「マザー・テレサの苦悩、なぜ?」2007年10月1日(月)

ウイークリー瞑想

1ヶ月前に「マザー・テレサ:信仰の暗夜」ということで、雑誌『タイム』の記事を紹介いたしました。記事のもとになっているマザー・テレサの書簡を中心とした本”Mother Teresa: Come Be My Light”を、今朝読み終えました。マザー・テレサの内面の戦いが明らかになりましたので、彼女の信仰と人となりの研究が進むことと思います。また、カトリックの霊性の深さを示しているのと同時に、福音派の霊性の方向を探求していくためにも大きな益になると思います。

読み終えて、一つのことが心に湧いてきます。あれほどのすばらしい働きをした、あるいはし続けたマザー・テレサが、その奉仕の期間、ほとんど半世紀近く、自分の心のなかで暗夜、孤独、絶望感、拒絶感に襲われていたことに、「なぜ?」という問いが湧き出てくることです。そして取りも直さず、マザー・テレサ自身が、「なぜ?」と問いかけているのです。

働きに召され、カルカッタの死にいく人たちのところに出ていくまでは、見事なまでにキリストとの一体感、神の召命の明確さを示しています。それが働きを始めて間もなく、どうにもならないほどの孤独感、絶望感、暗夜に襲われるのです。奉仕が祝され、世界中に知られ、ノーベル平和賞を受賞することがあっても、彼女の心は苦悩を続けているのです。

1959年に霊的指導者に宛てた手紙があります。「神父様、教えてください。どうしてなぜ、私の心のにはそれほどの痛みと暗やみがあるのでしょう。私はもう耐えられませんとしか言えません。でもそう言った途端、主よ、お許しください、ただみこころのままに我が身になりますように、と言っているのです。」

答えのない、慰めのない、ただ繰り返して出てくる「なぜ?」という問いかけを問いつつ、最も貧しい人たち、死にいく人たちのところに絶えることなく出ていきます。彼女に従う人々が増えていきます。カルカッタを越えて、世界中に広がっていきます。それでも彼女の心は満たされることがありません。ますます貧しく、惨めになります。出口のない闇のなかに彷徨います。

ただ一つのこと、あるいは二つのことがほのかな慰めとして届いてきたようです。それは、この世で最も貧しい人に届くために貧しくされていることと、キリストの貧しさを届けるために貧しくされているという自覚です。本のタイトルのCome Be My Lightは、キリストがマザー・テレサをこの働きに召される時に「私のところに来て、そして出ていって、私の光となりなさい」と言ったことばでした。マザー・テレサは、そうです、私の光ではなく、キリストの光を届けるために、私の心は闇に覆われているのですと受け止めていたようです。

というのは、頭のなかで、また論理的な結論としては納得できそうでも、心の現実はただ苦悩に襲われているのです。逃れることのできない心の闇に捉えられているのです。マザー・テレサの顔のしわの深さ、握りしめたごつごつとした手が、苦悩の厳しさを語っています。なぜ、神はご自身を隠されたのか。なぜ、神のための奉仕にそれほどまで苦しみがともなうのか。なぜ、マザー・テレサは苦しみなかでなお愛を持って死にいく人たちのところに出ていくことができたのか。なぜ、心が闇に覆われていてもそれでも祝福されるのか。なぜ? なぜ? なぜ?

ホロコーストを14歳の時に経験し、生き延びて、その経験を『夜』をいう本でまとめて、同じようにノーベル平和賞をいただいたエリ・ヴィーゼルも、その本の初めで修道僧との会話で、ただ「なぜ?」という問いかけしか出せないと言っています。

聖書のなかでも「なぜ?」という問いかけがあちこちにちりばめられています。またそのような問いかけが響いてくる場面が多くあります。私たちの心のどこかにもあります。神を信じていてもどこかに「なぜ?」という問いかけがなくなりません。絶えることなくあります。生涯問い続けています。

「なぜ?」という問いは、ただ不思議に、私たちを神により近づけてくれているようです。

 

上沼昌雄記

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