「雅歌の匂い」2007年4月9日(月)

ウイークリー瞑想

桜の咲き乱れる日本に来ています。主の復活祭を山形で迎えました。春です。いのちです。詩の季節です。快晴のもと富士山を観ることができました。東京では雨に降られました。桜はあっという間に散り始めます。山形は今週末が見頃でしょうか。

日本に到着した次の晩にひとりの方を訪ねました。拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』でご自分の体験を書いてくれた方です。席に着いた途端に、最近雅歌を読んでいるとうれしそうに言われました。何かの感動が伝わってきました。こんなにストレートに夫婦で自分たちの感情を交換できたらいいですねということでした。しかもそこに香りを感じることができるということでした。雅歌を読みながら「匂い」を嗅ぐことができたと言うのです。

雅歌はまさに愛する者同士の愛の歌なので『夫婦で奏でる霊の歌』を書きました。私なりの歌を聞くことができました。この方は「香り」、「匂い」が出てくると言うのです。確かに雅歌の詩の初めで花嫁は歌っています。「あなたの香油のかおりはかぐわしく、あなたの名は注がれる香油のよう。」(1:3)という箇所を読みながら「匂い」を嗅ぐことができるのです。ただ文字としての神のことばを突き抜ける霊的識別力です。

香りは、抽象的なものではありません。具体的に身体をともなったものです。その人が醸し出す香りです。その人だけが持っている匂いです。その匂いでその人を思い起こすことができるのです。その人の持っている雰囲気、立ち振る舞いを、匂いを嗅ぐことで思い出すのです。花嫁は、匂いで花婿の存在を確認しています。「わたしの愛する方は、私にとっては、この乳房の間に宿る没薬の袋のようです。」(1:13)とてもストレートな表現です。

匂いは、肉体を持っています。私の肉であり、私のからだです。私が醸し出す匂いです。具体的なからだに感じ取る霊の匂いです。霊的なことなのですが、身体的なことです。キリストが受肉をされ、十字架にかかり、復活されました。御霊のからだとして神のかぐわしい香りなのです。そして私たちに復活のからだを約束してくれています。私たちのこの醜いからだを、神のかおりとして嗅いでくださるのです。霊的なことと身体的なこと、そんなすごさ、生々しさを持って神は私たちを取り扱っていてくれるのです。キリスト教の霊性と身体性です。

ジェームズ・フーストン師による公開講義に参加しました。「心の井戸を掘る」というのがテーマでした。このようなテーマを私たちの間で取り扱うことができるようになりました。その必要が出てきています。求めが出ています。うめきのように出ています。いろいろなものが蓋を閉められたままで沈滞しているのです。

「心の井戸を掘る」ことは、心の深いところに溜まっているものを嗅いでいくことです。心の底にはいやな匂いが溜まっています。だから蓋をして閉じ込めているのです。匂いを消しているのです。自分のからだから出る匂いを消しているのです。それが洗練された生き方のように匂いを消しているのです。個性のない生き方です。

この公開講義を計画してくださった方と6年ぶりに話すことができました。ご自分にとっては「井戸を掘る」ことでも、「井戸に下りていく」ことでもなくて、「海に潜る」ことだと言います。小さいときに溺れそうになったことが、ご自分のなかに深い恐れと家族への不信としていまでも残っていると言います。まさにご自分の心の海の底に潜り込んで行くように、ご自分の体験を話してくれました。そんな話を聞きながら、この方のからだが発する匂いを嗅ぐことになりました。この方だけが醸し出す香りなのです。

日本での旅が始まりました。各地でその土地特有の匂いを嗅ぐことができそうです。心の井戸の蓋を開けている人が醸し出す香りです。

 

上沼昌雄記

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