「神様の地理学」2007年7月30日(月)

 ウイークリー瞑想

    今回シカゴの孫に会うためにと言うのが隠れた理由なのですが、わが家を先週の火曜日の午前11時に出て、その日はネバダ州とユタ州を横切って11時間700マイル(1120キロ)、次の日はワイオミング州を横切りネブラスカ州をほぼ横切って12時間800マイル(1280キロ)、そして木曜日はアイオワ州を横切ってイリノイ州に入って9時間550マイル(880キロ)のドライブをして夕方6時に長女瞳の家に無事に到着しました。滅茶苦茶なドライブだと友人に言われました。昨日は古巣のレーキサイド教会で奉仕が許され、3日でドライブをして来たことを同じように驚かれました。

ワイオミング州を横切ってネブラスカ州に入ってすぐのレストエリアに立ち寄りました。そこは旅行案内所も兼ねていて年輩のご婦人が親切にも地図とガイドブックをくれました。その入り口のドアに驚いたことに「ここはまだガラガラヘビの生息しているところです。」というサインが掲げてありました。ですからまだ安心しないで注意をしてくださいという意味だと思います。それにしても私たちのところから千マイル以上もはなれたところまでガラガラヘビの生息していることになります。途中でロッキー山脈を越えているのです。

アメリカ大陸の大きさに驚かされるのと同時に、その荒地のようなところを生活の場として開拓し、開墾してきた歴史を思い返します。子供の頃によく観た西部劇を思い出します。馬車に乗りながら水のない荒地を家族で旅をしているのです。いまはそこにフリーウエイが走り、ところどころに町があり、宿があります。そういう便利さを除いたらあとは荒地をただひたすらドライブをしていることになります。自分の進んでいく先が波を打って山の向こうにに見えるのです。

そんなワイオミングの雄大な土地と晴れ渡った大空に浮かんでいる雲を見ながら、また神様はどうしてこんな大きな荒地の自然を作られたのだろうかと思いながら、イスラエルの何十万という民がエジプトを出て約束の地を目指して40年も旅をしたことを思い描いてみようと思いました。同時に想像の限界を感じました。フリーウエイは永遠に続いているような感じですが、それでもどこまで行ったらガソリン・スタンドがあり宿があるというサインが立っています。それにあわせて計画を立てることができます。注意していればそれなりに安全な旅です。ですから、どこに飲み水があり、食べ物があるのかも分からないで40年も荒野を旅をすることは想像もできないことです。

そんなこと思ってドライブをしているときに、大学で受けた地理学の授業のことを思い出しました。学期の初めの数回授業があってそれから学期の最後まで研究のために世界中を飛び回っている教授です。最後の週に戻ってきて授業がありました。朝から始まって世界中で取ってきたスライドを見せてくれました。それが何時間も続くのです。そしてそのまま期末試験となりました。それは見たスライドについてのコメントを口頭で言うことでした。不思議に魅力的な授業でした。

私は和辻哲郎の『風土』で言われていることをもとにして、「砂漠地帯」の聖書の世界と「モンスーン地帯」の日本の違いを自分なりに理解して話したのを覚えています。そして最後にそのような風土が人生観や世界観にどのように影響しているのか逆に教授に聞いてみました。そうしたら、頭を抱えるようなかっこうで「それこそ自分の一番知りたいことだ。」と言われました。それ以上の返事はありませんでした。大学で受けたもっとも印象的な授業でした。

そして取りも直さず、リジェント大学で霊性神学を指導してきたジェームズ・フーストン師はオックスフォド大学では地理学の教授でした。学生とのカンセリングを通して誰の心のうちにも「たましいの地理学」があると気づいて、リジェント大学の設立にあたって「たましいの地理学者」として霊性神学を始めたのです。

和辻哲郎のいうもうひとつの「牧草地帯」、すなわちヨーロッパで神学が形成され展開してきました。きめの細かい体系づけられた概念の世界です。予測のつく世界です。規則と法の世界です。近世、近代を導いた自律した理性の世界です。荒地より都会の生活です。荒地を旅をしているよりも都市のなかでの定着した教会生活です。旅を終えてしまった民のそれなりに安定した生活です。逆に旅を渇望している都市中心の世界です。

そんな都会人として、教会人としての経験やものの見方、世界観からいま聖書を読んでいるような気がします。神学的に裏付けされた世界観に合うように聖書を読んでいるところがあります。だからといっていま自分の置かれている地理を否定することもできません。その必要もありません。それぞれの地理も神様の作品です。四季のはっきりとした日本の自然も、きめ細かいヨーロッパの自然も、雄大なワイオミング州の地形も、イスラエルの民の通った砂漠も神のものです。ただそこでの世界観を絶対視する必要もありません。そのようになりがちです。むしろ多様な神様の地理学を楽しんだらよいのでしょう。

