「月夜」2007年9月28日(金)

ウイークリー瞑想

    年とともに、朝の空が明るくなってくるのあわせて、目が覚めてくるようになりました。昨日も目が覚めだした時に、空はすでに白みがかってきていました。いつもの時間だと思って起き出してみたら、それは満月の差し込む光で空が明るく見えているだけでした。5時を過ぎたところです。夏時間を使っていますので、日本では4時過ぎというところです。月の光が届いているところは輝いて見えますが、その陰はまだ真夜中の暗さです。その対比があまりも美しいので、灯りをつけないでそのまま眺めていました。

日本から「東京は30度を超える暑さでした。中秋の名月も汗をかいているような(笑)」とメールをいただきました。汗をかきながら奉仕をされているうちに、月も汗を垂らしているように見えたのでしょう。こちらは朝はすでに寒さが染み込んできます。空気が澄み切っているので、月の光が遮るものがないように真っ直ぐに届いてきます。フルムーンの月が気持ちよさそうに西の空に浮いていました。

幻想的な月夜にしばらく佇んでいました。窓ガラスを通して月光が家のなかにも届いています。ただ真っ直ぐに届いてきて、光の筋道が見えるようです。月光の届かないところは闇夜がしっかりと支配しています。絶対に月の光を入れさせないようにと頑張っているようです。月光に照らされた家具も、窓の外の木々も昼間の色とりどりを失っています。すべての色が吸収されてしまったようです。僅かにシルバーがかった光と闇のコントラストを醸し出しています。

月の光の下にいると自分の手もよく見えます。色のない手が浮かんでいます。色を押し殺して月の光が反射しているのです。暗やみのなかで色を失ってただ月光の恩恵を受けているのです。あたかも、太陽の光で照らされるのとは異なった自分がいるようです。日の下で生きている自分とは異なった自分になったようです。異なった自分を見せられているような気がします。異なった自分が見られているような気がします。それなりに身構えます。それで不思議に身動きが取れなくなります。じっと佇んでいるのです。夜中に動き回っている動物たちもどこかにじっと隠れているようです。

月夜に比べて、真っ暗な闇夜は自分を裸にし、無防備にします。無名な自分になります。昼間の装飾した自分ではなく、ただの存在になります。誰からも見られていない安心感があります。また隠しようのない自分に直面する恐れがあります。本当の自分がそこにいるかも知れないとそんなささやきが聞こえてきます。心に引っかかっているものが顔を出してきます。昼間押さえていたものが湧き出てきます。

昼と夜とを均等にいただいていながら、昼の世界だけで生きているような錯覚に陥ります。昼の世界で理解したもので夜も生きようとしているからかも知れません。逆に、夜の世界で出てくるもので昼を生きることができます。少なくとも夜の世界を昼と同じように均等に生きることができます。

マザー・テレサの本を読んでいます。カルカッタの貧しい人のために出ていく導きをいただく過程は、キリストとの近さが滲み出ています。ヴァチカンの許可をいただいて働きに就きだしてすぐに、心が暗やみに捕らえられていることを告白しています。いまそのくだりを読んでいます。その後召されるまで、半世紀近く信仰の暗夜を抱えていたことになります。その意味合いは計りがたいものがあります。この本の表表紙に載っている彼女の堅く握りしめているごつごつした手が、暗夜の深さを語っているようです。

月夜は闇夜を教えてくれます。月の光のない真っ暗な夜です。そんな闇夜が月光に照らされることで幻想的な美しさを示しています。また月夜は、昼と夜の間の自分を示しているようです。橋渡しをしてくれているのかも知れません。昼の私と夜の私を結びつけていてくれるのかも知れません。そして多分、多少幻想的な仕方で結びつけてくれるのでしょう。

 

上沼昌雄記

 

追伸:間もなく秋の日本の奉仕に出かけます。お会いできて交わりが許されれば幸いです。感謝とともに。

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「異なった時のなかに」2007年9月17日(月)

ウイークリー瞑想

このところめっきりと秋が深くなってきました。と時候の挨拶をしたくなるほど気温が下がってきて、朝晩は肌寒さを感じています。例年より気温が下がっています。時候の挨拶をそれほどしないこちらの人たちも、なんと美しい季節だろうと、口から漏れてきます。別に紅葉が始まったとかというのではないのですが、気温が下がり、太陽の輝きが、焼けるような暑さから、なんとも心地よくなってきたのです。

