「観想カルメル会女子修道院・訪問記」2008年7月28日(月)

神学モノローグ:番外編・つづき

 ユダヤ人女性哲学者で後にカルメル会修道院に入り、そのままアウ
シュビッツの煙となったエディット・シュタインのことを書いた。遺稿
が十字架の聖ヨハネについての研究であった。それでまた十字架の聖ヨ
ハネの書物を確認することになった。『暗夜』というタイトルの本があ
る。その後に『霊の賛歌』という本が続いている。神の栄光の賛歌に至
ためにどうしても通らないといけない暗夜のテーマである。

 十字架の聖ヨハネは、アビラのテレサとともに、16世紀にカルメル
会修道院の改革を試みた。時代的に明らかに宗教改革に刺激されてい
る。読む本がカトリックの関係の視点で書かれているために、そのよう
な言い方をしない。しかし、どう見ても宗教改革の影響を受けている。
それなりに厳格な修道院のなかにも歪みや退廃が入っていた。その改革
の試みのゆえに十字架の聖ヨハネは仲間から投獄の憂き目にあう。

 京都の宇治にあるカルメル会修道院の「黙想の家」を使って、過去4
回牧師のセミナーをさせていただいた。友人の牧師が呼びかけてくだ
さって、その施設をお借りして自分たちのセミナーを持つことができて
いる。住宅街から小高い丘の上に入った林の中にこの修道院と黙想の家
がある。街の喧噪を忘れさせる静かさが漂っている。早朝にミサに参加
することもできる。

 そんなことを思い出しながら、この近くにもカルメル会修道院がない
かどうか調べてみた。いまはインターネットで検索できる。驚いたこと
に私たちの行っている教会のあるフォレストヒルという街から、川を挟
んだ向こうの峰のなかに女子修道院があることが分かった。ジョージタ
ウンという街で、同じようにかつての金鉱の町である。一連と続くシエ
ラ山脈の麓である。木々に囲まれているが、毎年のようにどこかで山火
事に遭っている。そんな山並みにひっそりと修道院が建っていることが
分かった。

 連絡先として電話番号があったので電話をした。観想を大切にしてい
るので電話に出られません、メッセージをお残しくださいという返事で
あった。何度か試みたが同じようであったので、十字架の聖ヨハネの本
を読んでいている旨を伝えてメッセージを残した。夕方返事があり、毎
朝8時にミサがあり、引退した神父が敷地内に住んでいるので話もでき
るというので、伺うことにした。

 それで過ぎる土曜日の朝に、一度川に降りて、また登っていく山道を
1時間近くドライブして伺った。10分ほど前にチャペルに着いた。す
でに7,8人の人が座っていた。地元の人たちなのであろう。時間に
なったので美しい女性の斉唱が聞こえてきた。しかし、修道女たちの姿
が見えない。宇治では一緒に座っていた。神父は祭壇の一方の壁に向
かって話をしている。壁の一部が鉄格子で仕切られている。それに窓が
ついていて開いている。その向こうに修道女たちがいることに気づい
た。しかし見えない。修道女たちは外との接触を一切断っているのであ
る。

 ミサのあとに神父と話ができた。話をしているうちにこの神父はカル
メル会の神父ではないという。別の会派に属していてケニアに伝道活動
をしていたという。引退してここに住みついてミサを執り行っているだ
けだという。そんなことができるのだと多少驚いた。修道女たちとは全
くと言って接触がないという。修道女たちは病気の時以外は修道院から
出ることはない。確かに敷地内にもうひとつ鍵のかかっている扉があ
る。その向こうで祈りと瞑想と観想の時を持っている。そのようにして
一生を修道院で送っている。

 19世紀にフランスのカルメル会修道院で15歳から24歳までの9
年間をただ修道院で過ごし、結核で召されたたリジュのテレーズと言う
人がいる。この人のおかげでその扉の向こう、鉄格子の向こうの様子を
知ることができる。彼女が修道士としてめざましい進歩を遂げたため
に、そのことに嫉妬した修道院長からの嫌がらせ、虐めに遭うことに
なった。しかし、それはキリストに仕え、キリストと同じものに変えら
れるための試練として受け止めて、さらにより高い霊的な状態に達して
いった。そんな自分の心のなかのことをノートに書き留めていた。

 その手記が死後、同じ修道院にいた実の姉妹たちによって公にされ
た。それはフランスのカルメル会の人たちだけでなく、全世界の人たち
に驚くべき霊的なこととして受け入れられてきた。清水書院の「人と思
想」シリーズのなかでも取り上げられていて、日本でも一般にも紹介さ
れている。

