「イデオロギーと信仰」2007年8月27日(月)

神学モノローグ

    ジョン・バニエのヨハネ福音書講解・瞑想書を妻と読んでいる。9章の「生まれつきの盲人」を癒す出来事で、ジョン・バニエが盲人の心に寄り添っている記述に引き込まれる。障害者と共に歩んでいるジョン・バニエが、盲人の目線に立って観ている。その記述に吸い込まれる。そしてその目線はそのままイエスの目線でもあることが分かる。すなわち、イエスの心を心としてジョン・バニエはヨハネ福音書9章の出来事に入っている。

近所の人たちはこの人をパリサイ人のところに連れてきた。イエスが泥を塗ってこの人の目を開けたのは、安息日であった。大変なことであった。いやしの奇跡と安息日の厳守の間でパリサイ人たちも揺れる。あるパリサイ人は奇跡に対して目を閉ざして、盲目であった。そして「私たちもイデオロギーによって盲目になりうる。(We too can be blinded by an ideology)」と、ジョン・バニエは言う。

前回の「目覚めていること」の記事に関して、いくつかの興味深いレスポンスをいただいた。心のどこかで気づいていたことを後押しすることになったのかも知れない。そしてどうしても「目覚めていること」と「盲目であること」との対比が浮かんでくる。目は開いていても盲目のままである。モーセの弟子であり、安息日を厳守することに閉じこめられている。私たちも同じようなイデオロギーに閉じこめられている。

路上生活者のための奉仕をしている方が「目覚めていること」の記事にコメンをくれた。それでさらにジョン・バニエの言っていることを伝えた。また返事をくれた。「私たちは皆、どうにもならないほどイデオロギーで盲目にされている。(We are all desperately blinded by ideology!)」そして「人生と社会の痛ましい現実に立ち向かっていく勇気とリアリズム」を持つキリスト者に変えられていきたいと言う。

レヴィナスがいう「同」は、同心円のなかの閉鎖的な考え、仲間、グループ、共同体、社会、国家を意味している。その同心円のなかで自己増殖していく「イデオロギー」について当然論文で取り扱っている。ナチスというイデオロギーである。そのなかで同じように考え、行動しない人を人とも思わないイデオロギーである。同じことをジョン・バニエが取り上げているので驚く。しかし、結構身近に感じるものである。

先週の金曜日に89歳の方の葬儀があった。18年前に移り住んだフォレストヒルの教会で知り合ったジェントルマンであった。この小さな教会がこの数年2.3重に分裂した。この方ご夫妻もこの2年ほど前に近くの教会に移った。その教会で葬儀が行われた。この方の人柄を何人かの人が証のように語られた。温かい人柄がそのまま伝わってきた。ただ説教で復活のからだについて、説教者と同じ解釈をしなければこの方と天国で会えないとも言わんばかりのものであった。驚いた。責められている感じであった。妻も驚いていた。

聖書信仰、福音主義のなかで自分も同じような姿勢を取っていたことを知る。そうすることが信仰であるかのように思ってしまう。ある聖書の理解が絶対のように思って、そのように理解しない人を排除してしまう。イデオロギーである。聖書解釈を看板にしていても、同じように解釈し、同じような姿勢を取らない人を排除する。イデオロギーである。

レヴィナスが「同」の世界として、知を中心とした知識の体系として哲学と神学を観ているのに納得する。聖書を理解しているこちらの知の世界である。あることの聖書理解でひとつの教派の神学が生まれ、別の視点で別の教派の神学が出てくる。そして人の弱さとして同じ理解をしない人を人でないかのように思ってしまう。神学的な理解は隠れた剣のようなものである。最後に必要なときにだけ出すものである。それが最初から、しかもいつも表に出ているとあちこちで血が流されてしまう。

信仰は自分の世界を出ていくものである。自分の知の体系を打ち破るものである。自分の外の知らない世界を信じて出ていくものである。まだ見たことのない世界を信じて求めていくものである。それは厳しいことである。ある着地点をいただき、ある理解をいただき、ある仲間をいただき、そこで安着できたらばどんなに楽なことなのかと思う。しかしそうはいかない。留まっていることはできない。留まっていたらば死んでしまう。

信仰は自分の外に出ていくことである。忘れたい過去があり、痛みを覚え老いていく肉体があり、負わされている重荷があっても出ていくことである。外に出ていってもなお自分であることは変わらない。それでも外に出ていくことで新しい風をいただくことである。心の窓が開き、心の扉が開いていることである。新しい風に心が生き返ることである。

聖書からキリストのことを理解する、キリスト論としてまとめる。神学として大切なことである。しかしそれはキリストにより近づく、キリストと一つとなることの保証ではない。むしろイデオロギーを助長してしまう。キリストと一つとなるためには自分の理解の外に出ていかなければならない。自分を捨てて出ていくことである。