乾燥地帯ですので、太陽が沈み、暗やみが地を覆うようになると、夏の熱気と喧噪さを追い払って、夜の冷気と静寂が支配してきます。夏の終わりにかけてそんな変化を少しずつ感じてきます。夜の時間が長くなるに連れて、暑さと寒さが均等に訪れてきます。記憶ですと今頃がその変化の途中なのですが、今年はすでに夜の気配が覆っています。湿気をともなっている日本の気候ですと、暑い空気が夜にも残って、昼がいまだに支配している感じですが、乾燥したところではその区別と変化がはっきりしています。

そんな夏の終わりと秋の始まりはいつも繰り返されていることです。やっと夏が終わってホッとしている感じはいつもと同じです。同じように冬を迎える準備をしなければなりません。間もなくいつものように秋の日本での奉仕に出かけます。戻ってきて感謝祭があり、クリスマスを迎えます。新年にかけてJCFN主催のイクイッパー・カンファレンスが南カリフォルニアであります。それなりの予定ができてきます。例年の如くといえばその通りです。

それでも朝の静けさのなかに身を置き、夕闇が迫ってくるなかに佇んでいると、当たり前なのですが、夏の熱さのなかで長距離をドライブをしていた時とは異なった時のなかにいることが分かります。時の流れのなかにいるので、確かに同じ時の延長なのです。そうでなければ、私の存在も私の回りの自然も成り立たなくなります。そうなのですがそれでも、次に来る時はただの延長ではなくて、ズレをともない、変化をともなってきます。今までに経験したことのない時です。シンクロナイズの時ではないのです。今までにない温かみのある時であり、また今までにない冷気をともなった時でもあります。

夏の初めに2年ぶりに家に戻ってきて生活を再開しました。その間に近所の4家族が出ていって、新しい人たちが住んでいます。異なった雰囲気です。夏の間に家族、親族、教会の友人、近所の方の葬儀に参列しました。先週の水曜日が、近所の私より二つ上のご主人の葬儀でした。一緒の時に家を建てました。それ以来のまさによい近隣でした。また嬉しいことに、理事の八木沢さんたちのところに初孫が与えれれました。おじいさん・おばあさん同盟が増えてきました。

当然なのですが、年とともに体力が落ちてきています。2年間積み重なった家の回りの落ち葉や雑草の清掃を、燃えるような太陽の下でしたら体が悲鳴を上げてしまいます。回復に時間がかかります。そんなことを何度か繰り返して、秋の静寂のなかに立ち止まっています。そんなことも今まで繰り返してきたことですが、同時に自分の手に負えないというか、自分を越えた時のなかに置かれている感じが、秋の風が肌に染み込むように、体の中に浸透してきます。

「日の下に新しいものは一つもない」と確かに伝道者はいいます。私が思い経験していることは、洋東西を問わず誰もがすでに経験していることです。ただの繰り返しに過ぎません。空の空です。そんな心を歌った唄や詩に感動します。そんな伝道者のことばにうなずきながら、「生まれるに時があり、死ぬのに時がある」ともいう心の機微にも惹かれています。その時でしか起こらない御手を捉えています。時の特異性を感じ取っています。

「くずすのに時があり、建てるのに時がある。」

「嘆くのに時があり、踊るのに時がある。」

「捜すのに時があり、失うのに時がある。」

「黙っているのに時があり、話をするのに時がある。」

「愛するのに時があり、憎むのに時がある。」

何も変わっていない、ただ繰り返しのような時の流れのなかでも、今迎えている時は、今までない微妙な変化、ズレをともなった時であることに気づきます。しかも自分の手に負えない変化が含まれています。自分ではどうすることもできないズレをともなっているのです。それで心が外に向き、上に向いていきます。

秋の静けさが、そんな心に対応します。夜の静寂が、時のズレに敏感にしていくれます。朝焼けが、そんな異なった時が神から出ていることを教えてくれます。気持ちのよい太陽が、誰も想像できない未来は御手のうちににありながら、その時その時でないと明らかにされないと告げています。心地よい風が、その時その時が少しずつ微妙に変化していることを受け入れさせてくれます。

 

上沼昌雄記 

「イチロー」2007年9月10日(月)

神学モノローグ

    イチローのメジャーリーグでの活躍には眼を見張るものがある。アメリカという国で生活し、格闘し、もがいている者としてイチローは魅力的な存在である。家のテレビは3つのチャンネルしか観ることができず、野球中継といっても地元のチームの放映が中心なので、イチローの試合を観ることはほとんどない。幸いオールスター戦で、外野のフェンスに直撃したボールが逸れた間に本塁まで駆け抜けた状景と、その後MVPの受賞のインタビューは聞くことができた。それで、インターメット上で紹介されるイチローの活躍と彼の語録のようなものをそれなりに気にしながら読んでいる。