 心のことは、自分の心と向き合えば、それは闇である。自分のことし
か考えていない自分、人への怒りをどこかにひっそりと閉じこめている
自分、こんな人生ではなかったと恨んでいる自分、いつか億万長者に
なったらばと思っている自分、そんなどうにもならない自分に縛られて
いることを呪っている自分、キリスト信じていてもどこかでいつも古い
自分が出てくる自分、そんな自分は闇のなかである。

 心の闇は、光である神に近づくためには、通過しなければならない。
礼拝の形式が異なり、聖書理解が異なり、教会観が違っていても、誰も
が通過しなければならない。そんな自分の心にこの修道女たちは、扉の
向こう、鉄格子の向こうで向き合いながら、キリストに近づこうとして
いる。それを務めとしている。そんな人たちがこの同じ山並みにいるこ
とに多少の畏敬を覚えながら帰途についた。インターネットで、同じカ
ルメル会の男子の修道院がサンフランシスコ郊外のナパの近くにあるこ
とが分かった。そこは外部者も使える施設があるという。どのように使
えるのか調べてみたい。

 上沼昌雄記

「ハイデガーを巡るふたりのユダヤ人女性」2008年7月21日(月)

 ハイデガーの哲学は実存主義神学として大きな影響を与えてきた。第 
一次大戦を経験して、それまでの啓蒙思想の崩壊を経験したヨーロッパ
に、自己の実存のあり方から見直していく哲学の作業が始まった。それ
は神学にまで及ぶことになった。1920年代にバルト、ブルトマンと
共に新時代を担う思想家として登場した。

 1960年代にビートルズを聴きながらハイデガーの哲学書を読み出
した。すでに有無を言わさないで存在している自分の存在をめぐるあり
方に、信仰者として興味を持った。存在の持つ不安感、底知れなさ、ど
うにもならないもどかしさ、そんなことを哲学として聞き入れているハ
イデガーに聞き耳を立てていた。

 自分の存在だけに静かに、じっと耳を傾けて、存在の底まで降りてい
く何とも言えない執拗さに惹かれながらも、底なしの恐ろしさも感じ
た。当然聖書を通して外から語る神の声より、ただ自分の底から湧いて
くる声だけに耳を傾けている。ドイツ人特有な森の奥に入っていくよう
な、魂の底に降りていくような神秘的な響きを持っていた。

 そんなどこに行くのか分からない哲学を語っていたハイデガーが、ナ
チスの台頭を迎えた。大学の総長職と共にナチスに入党する。そんな政
治的なことと実存の探求は関係がないのだろと思った。ところがそれは
哲学の問題であるとユダヤ人哲学者のレヴィナスが言っていることが分
かった。ハイデガーの実存探求を高く評価しているにも関わらず、自己
の存在から抜け出せないこの哲学を、ギリシャ哲学から始まっている自
己完結、自己中心の精神性の延長と見ている。同じ、しかももっと強烈
な自己完結、自己中心のナチに問題なしに組みすることになったと見て
いる。

 タルムードの学者でもあるレヴィナスの哲学をこの数年読んでいる。
ナチ・ドイツでフランス軍の戦争捕虜として生き延びたが、その間出身
のリトアニアの家族、親族をほとんど失ったこのユダヤ人哲学者が、ハ
イデガーの中に見る哲学としてナチを容認する自己同一性のおぞましさ
である。レヴィナスは、自己の外の声に耳を傾けていくことを説く。執
拗に説く。自己の外、それは神にまで通じている。旧約聖書の預言者を
思い起こさせる。

 戦後ハイデガーは沈黙を貫いた。彼のナチとの関わりの文章が多く出
て来ている。釈明も語ることもできなかったかのようである。そんなハ
イデガーの回りには、すでにふたりのユダ人女性が深く関わっていた。
一人はアウシュヴィッツの煙となったエディット・シュタインであり、
もう一人は追われ、逃げるようにしてアメリカに渡ったハンア・アーレ
ンであった。ふたりとも個人的に関わっていたこのユダ人女性のこと
を、ハイデガーは戦後どのように思っていたのであろうか。

 エディット・シュタインは、ハイデガーがフライブルク大学で現象学
者のフッサールの後に教授になるのであるが、その前に助手として活動
する時のその前任者であった。ハンア・アーレントは、ハイデガーが
マールブルク大学で教えていたときに学生として関わった、同時にそれ
以上の関係であった言われている。ハイデガーを巡るふたりのユダ人女
性である。エディット・シュタインは、「ハイデガーの実存哲学」とい
う論文も書いているし、女性では当時大学での職を得ることは難しく、
ハイデガーに個人的に斡旋をお願いしている。ハンナ・アーレントは、
教授と学生という関係を超える関係になってしまったために、ハイデ
ガーのもとを離れ、ヤスパースのもとで論文を書くことになる。