 

上沼昌雄記

「渇望の旅」2007年7月18日(水)

神学モノローグ

    ガラガラヘビのことでジョン・エルドレッジ(John Eldredge)の本を紹介した。それで彼の著書をもう一度振り返ることになった。その中に『渇望の旅路(The Journey of Desire)』(2000年)と言うのがある。このタイトルはジェームズ・フーストン師の『心の渇望(The Hearts Desire)』(1992年 邦訳:いのちのことば社)を思い起こさせてくれる。どちらも、私たちの内側に何かを深く慕い求めている心のあることに注意を向けている。物質的に豊かになり、聖書的に福音のメッセージを充分味わっていながら、なお満たされない、満たされていない心を見ている。

立場の違いがありながら、どちらも心の深くに秘められた渇望が疼いていることを語っている。ある意味で決して満たされない心の渇望を抱えながら人生を歩んでいることを見ている。満たしは約束されているが、安易には届かないところにあってそれを慕い求めている。あたかも何かですでに満たされているような錯覚から目を覚まされる。おいしいものを食べ、家庭があり、教会があることですでに求めていたものが満たされている安易な満足感が打ち破られる。心の底になお満たされない渇望が、砂漠で水を求めて彷徨っている動物のようにある。

背景として、物質的な面でも、教会的な面でもすでに充分すぎるほどのものを手に入れることができ、教えられてきていながら、霊的な面で停滞している現代の福音派のクリスチャンの姿がある。聖書的に正しい教えを説き、また聞き、教会生活を守り、それなりの生活をしていても、自分の洞窟から出られないで、霊的な倦怠期を迎えている現代の教会の姿がある。それでも心は求めている。何かを慕い求めている。満たされることを求めてうめいている。心は叫んでいる。そんな心に寄り添いながら二つの本が書かれている。

しかし、このテーマは何と言ってもA.W.トウザーの名著The Pursuit of Godを思い起してくれる。邦訳『神への渇き』(いのちのことば社)はすでに絶版になっているが、2年ほど前にこの本のことで札幌の友人の牧師と話をしたときに、コピーをしたものを持っているというのでくださった。霊的な糧と方向付けをこの本から得ていることが分かった。

トウザーはこの本を1948年に書いている。日本的には戦後間もなくである。福音的な教会の創設期である。聖書のメッセージに多くの人が耳を傾けたときであった。多くの宣教師が活動を始めたときであった。トウザーはシカゴで牧会をしていた。そんなときに書いた本である。そこで彼が直面していたことはそれから半世紀以上経っても変わっていない。「はじめに」で言っている。

「現代は、キリストに関する教義を正しく説く、聖書の教師は不足していない。しかし、その教師たちの大多数は毎年毎年信仰の基本的要素を教えること満足しているらしく、彼らの牧会には神の明らかな臨在はなく、また彼らの個人的生活にはなんらの変化も起こっていない。不思議なことに、彼らはこのことに気づいていないのである。彼らは絶えず、胸の中に神への憧憬を抱く信者たちを牧会していながら、その憧憬に満足を与えることができないでいる。」

渇きを感じている信者は満たされる教会、説教を求めて移動する。限られたなかでアメリカの教会を見て、なるほどと思う。半世紀以上経っても霊的な状況は変わっていない。と言うより霊的な求め、渇望はいつもある。国や民族や時代が変わってもある。心の深くにじっと秘められた渇望である。言葉に言い表せなくても、心の深くでいつもうめいている。そして、心は確かに聴いている。ただやたらと言葉に出せば、それは説教に対して聞く耳がないからだ、教会生活に満足していないからだと責められる。そのようにして、心の深くにある求め、時には心の闇、それに触れることを聖書を使いながら巧みに避けてしまう。

心のどこかがいつも満たされていない思い。何かがいつも欠けているような空虚さ。失ったものが山の彼方の空遠くにあるような憧憬。どこかで傷ついた心がいまだに疼いているような感覚。どこかにほんとうの生活があるのだろうという夢。この人ではなく別な人と生活をしているべきだったという悔い。こんなはずではなかったという諦め。何かをいつも求めていながら届いていなもどかしさ。

そんな心の疼きを哲学のテーマとしてレヴィナスが押さえているのに驚く。「見えないものへの渇望」が人類が求めているものだと旧約聖書の哲学者として言う。アブラハムが行き先がわからないに出ていった旅を哲学のテーマとして描いている。すべてが見える、これですべてが分かったと言って、哲学が世界のあり方を説明し、人のあり方を説き出すときにイデオロギーとして権力をふるうことを、西洋の思想とナチスのなかに見てきた。見えないものを満たされない心を持って、ただひたすらに謙虚に慕い求める神の民の姿を見る。