ジョン・バニエはそのようにして出ていった。そしてキリストが生まれつきの盲人に目を留められたことに、ジョン・バニエも目を留めている。礼拝の後にいつも寝たきりの方を訪問ている。真珠湾攻撃を知って海兵隊に入って日本軍と戦った方である。顔を向け、声をかけるとニコッと笑ってくれる。昨日「何歳ですか」と問いかけたら、1分ぐらいしてからゆっくりと「90−5−さい」と返事をしてくれた。そんなやり取りに心が感動する。

信仰は外に向かっていく。自分の外に出ていくことを促す。見えないものを信じて出ていく。とても厳しいことである。どうしても自分の内に留まり、自分の理解でき、見えるところですべてを納めたくなる。罪のゆえである。イエスは遠慮なく言う。「あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9:41)

 

上沼昌雄記 

「目覚めていること」2007年8月20日(月)

神学モノローグ 

何かがずれているような感覚、それは違うのではないかという思い、こんなはずではなかったという反省、違った場所にいるような迷い、時代より先駆けているのか遅れているのか分からない戸惑い、何かを変えないといけないという促し、このままでは大変なことになるという危機感、話しても肩すかしを食ってしまうだろうという恐れ、そんなズレを感じることが結構ある。

何かが少しずつ変わってきていて、自分がそれに対応し切れていないでいることもある。時代は確かに動いている。ただ平板に無色で動いているのではない。色彩が変わり、響きが違い、風景が変化してきている。子供たちが捉えている価値観が変わり、方向付けが微妙に違ってきている。回りの人たちも変化し、変化に対応しようとしている。

教会で確かに聖書から語られていいるようで、何かがおかしいと思わされることもしばしばある。自分のなかだけで感じ、妻と分かち合っていただけであるが、教会の人も同じように感じていることを知ることになる。そしてかなりの深刻なことがあとで持ち上がってくる。

聖書の権威を主張しているその正しさは変わらなくても、その中に思いがけない間隙が潜んでいることを感じる。時間の変化のなかで出てくる。外側の枠がしっかりしていても内側からそれを崩していくものがある。どの時代もどの組織もそのままでいることはできない。何かが確実に変化をしている。そんなズレを不思議に感じる。

ためらいに似たそのような感覚をレヴィナスが「覚醒」「目覚めていること」と呼んで哲学の課題としていることを知る。「意識から覚醒へ」(1974年)という論文がある。主体と客体という二極化で従来の哲学は認識論を組み立ててきた。「意識」はそのような二極化には当てはまらない、すでに主体と客体を取り組んでいる知の構造である。フッサールから始まった現象学である。

すでに何かを意識している。しかしその何かを意識しているものが、外の世界そのままであれば、それは眠っていることだとレヴィナスは言う。安心しきって安らっていることである。すなわち「同」の世界に定着しているだけである。自分の世界だけに留まっていること、仲間同士の集い、教会に安着していることである。社会や国家に無批判に根を下ろしていることである。

そんな「同」のなかで安らいでいる意識を振り立てるものがある。そのままではいけないと声をかけてくるものがある。目を開けて外の世界をしっかりと観なさいと警告するものがある。眠れない夜をもたらすものがある。目を覚ましていなさいという夜の静寂がある。

それが「他者」であり、他者の「顔」である。意識の外にあって決して「同」のなかには同化しきれないものである。意識の枠の外にあって眠りを破るものである。レヴィナスは先の論文の初めに、雅歌5章2節のことばを掲げている。「私は眠っていましたが、心はさめていました。」そして確かに思いがけないことがそこから展開していく。そのような経験をさせられる。

不眠の夜に目覚めていること、それはあたかも捕虜収容所の夜の静寂で、なぜヨーロッパの哲学は、なぜハイデガーの哲学はナチスを止めることができなかったのか、それ以上になぜナチスの暴力を容認することになったのかと、問い続けているレヴィナスの姿を想像させる。何かがおかしいと感じている。不眠の夜に目覚めている。そして覚醒した夢を見ている。ヨーロッパの教会が安らかに眠りについているときに、レヴィナスは目覚めている。目覚めて、何かが決定的にゆがみ、欠けていることに気づいていく。「他者」は目覚めを起こさせ、不眠を誘う。

心のなかのズレを聞き届けていくこと、目覚めて見つめていくこと、思いがけないことに驚くこと、それは「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。」(1コリント2:9)に通じる。何かを変えていく未来であり、新しい恵みである。外から吹いてくる風である。新しい風である。そして、待ち望むことであり、信じることである。

 

上沼昌雄記

 