 エディット・シュタインは、すでにフッサールの愛弟子であり、助手
に選ばれている。フッサールの影響で「感情移入の問題」というテーマ
で博士論文を書く。フッサールはユダヤ教からルーテル派に改宗してい
る。エディット・シュタインは、アビラのテレサの『自叙伝』を読ん
で、すでにユダヤ教を捨てているので改宗すると言うより、カトリック
の信仰を持つ。

 大学での職が得られず、女子高校で教えながら論文を書き続ける。ユ
ダヤ人であり、女性であることの難しさを経験する。1933年にヒト
ラーが全政権を掌握すると同時に、カルメル修道会に入る。修道院のな
かでも研究と執筆に時間を割くことを勧められる。トマス神学を現象学
から解き明かす『有限なる存在と永遠なる存在―存在の意味への登攀の
試み』を1936年に出す。

 ナチのユダヤ人狩りが進むなかで、1938年にオランダのカルメル
会に移る。しかし第二次大戦が勃発し、ドイツ軍がオランダを占拠し、
1942年にアウシュヴィッツに移送され、ガス室で殺戮される。

 その間ハンナ・アーレントは、1933年に母と共に国籍なしでドイ
ツを離れ、夜に森を抜けてチェコに逃れ、逃亡支援組織の援助を受けて
パリに到着した。無国籍ユダヤ人である。故郷喪失である。そして19
41年に無国籍のままでアメリカに移る。そんなことができた。アメリ
カでアウシュヴィッツの事実を知り、衝撃を受ける。ハンナ・アーレン
トの後の思想活動を決定づける。まさに『全体主義の起源』を1951
年に刊行する。同じ年にアメリカへの帰化が許された。18年間の無国
籍状態がようやく終わる。

 政治哲学を大学で教えながら、著作活動を続ける。レヴィナスとは
違った視点で全体主義を引き起こす人間、政治の問題を問い続ける。1
961年からアイヒマン裁判の傍聴に出かけ、『イェルサレムのアイヒ
マン』を1963年に刊行する。1975年に心臓発作で自宅で死去す
る。その間ハイデガーに再会している。

 エディット・シュタインには戦後はない。ただの物質として煙として
収容所で消えていった。彼女が書き残したものは残っている。ゲシュタ
ポに連れ去られた後に修道女たちが見つけたのは遺稿『十字架の学問―
十字架の聖ヨハネについての研究』であった。「十字架の学問」は「十
字架学」とも訳されているが、それはイエスの十字架の道行きとの一体
感の修得である。それを十字架の聖ヨハネを通して彼女自身が体験して
いる。その後の死をすでに受け入れているかのような体験である。死の
先取りである。

 エディット・シュタインは殉教者なのか、ユダヤ人であったために亡
くなったのかという議論はありながら、パウロ・ヨハネ2世は1987
年に福者に列し、1998年に聖人に列した。パウロ・ヨハネ2世自身
の神学論文が十字架の聖ヨハネの研究であった。先に紹介したことのあ
る熊野純彦氏が岩波新書の『西洋哲学史』で、フッサールの晩年に触れ
ながら、「終生の愛弟子、資質に恵まれた女性、E・シュタイン
は、強制収容所でただの物質に還元される。」と一言付け加えている。
その意図を伺ってみたい。

 現象学を取り入れながら自己の実存を日常性のなかで捉えていくハイ
デガーの哲学は、後の時代の先取りであった。60年代のヒッピーの先
取りであった。ポスト・モダンの先取りであった。今誰もが感じながら
生きている存在の不安の先取りであった。その意味で、ハイデガーの哲
学は避けて通れない。

 しかしそのハイデガーが、歴史の動きになかでは波に流されていただ
けの印象も避けられない。戦後の沈黙のなかで、このふたりのユダヤ人
女性の行く末をどのように思っていたのか知るよしもない。私たちも、
それは哲学とは関係ないことだとは切り離して終わりにすることができ
ない。レヴィナスが執拗に問いかける。ハイデガーの哲学はどうして
ノーを言えなかったのかと哲学として問う。ハイデガー個人を攻撃して
ない。哲学のまさに自己批判をしている。同じことが起こらないという
保証はない。個人攻撃では解決がない。基本的な姿勢に関わる。自己の
存在を、他者の存在をどのようにとらえるのか、その基本姿勢が問われ
る。それは当然日本の教会にも関わる。

