「桜と渓流」2007年5月4日(金)

ウイークリー瞑想

     4月の始めに東京で桜を楽しむことができました。樹齢何十年というごつごつとした幹があの淡い花びらを何千と吹雪のように咲き散らす、見事な芸を観ることができました。不思議にそのごつごつとした幹のほうが印象的でした。そこに桜のいのちが隠されているのです。イースターに山形に入ったらば、桜はようやく永い眠りから覚めたところでした。福島から越える板谷峠にはまだ雪が残っていました。

それから山形と秋田を中心に、海外在住者の特権で手に入れられるJRパスを片手に、大阪、広島に足を延ばし、北は札幌まで汽車の旅をしました。トンネルの手間で見えた桜が、トンネルを越えた向こうではまだ冬眠のなかという様子を何度か経験しました。桜前線がゆっくりと日本を北上しているのです。何度も出入りをした秋田は札幌の帰りに寄ったときにようやく見頃となりました。おふたりとも桜が大好きな石川医師ご夫妻が満開の桜のもとでの写真をすぐに送ってくれました。いまは弘前城の桜が満開でしょうか。来週には札幌で桜と梅が一緒に咲き出すのでしょう。

春先の東北の山はまだ雪に覆われていました。高い富士山も雪をかぶっていました。桜と一緒に映えている雪の富士山の絵をどこかで観たような気がします。秋田と青森の間の弘前での車窓から見えた雪をかぶった岩木山は、春を告げるようにりんご畑を手入れをしている人と絵になっていました。札幌では友人の竹本牧師が小林牧師と私を札幌の駅のJRタワーの38階の展望台に連れてくれました。近くの山も遠くの山も一様に雪をかぶって私たちを迎えてくれました。展望台の一角にそんな眺めを観ながら用足しができる設備が付いています。そこに連れて行ってくれた竹本牧師のユーモアです。

新幹線「こまち号」で何度か秋田の田沢湖と岩手の雫石を超える峠を通過しました。時には眠ってしまったときもあるのですが、ある時に朝日に照る峠の渓流が目に留まり、立ち止まって足を入れてみたいと思いました。雪解けの水が岩肌を這う糸のように垂れ下がっています。列車の窓から手が届きそうなところを通るのです。新緑の時には新芽とともに山桜が申し訳なさそうに咲いていました。まだ木々は葉をつけていないので岩肌が見えます。もう少ししたら葉に覆われてしまいます。それで真っ直ぐに落ちてくるような雪解け水が岩肌を這うように見えるのです。そんな雪解け水が谷川に注いでいます。足を入れたらさぞ冷たいだろうが入れてみたいと思いながら、通過するだけでした。

雪解け水をいっぱいに吸い込んだ渓流が冬と春の間のしるしのように日本のあちこちに流れています。冷たくても足を入れてみたくなる清流です。静まりかえった冬から騒がしい夏へいのちを送り込んでくれる源です。どんより濁っているたまりにいのちを吹き入れる流れです。死んでいるような大地にいのちを送る込む水です。絶えることのないいのちの泉です。新しいいのちです。

今回の日本で、教会と牧師のことで何かすっきりしない話をいくつか聞くことになりました。牧師を送り出している神学校の姿勢に関わることです。澱んでしまった池から悪臭が放たれるかのように出てきました。新しい流れが注がれていないのです。冷たい渓流が注がれていないので、流れが留まっているのです。澱んでしまっているのです。新しいいのちがないのです。

自分の心に、生き方に新しいいのちを注ぎ続けることは難しいことです。自分の理解したこと、経験したことにどうしても固執してしまいます。外のことに、違った意見に心を開いていることができないのです。自分の世界に人を引き込むことはできても、人の世界に聞いていくことはできないのです。人ではなくて、時には神に聞いていくこともできないのです。ただことある事に神はそんな自分を壊そうとしています。自分では手に負えないことを起こすことで、破れを作ってくれます。そんな破れから渓流が注がれます。暗い冬とまばゆい春の間のしるしとして、新しいいのちの渓流を注いでいるのです。雪解けの冷たい水をいっぱいにい込んだ清流です。

 

上沼昌雄記

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中