「大村晴雄先生の『近世哲学』を読む」2008年6月23日(月)

神学モノローグ
 今回の日本訪問で果たせなかったことがある。97歳になられた大蔵
晴雄先生を訪ねることができなかったことである。いま住まわれている
宇都宮は新幹線で何度か通過したが、停車して訪ねていく余裕がなかっ
た。次回には何としても伺いたい。

 ただ一昨日は先生の『近世哲学』を、多少時差ぼけと闘いながら、一
気に読むことになった。1974年に改訂された以文社刊の前の195
4年に小峰書店から出されたオリジナル版で読んだ。それは、大学で哲
学を学んでいたときに、当時都立大学の哲学の教授をされていた先生か
ら寄贈されたものであった。「上沼昌雄君、我らは御霊により、信仰に
よりて希望をいだき、義とせられるることを待てるなり。1968・
4・15 大村晴雄」と記されている。

 今回日本でふたつの牧師セミナーを持つことになった。その折りに、
福音主義神学が拠って立っている聖書理解に、近世哲学の骨子であり、
その集大成である啓蒙思想の理性の自律がどのように影響しているのか
語り合った。聖書が神のことばであり、絶対的であることは福音主義の
旗印としてその通りであるが、釈義をしてその結論を出し、そこに筋道
を見つけて、神学として体系立てていくときに、そこには論理性と斉合
性が求められる。聖書がそこまで言っていないことでも論理で結論を出
していく。その上にさらに論理で体系化していく。その結果、聖書を拠
り所にしていながら、それぞれの教派の神学が成り立ってくる。論理的
にはその神学が最高になる。超教派を建前にしているところでも方向は
同じである。

 啓蒙思想をそのままキリスト教に適用したのが自由主義神学である。
福音主義神学はこの自由主義神学に対して聖書の絶対性を養護してき
た。それ自体血の滲むような闘いであった。そのような流れの中で信仰
を持ち、哲学をし、神学をしてきた。創造論、三位一体論、義認論、終
末論としっかりとしたものをいただいてきている。と同時に、福音主義
神学が自分たちの立場を養護するために用いてきた筋道に知らないうち
に啓蒙思想が入ってきているのではないかと思う。特に福音主義神学の
認識論、すなわち、聖書を理解するこちら側の理性の自律にある啓蒙思
想の残滓をみる。聖書がそこまで言っていないことに理性によって、す
なわち、論理性によって結論づけてしまうことになる。

 そのように体系づけられた神学、具体的にはそれぞれの教派の神学は
あくまでこちら側の作業である。人間の業である。しかし神学と聖書と
がひとつになって、今度はその神学で聖書を読むことが絶対化して、そ
れ以外の聖書理解を排除していく。理性の自律、論理性を基盤にしたと
きには当然のこととなる。聖書の解釈の多様性は否定され、牧師の、あ
るいはその教会の、その教派の聖書理解が絶対になる。

 今回の日本の滞在の折りに、牧師が教会を駄目にしてしまうケースを
耳にした。私たちが通っているフォレスフィルの小さな教会でも経験し
てきた。そのどこかに自分の聖書理解を絶対化できる神学がある。それ
が福音主義神学に秘かに入ってきている啓蒙思想の影響のように思え
る。それで大村先生『近世哲学』を読んでみたくなった。随分前に読ん
だ。神学校で教えていたときに参考文献として、実際に以文社から取り
寄せて使ってきた。

 近世、それはアリストテレスを取り入れて築いた中世のスコラ神学、
すなわち、トマスの神学から理性を自律させていくプロセスであった。
中世後期のドゥン・スコットスにその萌芽があり、ルネッサンス、宗教
改革で花を咲かせ、啓蒙思想でその実を結んでいくものである。当然キ
リスト教と哲学が深く絡まっている。その展開を簡潔に紐解いてくれる
のは、キリスト教徒であり近世哲学史専門である大村先生のなせること
である。ただの近世哲学史では見ることができない。ルターの中に後の
ルター主義として体系化されていく隙間を持っていたと言う。すなわ
ち、プロテスタント・スコラ主義である。福音主義神学の論理化の道で
ある。体系化であり、それは固定化の道でもある。

 福音主義神学に自己検証の能力が残っているとするならば、拠って
立っている聖書理解に潜んでいる啓蒙思想の残滓の除去である。何が残
るのか。厳しい作業である。啓蒙思想に寄りかかっていたら、聖書理解
にしても、教会生活にしても分かりやすい。論理性を明確にするだけで
よいからである。その残滓を取り除いたら何がそこで出てくるのか。聖
書はなくなることはない。その意味では信仰もなくなることもない。む
しろ聖書が生きてくる。信仰が生きてくる。

 日本にはモダン、すなわち、近世もないので、ポスト・モダンもない
と言われた大村先生の言葉が耳に残っている。それでも借り物としての
モダンはある。科学技術に導入され、福音主義神学にも導入されてい
る。ポスト・モダンを攻撃している文章に出会う。ただその基盤はモダ
ン、すなわち、啓蒙思想に拠っているように思える。そうだとすれば攻
撃している人の基盤そのものが先に再考されなければならない。厳しい
ことである。

 福音主義神学の再考は始まっている。避けられないことである。この
ままでは固定化するだけでなく、形骸化をもたらす。教会が死んでしま
う。信徒が苦しむだけである。福音主義神学は生きていかなければなら
ない。教会を生かしていかなければならない。

上沼昌雄記

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