 上沼昌雄記

「アブラハムとイサク、父と子」2007年7月15日(火)

ウイークリー瞑想

 信仰の旅が自分を出て、決して出て来た故郷に戻るのではなく、ただ
向こうにあるよりすぐれた故郷を求めるものであることを、アブラハム
の旅は語っています。戻ることができるものであったらどこかで旅を止
めてしまうことも、その場で落ち着くこともできます。それでも、一見
それなりの信仰者としての恵みをいただいていることになります。そん
な妥協もしたくなります。

 家の相続人をいただくことはそんな妥協にもなりかねません。いただ
ければ自分の使命や意志を子にゆだねることができます。現実にはどう
見てもそんな可能性はありません。どんどん歳をとっていくだけです。
ダマスコのエリエゼルでも構いませんと言いたくなってしまいます。

 そんなやり取りの後に、主はアブラハムを外に連れ出して天の星を見
せるのです。アブラハムから出る子孫の約束です。彼はそれを信じまし
た。それで義と認められました。しかし、それで終わっていないでやり
取りが続きました。それに疲れたかのようにアブラハムは深い眠りに陥
りました。そしてひどい暗黒の恐怖に襲われたのです。そのなかで、自
分の子孫が後に遭遇するエジプトでの400年の奴隷状態とそこからの
出エジプトの予告を聞くのです。

 そんなことがありながら、さらに信じて義とされたことも忘れたかの
ように、妻の女奴隷を通してイシュマエルをもうけるのです。アブラハ
ムはどうしたのでしょうか。それでも神の約束は変わることなく、約束
の子イサクをいただくのです。ただそんな約束を笑ってしまっているの
です。ともかく何とか相続人をいただくのです。

 アブラハムは、これで大丈夫と思ったかも知れません。そう思いたく
なります。今度はそのイサクをささげるように神は言うのです。言われ
たアブラハムは何を思ったでしょうか。何も記されていません。ですか
ら想像する以外にありません。ただいろいろな思いが去来したことは想
像できます。アブラハムのこの沈黙をどのようにとらえるのかは、多分
私たちの信仰の姿勢にも関わるのでしょう。

 ともかくアブラハムはイサクをささげたので、もう一度取りかえした
のです。すでに自分のものではないのです。自分の跡継ぎでありなが
ら、自分のものではないのです。イサクの嫁探しの話が続きます。決し
て出て来た故郷に連れて行ってはいけないと、しもべにはっきりと命じ
るのです。イサクも父アブラハムの出て来た故郷には戻れないのです。
ただイサクの妻はアブラハムの故郷から連れて来られるのです。

 アブラハムの旅は、出て来た故郷に決して戻らないで、示された地に
向かっていく果てしない旅です。子がそれを引き継いでいきます。旅の
バトンを引き渡していくことです。イサクがバトンを引き継いで旅を続
けていくのです。結果的にはそれでことが進んで、目出度しとなりま
す。しかしその引き渡しは、単純な連続ではなく、むしろ綱渡りのよう
な引き継ぎです。

 アブラハムにとってイサクは、子でありながら子でないかのようで
す。ただ信仰によって与えられた子であり、信仰によってささげなけれ
ばならい子でした。自分の子でありながら、どこかで神の子です。自分
の手を出せない、超えた存在でもあります。それでも、イサクの妻は自
分の故郷から連れてこなければならないと分かっていました。子に対す
る父の責任でした。

 アブラハムはひとり子であるイサクをささげるように言われたとき
に、父親である意味を知らされたかのようです。子であっても自分のも
のではなく、それでいて自分に与えられた旅を引き継いでいく相続人な
のです。子であるので、自分の旅を引き継いでくれるのですが、子であ
るのでまたそれは自分のものとは異なった旅の始まりとなるのです。

 子は父の子でありながら、父とは異なった旅を始めるのです。そうす
ることで子であることを知るのです。父は子に旅のバトンタッチをして
も、単なる繰り返しではなく、新しい旅が展開されることで父であるこ
とを知るのです。新しい旅に何が起こるのか知ることもできません。自
分以上の困難に遭遇するかも知れません。脇道にそれてしまうかも知れ
ません。挫折してしまうかも知れません。それでも父は手を出せないの
です。

 子孫が異国の地で400年の奴隷状態なることの予告を思い出しま
す。ただ心に留めておくだけです。すでに子の旅は始まっています。そ
んな未知の旅へのバトンタッチをすることで父親であることを確認しま
す。それはどこかで、ひとり子である御子を遣わした父なる神に思いを
馳せることを許してくれそうです。

