「渇望の旅」2007年7月18日(水)

神学モノローグ

    ガラガラヘビのことでジョン・エルドレッジ(John Eldredge)の本を紹介した。それで彼の著書をもう一度振り返ることになった。その中に『渇望の旅路(The Journey of Desire)』(2000年)と言うのがある。このタイトルはジェームズ・フーストン師の『心の渇望(The Hearts Desire)』(1992年 邦訳:いのちのことば社)を思い起こさせてくれる。どちらも、私たちの内側に何かを深く慕い求めている心のあることに注意を向けている。物質的に豊かになり、聖書的に福音のメッセージを充分味わっていながら、なお満たされない、満たされていない心を見ている。

立場の違いがありながら、どちらも心の深くに秘められた渇望が疼いていることを語っている。ある意味で決して満たされない心の渇望を抱えながら人生を歩んでいることを見ている。満たしは約束されているが、安易には届かないところにあってそれを慕い求めている。あたかも何かですでに満たされているような錯覚から目を覚まされる。おいしいものを食べ、家庭があり、教会があることですでに求めていたものが満たされている安易な満足感が打ち破られる。心の底になお満たされない渇望が、砂漠で水を求めて彷徨っている動物のようにある。

背景として、物質的な面でも、教会的な面でもすでに充分すぎるほどのものを手に入れることができ、教えられてきていながら、霊的な面で停滞している現代の福音派のクリスチャンの姿がある。聖書的に正しい教えを説き、また聞き、教会生活を守り、それなりの生活をしていても、自分の洞窟から出られないで、霊的な倦怠期を迎えている現代の教会の姿がある。それでも心は求めている。何かを慕い求めている。満たされることを求めてうめいている。心は叫んでいる。そんな心に寄り添いながら二つの本が書かれている。

しかし、このテーマは何と言ってもA.W.トウザーの名著The Pursuit of Godを思い起してくれる。邦訳『神への渇き』(いのちのことば社)はすでに絶版になっているが、2年ほど前にこの本のことで札幌の友人の牧師と話をしたときに、コピーをしたものを持っているというのでくださった。霊的な糧と方向付けをこの本から得ていることが分かった。

トウザーはこの本を1948年に書いている。日本的には戦後間もなくである。福音的な教会の創設期である。聖書のメッセージに多くの人が耳を傾けたときであった。多くの宣教師が活動を始めたときであった。トウザーはシカゴで牧会をしていた。そんなときに書いた本である。そこで彼が直面していたことはそれから半世紀以上経っても変わっていない。「はじめに」で言っている。

「現代は、キリストに関する教義を正しく説く、聖書の教師は不足していない。しかし、その教師たちの大多数は毎年毎年信仰の基本的要素を教えること満足しているらしく、彼らの牧会には神の明らかな臨在はなく、また彼らの個人的生活にはなんらの変化も起こっていない。不思議なことに、彼らはこのことに気づいていないのである。彼らは絶えず、胸の中に神への憧憬を抱く信者たちを牧会していながら、その憧憬に満足を与えることができないでいる。」

渇きを感じている信者は満たされる教会、説教を求めて移動する。限られたなかでアメリカの教会を見て、なるほどと思う。半世紀以上経っても霊的な状況は変わっていない。と言うより霊的な求め、渇望はいつもある。国や民族や時代が変わってもある。心の深くにじっと秘められた渇望である。言葉に言い表せなくても、心の深くでいつもうめいている。そして、心は確かに聴いている。ただやたらと言葉に出せば、それは説教に対して聞く耳がないからだ、教会生活に満足していないからだと責められる。そのようにして、心の深くにある求め、時には心の闇、それに触れることを聖書を使いながら巧みに避けてしまう。

心のどこかがいつも満たされていない思い。何かがいつも欠けているような空虚さ。失ったものが山の彼方の空遠くにあるような憧憬。どこかで傷ついた心がいまだに疼いているような感覚。どこかにほんとうの生活があるのだろうという夢。この人ではなく別な人と生活をしているべきだったという悔い。こんなはずではなかったという諦め。何かをいつも求めていながら届いていなもどかしさ。

そんな心の疼きを哲学のテーマとしてレヴィナスが押さえているのに驚く。「見えないものへの渇望」が人類が求めているものだと旧約聖書の哲学者として言う。アブラハムが行き先がわからないに出ていった旅を哲学のテーマとして描いている。すべてが見える、これですべてが分かったと言って、哲学が世界のあり方を説明し、人のあり方を説き出すときにイデオロギーとして権力をふるうことを、西洋の思想とナチスのなかに見てきた。見えないものを満たされない心を持って、ただひたすらに謙虚に慕い求める神の民の姿を見る。

代表作『全体性と無限』の書き出しで言う。「『ほんとうの生活が欠けている』。それなのに私たちは世界内に存在している。形而上学が生まれ育まれるのは、このような不在を証明するものとしてである。だから形而上学は、『べつのところ』『べつのしかた』『他なるもの』へと向かっていることになる。、、、私たちになじみ深い世界から旅だち、私たちが住まっている『わが家』をはなれて、見知らぬ自己の外部、向こう側へおもむく運動としてあらわれるのである。」

もうひとつの代表作『存在の彼方へ』のタイトルが語っているとおりである。「夏だ。さあ旅に出よう!」そんな思いがまさに哲学だと言う。そんな思いを神学として受け止めことを促してくれる。そして、聖書に対して抱かせてくれる。「見知らぬ自己の外部、向こう側へ」至る渇望の旅である。

 

上沼昌雄記 

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