「思索の中心?」2007年6月25日(月)

神学モノローグ

  学生の時に同じ下宿で信仰のこと、人生のこと、哲学のことを話し合ってきて、すでに40年近く友として交わりをいただいている札幌の小林基人牧師と、最近ある事柄でやり取りをした。そのコメントの最後に「上沼さんの思索の中心、あるいは、根にあるものは?」という問いをいただいた。何か自分自身の中心部分で空白になっているところを突かれて、返事ができなかった。それ以来2ヶ月その問いを思い巡らしている。というより、問いの回りを旋回している。

小林さんの問いは、私の存在を支えているものは何かと言い換えることもできる。私が何のために生き、何を目標にして人生を送っているのかと言うことになる。下宿で交わした会話を思い起こしている。人生に対して、人に対して繊細な感覚を持って望んでいた小林さんの姿を思い出す。その姿勢がいまの牧会でもそのまま出ている。病める人、弱い人に対してキリストの愛を持って接している。そんな小林さんの生き方から出てきた問いである。40年前の下宿に戻って同じ問いを突きつけられている感じである。

振り返ってみると、自分の思索の中心には何もないのではないか。ただ空白があり、風が漂っているだけのように思える。学生時代はまさに学園紛争の時であった。それでも社会をよくするために人生をささげるとは自分には言えなかった。信仰者としてすでに歩んでいたが、日本のキリスト教を大きくするために頑張るとも言えなかった。ただ60年代はまさに変革の時であって、そのなかで哲学を専攻した動機を思い返した。神を信じ、神の創造と終末のなかでの人生を認めていても、この世界をどのように観て、人生をどのように観ていくことが可能なのか興味があった。

当時はマルクス主義とは対極にあった実存主義の哲学者といわれていたハイデッガーを選んだ。哲学科も両方の教授が拮抗していた。当時の社会、思想界を凝縮していた。それだけ緊張感があった。ハイデッガーを選んだことにも自分なりの生き方があったのだろうと思い返している。「どうして世界は存在しないのではなくて、存在しているのか?」「どうして無ではなくて、有なのか?」とい問いをハイデッガーは問うている。それには答えがない。当然分かっていることをハイデッガーは問い続けている。執拗に問い続けている。そんな姿勢に共感した。

小林さんからの問いをいただいて、40年間閉じたままであったハイデッガーの本を段ボールの中からとりだして読み直している。当時活字を見つめるようにして読んだ本の匂いがしてきた。そんな時代があったのかと感傷にしたるより、自分のなかの問いがもう一度よみがえってきた。なぜ世界は存在しているのか、なぜ私は存在しているのか。神学的な枠のなかでは解決済みに思われている。しかし、なぜ神は世界を造る必要があったのかという問いは残る。なぜ神は「私は在って在るもの」とい言われるのか、不思議な響きが届いてくる。

ハイデッガーの問いは問いだけであって、どこにも行かない。思考の根源に導いてはくれるが、そこに何かがあるわけでない。その根源から聞こえてくる声に耳を傾けるだけである。それでヘルダーリンの詩の解明を試みる。思索は詩作であるという。それでも問いの周りを回っているだけである。その中心は空白なのである。風が漂っているだけである。当時台頭してきたナチスの全体主義に対してはなすべきすべがなかった。むしろハイデッガーは荷担をしてしまった。

ハイデッガーの問いがよみがえってきても、それではそこからどこに向かうことができるのかと自問しなければならない。ただその自問を、この欄でも何度か取り上げたホロコーストを経験したユダヤ人の哲学者レヴィナスの「他者」を取り入れる思考で、新しい方向をいただいている。レヴィナスは同じ問いを持っていながら、ハイデッガーとは対極にいる。現実的にはホロコーストがその断絶を明確にしている。レヴィナスは存在することの恐怖と驚異を知っている。この数年レヴィナスを読んできたことで、ハイデッガーに対する別な視点をもいただいている。

その視点がありながら、存在の問いは私の周りを回っている。回っているだけでどこに自分を導いてくれるのか分からない。中心は空白で、風が漂っているだけである。こうなければならないというより、漂ってくる風の動きを観察しているだけである。存在の問いはいつも付きまとっていながら、その回りは時代とともに様相を変えていく。そんな動きを見つめている自分がいる。

初代教会の時代があり、中世の時代があり、ルネサンスと宗教改革の時代があり、啓蒙思想の時代があり、技術革命の時代があり、民主主義とテロリズムの時代がある。60年代という特異な時代があり、その前の二つの戦争の時があり、いまの何とも言えない時代がある。福音主義の台頭の時代があり、福音主義の混迷の時代がある。存在の問いと時代の流れ、それはハイデッガーの主著『存在と時間』(1927年)のタイトルが示している通りである。存在と時間である。

存在の問いを問い続け、時代の流れを見つめていることが、ただ自分の思考の回りでうごめいている。中心は空白である。ただ空気であり、風であり、息である。どこに行き着くわけでない。それでも時代は動いている。その動きを観察しながら神の配慮を観ることができる。少なくても信仰者としてその御手を感じることができる。それは私のものではない。私は観察しているだけである。私の中心はどうにもならないほど空白である。小林さんの問いに戸惑いながら、空白であることを生きる術を探している。

 

上沼昌雄記

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