「系図ーユダヤ教哲学者を巡って」2008年1月8日(火)

ウイークリー瞑想 

イクイッパー・カンファレンスが終わってそのままロス郊外の長男のところに留まっています。2ヶ月半の女の子がいます。昨日シカゴから長女の家族が来ました。1歳を過ぎた男の子がいます。この数年妻の闘病がありながら、長女と長男の結婚があり、それぞれのところで子供が与えられ、あっという間におじいさん、おばあさんになっています。

    イクイッパー・カンファレンスには、私のミニストリーの理事でもあり、JCFNの理事もしていて下さり、サクラメントのみくにクレストランの創業者でもある荒井牧師夫妻が、お嬢さんとお嫁さんと、13歳になるお孫さんを筆頭に5人のお孫さんを引き連れて大家族で参加してくださいました。

    この数年ユダヤ人哲学者であるレヴィナスの著書を読んでいます。ほとんどの邦訳があります。時々英訳を参考にしています。ユダヤ教哲学者とあえていっても過言でありません。ナチスの下でのユダヤ人捕虜であり、家族のほとんどをナチスによって殺害され、戦後はタルムードの学者として哲学をしてきました。ドイツ人哲学者のハイデガーとはナチスを介して対極にいます。

といってもユダヤ教を宣伝しているのではありません。ヨーロッパでナチスを阻止することができなかった理由を哲学のテーマとすることで、ユダヤ教の世界観が行間に滲み出ているのです。時にはメシア待望を隠さないで言明してます。そんなレヴィナスの哲学をかじりながら、旧約聖書の系図がすんなりと入ってきました。

レヴィナスの哲学のキーワードは「他者」です。個の確立、自律、啓蒙を目指してきた西洋の思想は、他者を自己の同心円に引き込む全体性を、概念化、体系ということで身に着けてきました。その全体性が、さらに強力な全体主義に対して無力となったのがナイスのヨーロッパであったと見ています。

他者は自己の同心円には決して入らない超越、無限です。妻であっても、子供であっても私の世界には同化されない他者です。私とは当然異なる異分子であり、私にとっていつも驚きである他者です。自分を出ていかなければどうしても対面できない他者です。決して手を出すことのできな他者です。それだけでなく私は他者のための「身代わり」として生きているのです。

そんな哲学が、考えてみれば当然なのですが、父親であることを論じているのです。父は、子供のための身代わりであることで初めて父親であるというのです。その逆ではないのです。現実にはそのようなことが起こってしまいます。子供たちのなかでの殺人を経験したアダムもそうです。アブシャロムのことで嘆いたダビデもそうです。そんな現実を乗り越えるのが、他者としての子供であり、そのための身代わりとしての父親です。

罪のゆえにどうしても自分のことしか考えられない自分であったとしても、またまさにそれゆえに、自分の乗り越え、自分から出ていくために、そして本当の自分は自分の外にあるがゆえに、子のための身代わりを引き受けることができるのです。その事実を系図が淡々と語っているのです。それ以外の何のために私たちは生きているのかと訴えているかのようです。生きることはいのちの継承であり、いのちのバトンタッチです。

「アダムは、百三十年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。、、、セツは百五年生きて、エノシュを生んだ。、、、エノシュは九十年生きて、ケナンを生んだ。、、、ケナンは、、、」(創世記5章3,6,9,12節)

恵みは、自分のなかからは出てきません。自分の外から届いてきます。それゆえに恵みは、いつも驚きです。妻も子供も孫も、全くの驚きです。私を超越した他者だからです。他者の他者のその向こうは、当然神です。神は恵みであり、驚きです。神は他者を通しても関わってきます。他者のための身代わりとして生きることは聖なることであり、敬虔なことです。

 

上沼昌雄記

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