イチローが達成した記録には、2004年の年間最多安打のように、聞いたこともないような全く過去の選手との比較が出てくる。つい最近は7年連続200本安打の記録を達成している。今朝のインターネットでも昨日の試合で、年間「200本安打、100得点、30盗塁」を同じように7年連続で達成しているが、イチローだけだと言う。そのたびに随分古い記録との比較が出ている。

イチローは攻守、走塁、どの面でも長けている。そのための大変な努力をいているのだと思う。メジャーリーグは年間162試合である。一試合一本のヒットでは年間200本にはならない。途中で怪我をしたら終わりである。ヒットのない試合もある。しかも最大3時間の時差のあるアメリカ大陸を横断しながら、その上引き分け試合がないという、長丁場を耐えなければならない。体力のあるアメリカ人選手でも疲労困憊する。

どこかのインタビューの記事で、試合中でも力を抜いているようなことを言っている。いつも力を入れていたら疲れてしまう。力を抜いて風の流れれに身を任せて、浮いていることで体力の消耗を避けている。同時に力を入れるときには最大限出せるようにしている。確かにバッターボックスでもすんなりと立っていて、特別構えているようでもない。ほとんどのバッターが身構えているのでよく分かる。またイチローはどう見ても走りながら打っているように見える。打った瞬間に右バッターより3,4歩ほど先にいる感じである。

ディゲームでセンターに上がったフライを、捕球の姿勢を見せていながら、ボールはその向こうに落ちた状景を覚えている。インターネットの記事で、フライが太陽の中に入ってしまって見えなくなったのを、あたかもとれるような姿勢を取って2塁か3塁の走者を釘付けにするためだったと言っている。最近2塁に盗塁して、これは間に合わないと分かって、ベースの前で立ち上がって、2塁手ヤンキースのジーターのタッチを避けたが、審判がそれを見ていなくてアウトにされた記事を、想像しながら読んだ。

誰もがよい成績を残そうと大変な努力をしている。しかも力があり、体力がある。アメリカ人とペンキ塗りの仕事をしたことがあるのでよく分かる。野球という一大ゲームの可能性を誰もが最大限に延ばそうとしている。バリー・ボンズはホームラン記録を塗り替えた。日本人選手も頑張っている。メジャーリーグは今までになくエキサイトしている。

イチローは、そんな可能性が最大限に追求されているなかで、それを乗り越えるだけの能力を備えているのと同時に、考えられる可能性だけでは見えない、何か野球というゲームのなかでそれでもなお見落とされている面を、瞬間的にか直感的にか感じ取って、その隙までプレーをしているようなところがある。そのように思えて仕方がない。ただ頑張って頑張って乗り越えようとしているのであれば、息切れしてしまう。息を抜きながら、もうこれ以上可能性がないと思われるメジャーの試合のなかで、どこかに見落とされている面を見抜いている。今までに見たこともないようなプレーに観客が興奮している。

イチローは曲芸師でも、忍者でもはない。野球の本道を身に着け、その中心を歩んでいる。その可能性を最大限に探っている。同時に野球の大筋から外れたというか、見落とされているというか、隠れているというか、考えられないというか、ともかく窮め尽くしてもなお見えない可能性を、多分直感的に感じ取っている。それに瞬間的に、本能的に体がついている。その結果、メジャーリーグに大きなズレを引き起こしている。今までにない揺れを起こしている。新鮮なエキサイトを引き起こしている。

神学はメジャーリーグよりもはるかに古い2千年の歴史がある。学問として神学に関わった人の数は抜きんでている。提示された神学も数え切れない。学としての神学の可能性を今でも追求している。体系として整っている。何も新たに付け加えることのないほどである。聖書としてのテキストがあり、神学としての枠組みがあり、体系がある。誰もが2千年の神学の歴史の重みのなかで生きている。福音派は福音主義という神学の枠を持っている。その枠は抜き差しならないほどしっかりとしている。

神学に歴史があり、枠組みがしっかりしていればいるほど、それ以上の隙間やズレはもはやなさそうである。しかしそれは同時に、生きた神を、また御霊の流れを固定化して、停滞を招いている。身動きがとれず、息苦しくなっている。魅力もなくなってきている。という神学の現状がありながら、聖書には生き生きとした息吹があり、引き込まれる流れがあり、眼を見張る魅力さがある。それに生かされている。同時に、神学によって閉じこめられている。 限られたなかで神学をしてきて、しっかりと築き上げられている神学に、どこかにズレがあり、隙間があり、見落としているものがあり、隠れているものがあるのではないかと思わされている。そこに触れることができ、捉えることができたら、神学の全体がずれてきて、見落とされたものが見えてくるのかも知れない。それ以上ないと思われる神学のズレや隙間を捉えることができたら、今まで見えなかった聖書の世界に入ることができるのかも知れない。そんな感覚をいただいている。

