われます。雅歌が無視されてきたことの歴史的な背景を確認された言うことです。

雅歌の理解についてしばし語り合うことになりました。夫婦としての感動を抜きにしては語ることができません。それは喜びの感動だけではないのです。3章と5章で出てくる夫婦が直面する闇の「夜」の体験も避けることができません。雅歌の持つ匂いの身体性のゆえに避けられない感覚的な暗夜です。それはまた花婿であるキリストとひとつになるために避けられない霊的な暗夜です。

週末に先のご夫婦のお宅に戻ってきました。無花果の木でショックを受けたご主人が「無花果の木の物語」という記事を書いていました。読ませてくれました。無花果にまつわる少年の時の記憶です。牧師家族として育ったなかでの食べ物としての無花果と木としての無花果の物語です。

奥様に「無花果」と言われてその過去の思い出が一気によみがえってきたのです。どちらかというとつらい思い出です。蓋をしていた思い出です。心の奥深くに留めて置いた記憶です。その記憶の奥に奥様がすっと入ってきたことに驚いているのです。それがショックだったのです。そんな驚異を語っています。全文を紹介したいほどです。

雅歌は生きています。雅歌が夫婦の間に大変な響きを起こしています。近づき、行き違い、さらに近づく摩擦です。夫婦の奏でる和音と不協和音です。夫婦が醸し出す麗しい香りであり、いやな匂いです。再び雅歌を取り上げることになりました。

 

上沼昌雄記

「雅歌の匂い」2007年4月9日(月)

ウイークリー瞑想

桜の咲き乱れる日本に来ています。主の復活祭を山形で迎えました。春です。いのちです。詩の季節です。快晴のもと富士山を観ることができました。東京では雨に降られました。桜はあっという間に散り始めます。山形は今週末が見頃でしょうか。

日本に到着した次の晩にひとりの方を訪ねました。拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』でご自分の体験を書いてくれた方です。席に着いた途端に、最近雅歌を読んでいるとうれしそうに言われました。何かの感動が伝わってきました。こんなにストレートに夫婦で自分たちの感情を交換できたらいいですねということでした。しかもそこに香りを感じることができるということでした。雅歌を読みながら「匂い」を嗅ぐことができたと言うのです。

雅歌はまさに愛する者同士の愛の歌なので『夫婦で奏でる霊の歌』を書きました。私なりの歌を聞くことができました。この方は「香り」、「匂い」が出てくると言うのです。確かに雅歌の詩の初めで花嫁は歌っています。「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。」(1:3)という箇所を読みながら「匂い」を嗅ぐことができるのです。ただ文字としての神のことばを突き抜ける霊的識別力です。

香りは、抽象的なものではありません。具体的に身体をともなったものです。その人が醸し出す香りです。その人だけが持っている匂いです。その匂いでその人を思い起こすことができるのです。その人の持っている雰囲気、立ち振る舞いを、匂いを嗅ぐことで思い出すのです。花嫁は、匂いで花婿の存在を確認しています。「わたしの愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。」(1:13)とてもストレートな表現です。

匂いは、肉体を持っています。私の肉であり、私のからだです。私が醸し出す匂いです。具体的なからだに感じ取る霊の匂いです。霊的なことなのですが、身体的なことです。キリストが受肉をされ、十字架にかかり、復活されました。御霊のからだとして神のかぐわしい香りなのです。そして私たちに復活のからだを約束してくれています。私たちのこの醜いからだを、神のかおりとして嗅いでくださるのです。霊的なことと身体的なこと、そんなすごさ、生々しさを持って神は私たちを取り扱っていてくれるのです。キリスト教の霊性と身体性です。

ジェームズ・フーストン師による公開講義に参加しました。「心の井戸を掘る」というのがテーマでした。このようなテーマを私たちの間で取り扱うことができるようになりました。その必要が出てきています。求めが出ています。うめきのように出ています。いろいろなものが蓋を閉められたままで沈滞しているのです。

「心の井戸を掘る」ことは、心の深いところに溜まっているものを嗅いでいくことです。心の底にはいやな匂いが溜まっています。だから蓋をして閉じ込めているのです。匂いを消しているのです。自分のからだから出る匂いを消しているのです。それが洗練された生き方のように匂いを消しているのです。個性のない生き方です。

この公開講義を計画してくださった方と6年ぶりに話すことができました。ご自分にとっては「井戸を掘る」ことでも、「井戸に下りていく」ことでもなくて、「海に潜る」ことだと言います。小さいときに溺れそうになったことが、ご自分のなかに深い恐れと家族への不信としていまでも残っていると言います。まさにご自分の心の海の底に潜り込んで行くように、ご自分の体験を話してくれました。そんな話を聞きながら、この方のからだが発する匂いを嗅ぐことになりました。この方だけが醸し出す香りなのです。

日本での旅が始まりました。各地でその土地特有の匂いを嗅ぐことができそうです。心の井戸の蓋を開けている人が醸し出す香りです。

 

上沼昌雄記