「その耳は遠く」2008年2月18日(月)

ウイークリー瞑想 

過ぎる土曜日の昼に、秋田大学医学部の耳鼻科教授の石川医師と、カリフォルニア大学デービス校医学部耳鼻科のブローディ教授と私たち夫婦と、みくにレストランで、レストランの創業者の荒井牧師を交えて、またご好意をいただいて会食のときを持ちました。石川医師の紹介でブローディ教授を通してルイーズのために専門医を紹介していただいたという経緯があります。

耳鼻科というと耳を見たり、鼻の穴を見たり、喉を見たりというイメージしかないのですが、医学部の耳鼻科でしていることは、首の上からの喉と顔に掛かるすべての手術をするということです。石川さんがいくつかのスライドを見せてくれましたが、脳と顔面近くを切り開いていく大変な手術です。

    石川さんは前日にブローディ教授のされた手術に立ち会われたということで、ルイーズが興味を持ってどのようなものなのか尋ねました。耳のうしろから切り開いて人工内耳を植え付けて、聴力を回復するものと言うことでした。実際には以前とは同じようには響いて来ないということですが、ともかく患者さんはもう一度聞くことができるようになって大変感謝をしていると言うことでした。

    その話の続きで、聴力を失うことが人を非常な孤独の世界に陥れることになると言われました。特にそれまでは聞こえていたのですが、突然聞こえなくなると絶望の淵に滑り落ちるように、外界とは切り離されてしまうと言うことです。視力を失うのとは違った孤独感を経験するというのです。精神的な閉塞感が襲って来るというのです。見えていてもコミュニケイトできない心理的なダメージを受けるというのです。

    ただ感心して聞いていたのですが、霊的な世界にも当てはまるような気がしてきました。拙書『夫たちよ。妻の話を聞こう』を書いて以来、聞くことの霊的な意味を考えるています。「聞くことと聴くこと」いう項目も書きました。物理的というか、身体的というかともかく聞いていても、心理的、霊的には聴いていないのです。聞いていても聴いていないのです。聞けても聴けないのです。

    ともかく妻の話を聞くことは大変なことです。そのような本を書いたからといって大丈夫ではないのです。いつも苦しんでいます。石川さんご夫妻は大変ユニークなコミュニケーションをされます。そのことをルイーズに話していたので、会食後車のなかで、私たちの家でお茶を飲みながら、ご主人の立場からの意見を伺うことができました。どこかで完全に信頼しあっていることが分かります。繕っていないのです。破れているのです。

    妻の話を聞くことは、どこかで子供の心を聴くことになり、それは神の声を聴くことに通じているのだろうと思わされています。それでまさに、神の声を聴く聴力を失っていて、霊的に閉塞感に陥り、心理的に孤独のなかに落ち込んでしまっていることがあるように思えてきました。神の声が聞こえないので、自分の世界で空回りをしているのです。事故で聴力を失ってしまった男性が、その脇で奥様が何を話しても通じないでいると夫婦の断絶を経験すると言われました。神様が語っていても聞こえなくなって、断絶を経験するのです。一度は確かに聞こえたので信仰を持ったのですが、どこかで聞こえなくなってしまうのです。知らないで自分だけの世界に入り込んでしまいます。独りよがりになり、空回りをしてしまいます。恐ろしいことですが起こります。霊的聴力喪失です。

    イエスの種蒔きのたとえがあります。弟子たちがその意味を尋ねています。たとえは分かりやすくするために用いられます。それなのに、なおその意味を尋ねるというのは何とも不可思議なことです。それでもイエスはその意味を説明します。その折りにイエスがイザヤ書を引用しながら言います。「あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決して分からない。その民の心は鈍くなり、その耳は遠く、目はつぶっているからである。」(マタイ13:14,15)

    聖書を読んでいても、聖書の話を聞いていても、また、たとい聖書のことを語っていても、神の声を聞いていないことがあります。筋道としてはあり得ないことです。聖書は神のことばです。それを読むことは神のみこころを知ることです。それでも眼で読み、頭で考えても、聞いていないことがあります。聞くためには目を閉じ、頭を空にして、耳を澄ませて聴いていかなければなりません。聞くことより自分の筋道で結論を出してしまいます。聞くことより論理の筋道で答えを出してしまいます。結論も答えも出ないときがあるのです。

    聞くことは、自分を空しくすることです。聞くことは、心が静まるのを待つことです。聞くことは、心を聴くことです。聞くことは、心に響いてくるかすかな音に耳を傾けることです。聞くことは、信頼することです。聞くことは、待つことです。聞くことは、期待することです。聞くことは、信仰の深奥です。

 

上沼昌雄記

広告

コメントを残す

以下に詳細を記入するか、アイコンをクリックしてログインしてください。

WordPress.com ロゴ

WordPress.com アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Twitter 画像

Twitter アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Facebook の写真

Facebook アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

Google+ フォト

Google+ アカウントを使ってコメントしています。 ログアウト / 変更 )

%s と連携中