追記:

この記事を書いているときに、この4年間ネパールで医療奉仕をした羽根田医師ご夫妻の体験記『ネパールの田舎医療に飛び出して』が届きました。読みながら、それまで順調にいっていた医院を飛び出してネパールに出ていく前に話をしてくれた、ご夫妻が感じていた何かのズレを思い出しました。このままではいけないという促しをしっかりと聞き届けました。そして出ていって思いがけない恵みを経験してきました。新鮮な恵み、新しい風をいただける体験記です。 

「子であること、父であること」2007年8月14日(火)

ウイークリー瞑想

    妻の叔母の記念会があり、ロス郊外に行って来ました。その間長男義樹の家に泊めていただきました。一緒に礼拝に行くことができました。義樹たちの住まいはリック・ウォーレンの教会の近くです。そこにも行って様子を見てき、またそれ以外にも二つほどの教会に行ってみてきたが、いまの教会に決めたと言うことです。その経緯というか、決める要因について義樹の奥さんが嬉しそうに説明をしてくれました。音楽とメッセージが調和していることが決め手のようです。参加した礼拝も牧師の休暇中で、外部のメッセンジャーで、いつものような聖書講解でないと話してくれました。またもう少し落ち着いたらばスモールグループの聖研に加わる考えであることを言っていました。

2週間前はシカゴの長女瞳のところに行ってきました。礼拝には一緒に行くことはできなかったのですが、どのような姿勢でいるのかは分かります。その雰囲気が漂っています。どのように子供を育てようとしているのか分かります。今回は義樹たちの霊的な方向を知ることができました。瞳たちとは雰囲気が違っていながら、心の向いているところは同じです。

この夏は子供たちの家庭を訪ねることができ、思いがけずそれぞれの霊的な模様を楽しく観察しました。子供としての考えがあり、そこに結婚を通して相手の霊的な姿勢が加味されてきます。親とは違ったものを作り出していきます。夫婦で話し合いながら方向を出していることが分かります。

次女の泉は首都ワシントンのインターナショナル・チャーチに参加していますが、別の教会のユースの活動にも参加しています。子供たちがそれぞれの信仰の形態を取っています。親のものとは違った、自分たちに合うものをみつけています。私たちは18年前に移り住んだところの教会に、途中で家が変わってかなり距離がありながら、その上にいろいろな問題がありながら、そのまま出席しています。子供たちは私たちの姿勢を観察しています。

子供たちが、信仰はひとつですが、親とは多少異なった形態や霊的雰囲気を取っていくことで、自分たちのなかに新しい風が吹き込んできます。そのための窓が開いてきます。開けなければなりません。そして新しい風で生き返ります。思いがけない視点をいただきます。それで自分も新たに展開していきます。自分のなかだけに留まっていることはできません。

ユダヤ教の哲学者レヴィナスが「他者」を視点に取り入れることで、子であること、父であることを哲学とテーマとして取り上げていることが、現実的に分かってきました。西洋の思想は、神学も含めて、「他者」ではなく、自己である「同」を中心に展開してきました。自己の理解範囲に世界を築いていく作業に「他者」はただ組み込まれてきただけであると言います。「他者」は「同」の延長に過ぎません。子供は親の延長になってしまいます。全体主義です。ナチスの全体主義は特殊なものではなく、西洋の思想の行き着いたところだと言います。

「他者」は確かに、そんな「同」の枠には入らない驚きなのです。子は「同」ではなくて「他者」なのです。親は子を通して、「同」を打ち破って「他者」に対面するのです。自分の枠を乗り越えるのです。子は驚きであり、自由なのです。絶対的な停止ではなく、流動的な未来なのです。何をもたらすのか分からない驚異です。

子であること、父であることが哲学のテーマとなるのです。すなわち誰にとっても意味のあることとして提示されているのです。自分だけの世界を築くことが人生でないことを哲学として語っているのです。自分のための他者であり、世界であるという自己中心性を打ち破ることを意味づけてくれています。他者のためであることで人生の意味が出てくることを哲学としています。

パスカルは「アブラハム、イサク、ヤコブの神」、哲学者の神ではないと言いますが、レヴィナスにとっては、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」は哲学者の神でもあります。少なくともそうあろうとしています。子であること、父であることが誰にとっても意味のあることのなのです。西洋の思想で聖書を読んでいたためか、なかなか結びつかなかった系図が身近になってきました。子であること、父であることで神の歩みのなかに組み込まれているのです。系図は生きています。

シカゴで瞳の夫が、父親であることで何が一番の喜びであったかと尋ねてきました。子供と一緒にいて見つめていることだと答えました。そしてこの日曜の夕方、ベランダで義樹とふたりで夕涼みをしながらしばしのときを持ちました。

