「新天新地」2008年1月28日(月)

ウイークリー瞑想 

フィリップ・ヤンシーのコラムを基にして「継続的受肉論」を書きました。「新天新地」という表現を何度か使いました。使いながらその「新天新地」という表現を教会で最初に見た時のことを思いだしていました。教会に初めて入ってその講壇の上に「新天新地」という掛け軸が掛かっていたのです。講壇の上と言っても、講壇のうしろの壁の上ではなくて、会衆が座っている会堂の上で、ちょうど講壇の上になっていました。

1961年のまさにクリスマスの日に信仰の決断をしました。その前6ヶ月ほど故郷前橋でまだ活動をしていた宣教師たちのバイブルクラスに通っていました。上州の地を開拓したバーネット宣教師の名を取ってバーネット館と呼ばれていました。当然英語を学ぶために誘われていきました。ヨハネ伝の学びでした。イエスの「私は道であり、真理であり、いのちです」という表現に、「天上天下、唯我独尊」と真理は向こうにあると言ったお釈迦様とは明らかに違っていることに心が動かされて、信仰に導かれていきました。その日の夜に教会でクリスマスの祝いがあるというので初めて教会に行きました。母教会の前橋キリスト教会でした。

当時の舟喜隣一牧師の説教を聞く度に、その上に掛かっていた「新天新地」の掛け軸をみていました。よく見ると一箇所破れがありました。どなたが書かれたのか確認したこともありません。隣一牧師の恩師の牧師なのだろうと勝手に思っていました。神学生で夏休みに会堂の大掃除をしながらも「新天新地」の掛け軸には何か厳粛なものを感じて手を出せないでいました。会堂が新しくなってもどこかに飾られているような印象を持っています。

講壇の上の「新天新地」の掛け軸を思い出しながら、隣一牧師を指導した教職者のなかには「新天新地」への信仰が鮮明に活きていたのではないのかも知れないと、いま勝手に想像しています。初代教会は救いの完成を新天新地にみていました。そのための受肉とみています。罪によって損なわれたのは神の創造です。肉であり、造られたものすべてです。御子は造られたものである肉を取る必要がありました。隣一牧師が属していた教団の指導者のなかにはそのような理解があったと聞いたことがあります。

十字架による贖いと義認が、福音派の救済の理解の主流になっています。義とされた後の聖化が気になります。聖化の後に栄化を考えます。そのように聖書も教えています。それでもよく考えると、それは救いを自分のこと、人間のことに限定していることが分かります。信じている自分の心の動きだけが問題になります。教えられたとおりにならない自分を責めます。そのように牧師は信徒を責めます。道徳的なキリスト者になります。意識過剰の信仰者になります。

どのように信仰的に正しく生きていても、なお肉の痛みを避けることができません。何かが崩れていくかのように、何かが異常に発生しているかのように体の異常を来します。自分でなくても家族に現れてきます。それで心の痛みもを負います。それがまたからだを苦しめます。肉の終わりを誰もが予兆として感じています。「それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と言われたことを誰も避けることができません。沈黙の響きのようにどこからともなく届いてきます。

いま理事の方のオフィスの一角で書いています。窓の向こうはこの街の新しい墓地です。傾斜地にあり墓地を毎日見上げています。ときどき埋葬式がなされています。毎日のように墓地を訪れる人がいます。この方の息子さんが隣で働いています。2年前に脳腫瘍の手術を受けました。同じときに妻も入院をしていました。妻がこのオフィスに訪ねてきたときに、この息子さんと妻は病院からの帰還を互いに喜んでいました。可愛い女の子とお父さんです。そしてしんみりと言いました。再発の不安を抱えながら窓の向こうをみると墓地があり、自分もいつかはそのようになるのだろうなと。

「キリストの深い傷を探し当てる」作業をしている友がいます。骨髄の検査を控えている牧師がいます。厳しい試練のなかにいます。キリストがそんな私たちの肉の弱さを知っていて、私たちと同じようになって下さいました。私たちの痛みを引き連れて十字架にかかってくださいました。十字架の向こうにある希望をご存じでした。肉のからだから霊のからだによみがえりました。そして「新しい天と新しい地」(黙示録21:1,2ペテロ3:13)を備えてくれました。

初代教会で理解されていた新天新地への憧れは、歴史的・地理的には東方ギリシャ正教会に受け継がれました。西洋でも中世にスコトゥスにも受け継がれていたことを知りました。両方とも、フィリップ・ヤンシーが言われるように、正統として認められてきました。むしろプロテスタントでは義認論のために偏りがありました。和解論を同じように視点に入れて調和を計るときに来ています。難しい作業です。

舟喜隣一牧師は復活の説教をしながら召されていきました。講壇の上に掲げられていた「新天新地」をしっかりと望み見ていました。新天新地に招かれるように召されました。キリストを通しての約束はそこにあるのです。「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17)

たとえこの地上での歩みが弱く、足らないものであっても、からだの贖われることを慕い求めることができます。キリストが肉をとり、十字架の苦しみを負い、死者のなかからよみがえってくださったことが、私たちを新しい天と新しい地に引き入れよとしているのです。むしろ、なんとか引きずり込もうとしているのです。肉体は衰え、体は痛みを抱えます。すでに墓地に片足を入れているようなものです。しかし、御子を通してなされた神の約束が、私たちを全く別のところに引き連れてくれます。下降していく流れより、上昇していく流れに引き入れられています。闇のなかに引き込まれる力より、光へと引き出される力を受けています。とんでもない時間と空間の軸のなかにいるのです。

 

上沼昌雄

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