代表作『全体性と無限』の書き出しで言う。「『ほんとうの生活が欠けている』。それなのに私たちは世界内に存在している。形而上学が生まれ育まれるのは、このような不在を証明するものとしてである。だから形而上学は、『べつのところ』『べつのしかた』『他なるもの』へと向かっていることになる。、、、私たちになじみ深い世界から旅だち、私たちが住まっている『わが家』をはなれて、見知らぬ自己の外部、向こう側へおもむく運動としてあらわれるのである。」

もうひとつの代表作『存在の彼方へ』のタイトルが語っているとおりである。「夏だ。さあ旅に出よう!」そんな思いがまさに哲学だと言う。そんな思いを神学として受け止めことを促してくれる。そして、聖書に対して抱かせてくれる。「見知らぬ自己の外部、向こう側へ」至る渇望の旅である。

 

上沼昌雄記 

「ガラガラヘビ」2007年7月9日(月)

ウイークリー瞑想

    一週間前に家の後ろでガラガラヘビに遭遇しました。家の回りを清掃しないと行けない状態でしたので、立てかけてあった草かきようの熊手などの道具をとってみたら、足元にすでにとぐろを巻いていました。一瞬身が縮まるような思いで飛び退きました。どのように処理したらよいのかしばらくにらめっこをしながら考えました。ガラガラヘビのことはよく話で聞いていました。大変な猛毒です。かまれた話も時々聞きます。いつかは自分も遭遇することになるだろうと思っていました。いままでは猫がいたのでヘビの方が寄りつかなかったのかも知れません。

直径10センチほどのとぐろを巻いていました。大きいものではありませんでしたが、気持ちのよいものではありません。心臓は高鳴っていました。小さな目玉は私の動きを探っているようでした。ここはしっかりと処理をしないといけないと思いました。シャベルがそこにあったので、身を除けながらそれを手にすることができました。何度かそれでひと思いでと思いましたが、もし失敗をして逃げられると面倒なので、さらに方策を考えました。妻を呼ぶわけにもいけません。ここは自分の責任と覚悟をしました。

幸い取っ手の長い鉄製の鍬が立てかけてあったので、静かに取り寄せました。それを思い切って振り下ろして、串差しの状態にしてから、頭の部分をシャベルで切り取って処分することができました。何とか責任を果たせたと思って、妻を呼んで現場を見せました。死んでも猛毒は残っているので、妻の意見で、泥をかぶせて処理をしたガラガラヘビを、家の下の方に流れている渓流の脇の誰も立ち入らないところに持っていきました。

ガラガラヘビと格闘した話を、秋田の友人にメールしました。返事をくれました。「ガラガラ蛇と対面して格闘したというのには、驚きました。まだ、自分には蛇にも勝る敏捷性と体力を持ち合わせているとの妄想(??)が闘争心を駆り立てて、戦わせたのかななどと想像しています。いや、上沼さんのことですから、そんな単純なことではなく、家族や知人とが遭遇したときに危害を加えては困ると思って、わが身の危険を顧みず戦って勝利したのかもしれません。しかし、還暦を過ぎた身ですので、今後は、ご自愛下さい。私は、まだ、還暦には達してませんが、ガラガラ蛇と対面したら、蛇が自分から逃げていくようにだけしたかもしれません。そして、そんな話を家でして、家内には、非難の言葉を頂くことになるような気がします。ルーズさんは、どんな反応を示したのでしょうか。少し、興味があります。、、、これから手術に入ります。舌癌再発(他院での術後)で、根治的頚部郭清、舌亜全摘・下顎骨切除、遊離腹直筋皮弁再建と12時間ほどの癌との格闘です。」

妻はこのメールをうれしそうに読んでいました。You are my hero! と言ってくれたと返事を出しましたら、それは「想定内でした」と返事が返ってきました。これだけですと手柄話のようになってしまうので文章に書く予定はなかったのですが、次女の泉の反応から思いがけない視点をいただくことになりました。泉は話を聞いて、Dad, you are tough. Dad, that was really rugged of you! と表現しました。いつも面白い言い回しをするのですが、このruggedという言い方が心に残っていました。響きとして今回の状況にぴったしとあっているように思いました。

2年前にJohn Eldredgeという人のWild at Heartという本のことで、神学モノローグ「男性の霊的勇気」(2005年7月21日)という記事を書きました。この人の新しい本、The Way of the Wild Heartというのが昨年出され、ベストセラーになりました。何時か読まなければと思って、最近読み出しました。副題はA Map For The Masculine Journeyです。男性が男らしくなっていく道筋を、自分の経験、コロラドでの男性のためのセミナーの経験を通して語っています。男性が男性らしくなっていくのは、まさにruggedな危険の多いことだと書いています(p.15)。スムーズな平坦な道ではなく、岩肌のようなごつごつとした、しかもオオカミやガラガラヘビの出てくる危険の多い道であると言います。