 

上沼昌雄記 

「手のひらほどの小さな雲」2007年8月6日(月)

ウイークリー瞑想

    行きと同じ道を同じように3日間の行程で、シカゴから北カリフォルニアに戻ってきました。2日目の昼の大半はワイオミング州を横切ることになりました。途中にララミーという町があります。中学生の終わり頃からようやく家に入ったテレビで『ララミー牧場』というドラマを食い入るように観ていました。フリーウエイを降りて町並みを見て回りました。長い間憧れていた土地に来たような感覚をいただきました。

ワイオミング州に入ってララミーまでは平坦な農業地帯です。ララミーからゆっくりと山並みを登りながらユタ州に入っていきます。数年前にその平坦な農業地帯でJCFNの理事会を持ちました。デンバーにいる理事の奥様のご両親でポテト農場をされている方が家を開放してくださいました。その時に夕立がありました。夕立のあとにひとつの地平線から次の地平線まで180度にまたがっている虹が出てきました。

その虹を思い出し、空に浮かぶ雲を眺めながら運転をしました。その奥様がメキシコ湾からの湿った空気がワイオミングまで届いてきて、一日のうちにさまざまな空模様を展開しているという説明を思い出しました。確かに雄大な大地ですが、それは同時にとてつもない大きな空を提供してくれます。しかもそこにさまざまな雲が浮かび、絶え間なく動いているのです。雄大な大地で、カリフォルニアのようにただ晴れ渡っているだけでしたらあきてしまいます。あきさせない神の計らいを感じます。ララミーの町で買った絵はがきにもどれも雲が写っています。

やさしくほほえんでいるような雲、綿飴のように食べたくなるような雲、空高く遊泳を楽しんでいるような雲、ひとりぽつんと取り残されたような雲、延びきってすべてをゆだねているような雲、まとまってこちらを待ち受けているような雲、山の向こうから顔を出して様子を伺っているような雲、厚く積み重なって雨を降らせている雲、白い雲と黒い雲。

そんな雲の様子が脳裏に刻まれたと言っていいのかも知れません。家に戻って興味がありましたのでグーグルで「雲」を検索してみました。「雲ホームページ」、「雲百科」、「雲ブログ」等、雲に魅せられて人が写真を撮り、ネットに載せています。そして『雲、息子への手紙』というネイチャー・ドキュメンタリーを制作した女性映画監督がいることを知りました。2001年のカンヌ国際映画祭で上映されたと言うことです。あのカトリーヌ・ドヌーブがナレーターをしているというのです。

そしてさらに友人の高橋秀典牧師が、第1列王記18章と19章の説教ノートを送ってくれました。預言者エリヤがバアルの神と戦ったカルメル山の劇的な記事です。ノートには「神の沈黙の声とは」という副題が付いています。興味のある箇所を興味のあるテーマで取り扱ってくれています。

惹かれるようにこの箇所を注意深く読んでみました。バアルの神との戦いに勝利をしたあとに、数年の飢饉の終わりを告げる箇所があります。カルメル山の頂上で顔を膝の間にうめるように地にうずくまって、従者に海の方を見るようにエリヤは告げます。「何もありません」と従者は答えます。「もう一度」と命じて、そんなやり取りが7度繰り返されます。そして最後に「手のひらほどの小さな雲が海から上ってきます」と返事をします。しばらくして、空は厚い雲に覆われて暗くなり、風も出てきて、激しい大雨となりました。そのように、自ら予告した飢饉の終わりを告げます。

中近東を旅行したことはありません。カルメル山は地中海を見下ろせるところにありますが、ただ想像しています。その頂でただ身をじっとかがめる姿勢でエリヤは「手のひらほどの小さな雲」の到来を予告しています。何かをしっかりと感じ取っていたのです。そしてしばらくして黒雲に覆われて大雨となりました。

ワイオミングで厚く覆った雲が前方にあり、しばらくして打ち付けるような大雨の中を通過しました。一瞬先が見えない状態が続きましたが、しばらくしたらまた晴れ間が出てきました。しかしエリヤがもたらしたものは、数年来の飢饉の終わりを告げる雨です。地を回復させる雨です。洪水をもたらし地を破壊する雨ではありません。地をしっかりと潤す雨です。「手のひらほどの小さな雲」と恵みの雨です。

イスラエルの民を導いた雲の柱、モーセが神に会うために導かれた雲の中、イエスの変貌山での弟子たちを覆った雲、イエスの昇天と再臨のときの雲、信仰の証人たちを表す雲。雲は、天と地の間に浮かんでいて、何かを語り告げています。目を向けさせてくれます。向こうに思いを馳せてくれます。

 

上沼昌雄記