「キリスト教の身体性」2007年12月11日(火)

神学モノローグ

    神の御子が肉をとられたこと、それがクリスマスのメッセージである。そうすると、肉をとらなければならなかった必然性を考えることになる。天使であったらば私たちの救いは成り立たない。ヘブル書の著者が言っている。「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。主は御使いを助けるためではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださったのです。」(2:14−16)

肉を持つものすべての救いのために、主は私たちと同じ肉をとられた。ヨハネ福音書では、主は肉(サルクス)となられたとストレートにいう。「ことばは人(サルクス)となって、私たちの間に住まわれた。」(1:14)ニケア信条は肉をとり、肉となられたと、誤りのないように繰り返している。「主は、私たち人間のため、また私たちの救いのために降り、肉をとり、人となられた。

肉を持つものの苦悩、限界、恐怖が浮かび上がってくる。パウロがロマ書8章3節で言っていることである。「肉によって無力になっているために、律法ではできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。

肉は思いとは反する。したくないと思っても肉は独りでに動いてしまう。勝手に動き出してしまう。押さえていてもどこかで肉がその出口を求めてうごめいている。取り繕っている自分を裏切るかのようにほくそ笑んである。そして現実にあざけるように勝手に動き出してしまう。

肉の維持のために食べなければならない。そのためには他者を押しのけてしまうこともある。戦争も避けられない。肉が持つ性の欲求がある。理性が吹っ飛んでしまうようなことがある。

肉は時間と空間に縛られている。抜け出すことはできない。その束縛のなかにいるのと同時に、その終わりがある。病と死の恐怖を抱えている。時間と空間の向こうに行くことができない。

キリストが肉をとられた時に、肉を持つものの弱さと限界を身に受けられた。そこをヘブル書の著者がみている。「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができたのです。」(5:2)この同情がまさに救いの始まりである。肉を持つものための救いの計画である。それゆえに、肉における処罰があり、復活のからだを持ってよみがえることで、救いが成就する。受肉、十字架、復活、昇天という一連のキリストのわざが救いのためであることが分かる。

救いを受肉からではなくて、十字架から捉えていく理解では、贖罪の意味が前面的に強調される。結果として義認論が中心になる。その場合に受肉論が隠れてしまうために、肉の現実性よりも、義とされたという法的な宣言が意味づけられる。そのために、命題としての救いの教理が体系づけられ、結論として、救われたもののあり方が教条として出てくる。すなわち、クリスチャンはこうあるべきだという教条になる。理想的なクリスチャン像である。しかし、肉の現実を忘れた仮想の世界にもなる。救済論が観念的な事柄となる。

このようにキリスト教が、肉の現実から離れた、教えと倫理のこととなる。精神性のキリスト教になる。聖書を理解し、その教えを心に刻めばことはうまく進むような説教になる。そしてそうでない現実に直面しておじ惑う。教会において、神学校において教えの通りに行かないことに直面して驚く。

肉の現実を受け止めている時に、そのようなことにおじ惑うことも、驚くこともない。しっかりと受け止めることができる。そのためにキリストは肉をとられたのである。キリスト教の身体性である。馴染みのない表現であるが、キリスト教が余りにも精神主義になっているのであえてこの表現を使っている。

肉(サルクス)は肉体であり、身体(ソーマ)である。私の肉であり、ひとりひとりの肉である。精神性には還元できない個別的な身体である。私が抱えている肉であり、ひとりひとりが抱えている肉である。理想的なクリスチャン像では捉えきれないはみ出したものである。異質であり、意外性である。

肉は感性を抱えている。私が感じるものであり、その人が感じるものである。当然それぞれ違っている。精神性のキリスト教では同じように感じることを要求する。身体性のキリスト教は固有性と多様性を受け入れる。

肉は闇を抱えている。身に起こったことが肉の襞に刻まれているかのように記憶として残っている。パウロは「肉の心」(2コリント3:3脚注)という。肉の襞と心の襞が表裏一体のように重なっている。その重なり合った襞に闇がひっそりと隠れている。肉体が悪臭を放つかのように闇が出てくる。

自分の肉の罪深さのゆえに、肉をとられたキリストが受けなければならなかった苦しみと試練の大きさが多少とも分かる。そして、同じように肉を持つ他の人の苦悩に少なくとも同調することができる。

 

上沼昌雄記

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