そしてこのruggedといのは、「丘に立てる荒削りの十字架(The Old Rugged Cross)」(聖歌402番)と歌われている「荒削り」とも訳されます。さらに「男らしい」「ごつごつした」とも訳されます。John Eldredgeは、いまの教会は男性の男らしさを削いでしまう傾向にあると言います。それで男性の男性らしさを聖書から学び、アウトドアを通して経験させています。それはアブラハム、ダビデが通った道だと言います。取りも直さずキリストの通った道だと言います。

自分のなかですべてがスムーズにいくことを願う思いが強くあります。そうあることが信仰的であると思ってしまいます。しかし現実には荒削りなごつごつした道を通されます。ガラガラヘビに遭遇します。心臓が高鳴っても、退かないで、ここは身を危険にさらしても対応しないといけないと思わされるときがあります。秋田の友人もしっかりと、男らしく、ごつごつした人生を歩んでいます。

 

上沼昌雄記

「聖書の近さ・キリストの近さ」2007年7月2日(月)

ウイークリー瞑想

    長女瞳の夫が3年ほど前に送ってくれたジョン・バニエのヨハネ福音書の講解(Drawn into the Mystery of Jesus through the Gospel of John)を、妻と一緒に読んでいます。これは、ジョン・バニエが2001年にテレビで行った25回のヨハネ福音書の説教集を下にしています。ジョン・バニエはラルシュ・コミュニティーの働きを通して世界中に知られています。1987年に日本でもリトリートを開催し、その時のメッセージ集が、あめんどう社から『心貧しき者の幸い』として出ています。

どういうわけか4章のサマリヤの女のことから読み始めました。傷つき、苦しみ、孤独なこの女の人に引き寄せられていきます。家族からも、社会からも逃れるようにして真昼に水を汲みに来たサマリヤの女がすぐそばにいるように、ジョン・バニエの文章に引き込まれます。短い文章で、分かりやすい英語で書かれていながら、時を越え、文化を越えて自分もその場に居合わせるかのように惹きつけられます。

傷つき、苦しみ、孤独なのはサマリヤの女だけでなく、いまも自分たちの回りで出会う人たちであることが分かります。イエスの時代がいまにそのまま飛び込んできます。水を求めている人がすぐそばにいることが分かります。そしてジョン・バニエの澄み切った泉のような文章は、取りも直さず、傷つき、苦しみ、孤独なのは自分の心であることを納得させてくれます。教えられて分かったというのではなくて、水を求めているのはサマリヤの女ではなくて自分であると、内側から同意できます。

『心貧しき者の幸い』にもサマリヤの女のことが繰り返し出ています。その場に居合わせていたかのようです。その場で観察していたのではなくて、自分があたかもサマリヤの女であったかのように思い描いています。サマリヤの女とジョン・バニエがダブってきます。「私たちひとりひとりの内に、このサマリヤの女がいます。」と言います。

そして、「わたしに水を飲ませてください。」と言っているのは、いまはイエスではなくて、そのようにして知的障害者に接していったジョン・バニエ自身であることが分かります。傷つき、苦しみ、孤独な人の心にいのちの泉が湧くことで、自分自身が癒されることを経験しています。イエスとジョン・バニエがダブってきます。そうすることがキリストに従うことであると説いているのではないのです。ただ実践しているのです。

スカルの井戸辺のことがいまのこととして行われているのです。その中から語っているのです。短い言葉で、噛みしめるように語っています。何とも言えない聖書の近さ、キリストの近さを感じます。聖書の近さはキリストの近さであり、キリストの近さは聖書の近さであることが分かります。

ヨハネ福音書でイエスに引き寄せられていると、ジョン・バニエは言います。この福音書の学びを長い間してきて、多くの註解書も読んできたことを序文で語っています。註解書はしかし、多くの場合に、スカルの井戸辺の状況を距離を置いて観察しているだけです。サマリヤの女の罪深さを嘆いています。イエスのすばらしさを語っています。しかしどうしても距離があります。外から観ている観察者になってしまいます。聖書の権威を説き、聖書の無誤性を主張していても、この距離感を持ったままで説教をしています。

ひとりの友人が野宿生活者、路上生活者のための働きをしています。さまりたんプログラムと呼んでいます。いままでにない視点のメールをよくいただきます。この方の持たれている聖書の近さ、キリストの近さが伝わってきます。そして、聖書を生きる、キリストのように生きることの厳しさを知らされています。

 

上沼昌雄記