 

上沼昌雄記

「マザー・テレサ:信仰の暗夜」2007年9月2日(日)

ウイークリー瞑想

    先週発売された雑誌『タイム』(9月3日付)の表紙は、10年前に召されたマザー・テレサになっていました。あのダイアナ妃が亡くなられたのも10年前のこの時期です。「マザー・テレサの隠された生」とタイトルが付いています。一本の太いブルーと二本の細いブルーのベールに包まれ、しわだらけの、化粧の全くない、深い淵から出てきたような顔が載っています。端正でチャーミングなダイアナ妃の写真も小さく載っています。何とも対照的なふたりの顔です。ふたりが一緒の時の写真を見たこともあります。

これは、10年を契機に彼女の残した手紙がMother Threasa: Come Be My Lightというタイトルで9月4日付で出版されることになっているからです。その本がすでにメディア用に流布されていて『タイム』が取り上げているのです。8ページの写真入りで「マザー・テレサの苦悩」というタイトルでまとめられています。ジャーナリスティックなトピックなので、次女の泉が仕事をしているワシントンポスト紙の電子版の宗教欄でも取り上げていて、泉を通して『タイム』の記事を知ることになりました。

インドでの死に行く人たちへの働きで世界的に知られ、ノーベル平和賞を受賞したマザー・テレサの、信仰の苦悩を書いた手紙が公刊されることになったのです。それはただ信仰が大変だというものを越えた、半世紀に渡る彼女の心の苦悩、神の臨在感の喪失、自己への絶望、見放された孤独感、渇ききった心が、隠さないで、まさにそのまま書かれているのです。自分の書いたものはすべて破棄されるようにとも書いてあるのですが、教会当局がそれを差し止めたと言うことです。

「どこに私の信仰はあるのだろうか。心の深いところ、そこには何もなく、空虚と闇のみです。わが父よ、この底知れない痛みは耐えることができません。、、、」「父よ、教えてください。どうして私のたましいはそれほどの痛みと暗やみのなかにあるのでしょう。」マザー・テレサは霊的指導者に心の深いうめきを隠さないで書いています。ノーベル平和賞をいただく3ヶ月前にも、沈黙と空虚さに打ちのめされている心を書いています。「見上げても見ることができず、耳を傾けても何も聞こえません。」

かつてヘンリー・ナウエンの『イエスの御名で』が私たちの間でも流布されました。霊的な気づきを多くいただくことができました。同時にナウエンの心の苦悩も聞くことができました。そのことのゆえにとまで言えるほど、キリストとの一体感を求めていることが分かります。ナウエンに親しみを覚えました。マザー・テレサに場合はそんな迷いはなく、すっきりとキリストと一つになっているような感じを持っていました。男性の霊性と女性の霊性の違いのように思い、そのように話してきたこともあります。しかし今回、マザー・テレサも同じように、もしかするとそれ以上に苦悩していた面があることを知ることになり、安心したところもあります。病的な面もあったのではないかと、妻は言います。

喪失感、空虚さ、暗やみ、何かその対比で、臨在感、満たし、光をしっかりと捉えていたのではないかと想像しています。自分はその境界線の上でちょとだけ上にいったり下に行ったりしているだけでに過ぎないのではないかと思わされます。マザー・テレサははばからずに言っているようです。「誰にも愛されたことがないほどにイエスよ、あなたと愛したい。」彼女なかですっきりと向こうに行っている面と、行けないで苦悩している面が浮かび上がってきたかのようです。

それ以上は本を手にして確認する以外にありません。ただマザー・テレサの人と信仰についての研究が本格的になされていくことと思います。また私たちにもとても深い慰めを与えてくれるように思います。同時にカトリックの霊性が浮き彫りにされてくるのかも知れません。その対比で私たちの霊性を考える手立てにもなるかも知れません。

イエスの身代わりのようにカルカッタの死に行く人たちのところに出ていったマザー・テレサ、心のなかで空虚さ、絶望感、喪失感、暗やみで苦しんでいるマザー・テレサ、『タイム』の写真で、しっかりと目を向けている眼差しと、深く刻まれたしわのひとつひとつが、信仰の厳しさと深みを語っているようです。

 

上沼昌雄記