「キリストの深い傷を探し当てる」2008年1月14日(月)

ウイークリー瞑想 

昨年のクリスマスにかけてキリストの受肉を取り上げて、キリスト教の身体性について書きました。概念化され、公式化された精神性のキリスト教ではなくて、肉の弱さに怯え、肉の獰猛性を恐れ、肉の痛みに打ちひしがれているものが辿り着くキリスト教の身体性です。どうにもならない自分の肉の現実、傷を負っている肉の現実に直面する身体性のキリスト教です。

が明けて癌の告知を受けているふたりの男性から、その事実を語っているメールをいただきました。ひとりは癌との戦いがありながら、世界一幸せな牧師と言われる方です。「2001年2月6日の癌の告知を受け余命2年半の宣告をされたとき、まったく知らない東京の牧師から電話がありました。奥様が私と同じ癌で余命2ヶ月、何で先生は初期で発見されましたか、泣いていました。私は答えることができませんでした。もし自分がその立場であったなら私は2001年に天国に凱旋していたことでしょう。いやもっと早く凱旋していたかも。そして上沼先生とも会うことはなかったでしょう。何故私は今生かされているのか今考えています、そして改めてだからこそこの瞬間を大切にしたいです。」

この牧師に最初にお会いした時は、ある検診に行って戻られた時でした。よく覚えています。座った途端にご自分の歩まれた苦しみを語り出しました。多くの場合に避けたくなってしまうのですが、不思議に引き込まれました。自分の知らないキリストの苦しみを体験していることが分かりました。破れがあり、突き抜けたものがあり、弱さと勇敢さが同居しており、存在に不思議な魅力を備えています。

もうひとりの男性は、拙書『夫たちよ、妻の話を聞こう』の34頁から35頁にかけて紹介した方です。「キャンサーに掛かった時点から、不思議とホロコーストへの興味が加速仕始めて、体験的にはとても不思議な事でした。神からすれば、ホロコースト後の50年なんて、4〜5秒前の出来事なんでしょう。それが50年の月日を経過して僕に強力に訴えかけてきて、ハンナ・アレーントの『全体主義の起源』の三巻が与えたインパクトの凄さに、アドルフ・ヒットラーの片棒を担いだレニー・リフェンシュタールの撮影した『民族の祭典』の映像が僕の灰色の脳細胞に語りかけてきたのです。その瞬間、戦争を経験していない僕自身がホロコーストの残虐が身体に直に突き刺さった快感に似た強烈なインパクトを受けました。」

この後、キリストの愛と福音に接することができました。肉の痛みを抱え続けています。それでもしっかりとその向こうにあるものを見ています。痛みを抑制するように言います。「僕は人間の病と云うのは、神の傷だと思った事があります。神がすり傷を負えば、それはある意味人間の身体へ強烈に働きかける。世の中は不思議な事にその神の傷をじかに感じ得る事が出来る人間の存在があると思います。それは人間的解釈から見れば、苦痛に満ちたことなのですが、でも神から見れば、僕らに話しかけてくる遭遇なのです。」

「苦痛に満ちたことなのですが」と、痛みのなかでメールを書いてくれていることが分かります。その自分が負っている肉体の傷を「神の傷」と見ているのです。それで、次のようなことが言えるのです。「もし、僕らに共通項があるとしたら、それは”キリストの深い傷を探し当てる”と云う神の使命を請け負っている事なのでしょう。」この方のメッセージのように思いました。特に「キリストの深い傷を探し当てる」という表現が衝撃的に私の中に入ってきました。

一般的には、自分のなかの深い傷がキリストによって癒されるという理解になります。しかし、このようなキリスト教信仰の公式に近い理解は、苦しみを負っている自分のことしか考えていないのです。この方は、苦痛に満ちたことでありながら、そんな自分の痛みを置いておいて、キリストの深い傷を探し当てると言うのです。痛みにおける逆転です。痛みと苦しみのなかでは自分のことしか考えれれません。それが全く逆転して、キリストの深い傷を探し当てると言うのです。キリストの深い傷の中に自分の苦しみと痛みがあたかも昇華されるかのような表現です。

でも確かにそうなのかも知れません。自分の深い傷がキリストによって癒されるという公式が当たり前のようになっているのですが、現実には苦しみにおののき、痛みに震えています。そうではなくて苦しみと痛みのなかで、キリストの深い傷を探し当てて、自分の痛みと苦しみが飲み込まれて、キリストのパッションを生きることなのかも知れません。ペテロは「むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。」(1ペテロ4:13)と言います。パウロは「私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」(コロサイ1:24)と言います。

痛みと苦しみは私たちを外の世界から切り離し、自分の世界に閉じこめてしまいます。キリストの苦しみも届かなくなります。苦しみの悪魔性です。そんな現実でありながら、信じられないほどの信仰で、逆にキリストの深い傷を探し当ているのです。苦しみのなかでなお自分を出ていく道を得ているのです。十字架の苦しみのなかで、なお自分を十字架に掛けた人たちを「父よ。彼らをお赦しください。」(ルカ23:34)と祈られたキリストに呼応しているのです。キリストの身体性に私の肉性が飲み込まれて、キリストのパッションを生きているのです。

この方は私の文章を注意深く読んでくれて、こちらが気づかないことにまで入ってきて、思いがけなところに引っ張っていってくれます。こちらが届かないでもがいているようなこと、言葉に言い表せないで喉の奥に詰まっているようなことにまで触れてきます。それは、痛みのなかで自分のなかに留まっていないで、キリストの深い傷を探し当てているからなのでしょう。

 

上沼昌雄記

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