「継続的受肉論」2008年1月22日(火)

神学モノローグ 

フィリップ・ヤンシーが、クリスチャニティー・ツディ誌の1月号の最後の頁で、Ongoing Incarnationというタイトルの記事を載せている。副題が「もし人類が罪を犯さなかったら、クリスマスはあっただろうか」と言うものである。12月に3回に分けて受肉のことを取り上げていたので興味を持った。

この議論は、宗教改革の前の13世紀にトマス・アクィナスとその後のドゥンス・スコトゥスの間で論じられたという。アクィナスにおいては、キリストの受肉は人類の罪と救済のためであるので、罪を犯さなかったらクリスマスはなかったとなる。それに対してスコトゥスにおいては、ヨハネ福音書の初めやエペソ書とコロサイ書に記されているように、創造が御子によってなされたがゆえに、キリストの受肉は単に罪によって損なわれた世界の回復だけでなく、創造の完成のために必要であったという。アルファでありオメガである方の創造と新天新地の間の継続的なわざとしての受肉とみている。継続的受肉論といえる。

伝統的には両方の意見が聖書に基づいていると言うことで受け容れられてきているが、アクィナスの意見が主流である。プロテスタントにも受け継がれている。しかし、スコトゥスの意見も最近になって重きを持ってきていて、福音主義者もスコトゥスの意見に傾聴すべきだという。「新しい創造」(2コリント5:17)のためであり、「被造物の贖い」(ロマ書8章)のためであり、世界の救済のためであり、新天新地のためである。

フィリップ・ヤンシーの意欲的なコラムが、この覧で何度か記してきたことを2つの面を確認させてくれる。第一は、この受肉論の違いは、4世紀のアタナシウスの『神のことばの受肉』における被造物の回復の含めた理解と、11世紀のアンセルムスの『なぜ神は人となったのか』における罪の贖いのための受肉論の理解の違いにすでに出ていることである。歴史的には、初代教会の宇宙論的な受肉論が、中世になって単なる救済論的な受肉論に変遷していったことを語っている。その中世の支配的な受肉論が中世の終わりにかけて、スコトゥスを通して初代教会の理解に戻ってきていることを示している。

第二は、このような教義学上の意味と同時に、スコトゥスの哲学が現代に再現されてきていることである。昨年読んだ熊野純彦著の『西洋哲学史』で、アクィナスの「存在の類比」とスコトゥスの「存在の一義性」の違いとその変遷の意味が簡潔に紹介されていて、その違いが現在の哲学に差異とか脱構築の理解をもたらしてることである。そのことを昨年11月20日付のこの覧で紹介した。ヘーゲル研究者の大村晴雄先生が後年にかけてスコトゥス研究に没頭されていることにより興味を覚える。驚くべきスコトゥスの現代性である。

クリスマスが単にキリストの誕生のお祝いであれば、一ヶ月前に済んだことである。次の誕生日を待つだけである。フィリップ・ヤンシーは受肉の意味が年が明けても続いているという。被造物の回復の始まりであり、新天新地のためのさらなる契機であるからである。キリストが肉をとってくださったことで、肉のおいて無力になった私たちを、また肉そのものである被造物を回復するためであった。肉を持つすべてのものの全く新しい世界への道行きである。

12月末のイクイッパー・カンファレンスの主題が「和解」であった。義認論はその対象が人間だけになってしまい、私たちの信仰と理解だけが関心の的になって精神性のキリスト教を作り上げてしまう。それに対して和解論の対象は万物であって、被造物の回復、新天新地を求めることになる。身体性のキリスト教である。

肉のおいて病を負い、途切れることなく痛みを抱えている。心の傷も肉の襞に食い込んでいるかのように身体が痛む。肉体は疲れを覚え、老いを避けることができない。からだのどこかにうめきがあり、どこかから叫びが出てくる。ただ、からだの贖われるのを待ち望んでいる。神の子とされ、神の宮に住むことを渇望している。新天新地を望み見ている。そんなうめきががどこからともなく響いている。そんな叫びが新しい年にも聞こえてくる。

 

上沼昌雄記

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