 上沼昌雄記

主にある友へ

暑いなか続いてお励みのことと思います。私たちも守られております。 
ただ山火事の煙の中で生活をしています。3週間ほど前に落雷がありま 
した。カリフォルニア州全体で8000の稲光があり、そのうち150 
0の落雷、発火となり山火事が発生しました。今ではいくつかの山火事 
がまとまりとなって大きなものになっています。その数は300以上と 
言っています。教会のあるフォレストヒルの山奥にもそのような山火事 
が発生しました。その煙が降りてきています。暑いのですが窓を開けら 
れないので熱風の中で生活をしています。それでも守られています。

今年は3月にほとんど雨がありませんでした。そのためにいつもより乾 
燥しています。火がついたらいつでも燃え上がる状態です。落雷で一気 
にあちことで燃え上がってきました。私たちのところから北に150キ 
ロ行ったところにパラダイスという町があります。いまその町に迫るよ 
うに山火事が押し寄せています。消防隊は全力をそこに注いでいます。 
フォレストヒルの山奥の火事は今は人家への心配もないことで動きを見 
守っているようです。まさに風の動きでどちらにも山火事は動いていき 
ます。

「超えているもの」で書いたのですが、3月雨が降らなかったことも、 
落雷で山火事が起こったことも、私たちの力を超えたことです。いつで 
もどのようなことでも、私たちの生活、存在が外の力で脅かされ、驚か 
されています。その力がどこから来ているのか私たちは知っています。 
その意味は必ずしもいつでも明確ではありません。驚きと不確定性の現 
実のなかで生活をしています。煙の中に沈んでいるオレンジ色の太陽を 
見ながらそんなことを思っています。

一昨年闇のテーマで原稿を書きました。どうやらこの秋にはいのちのこ 
とば社から出版の見込みです。ようやく闇が表に出てこられそうです。 
つぎの雑誌「いのちことば」に広告がでるようです。9月の半ばから1 
1月にかけて日本での奉仕を予定しています。その時日本の紹介と販売 
ができればと願っています。

皆さまの上に続いての祝福をお祈りいたします。
感謝とともに。上沼昌雄 2008.7.11

「オデュッセウスとアブラハム」2008年7月8日(火)

神学モノローグ

 ギリシャ神話の英雄でイタカの王であるオデュッセウスと、旧約聖書
の信仰の父と言われるアブラハムのことである。一方はトロイア戦争に
加わり、有名なトロイの木馬で勝利に導くが、またそのために故郷イタ
カに大変な苦労をしてようやく帰り着いた物語であり、他方は故郷をで
て、出て来た故郷に決して帰ることなく、約束の地をいただきながら異
国人として、寄留者として留まり、そのまま死を迎えていった物語であ
る。ふたつの方向を異にした物語である。

 ギリシャ人の英雄の波乱に満ちた漂流冒険記であり、ユダヤ人の信仰
者の故郷を失った波乱に満ちた旅物語である。ギリシャ人の旅物語と、
ユダヤ人の旅物語である。出て来た故郷に帰っていく旅物語と、出て来
た故郷に決して帰ることがなく、それでいて約束の地にも未だ相続地を
得ることに至らない旅物語である。帰還物語と、進行(信仰)物語であ
る。循環的物語と、線的物語である。ヘレニズムの旅物語と、ヘブライ
ズムの旅物語である。

 帰還物語、それは自己に帰ってくる、自己完成を求めるギリシャ精神
である。己自らを知れというヘレニズムである。進行(信仰)物語、そ
れは自分を出て、自分を犠牲にして出て行くユダヤ精神である。自分を
捨ててというヘブライズムである。自己同一も求める人生観と、自己否
定を求める人生観である。自己満足を促す世界観と、他のために生きる
世界観である。自己主義と、利他主義である。

 このように本来異なった旅の方向を持っているふたつの流れが、西洋
の精神に混ざっているというのである。帰ることのできない旅をしてい
る聖書の民に、あたかも帰ることができるかのような思いが秘かに忍び
込んでいるというのである。信仰(進行)の方向がいつの間にかその先
にではなく、自分に向いてきているというのである。信仰が自己完結の
手段になっているというのである。神も自己完結のための手立てに変
わっているというのである。

 言われてみると思い当たるところがある。確かに自分の人生が何とか
うまくいくように信仰を使っている。そのように祈っている。神をも自
分の目的達成のために使っている。神の栄光と言っても、どこかで自分
の思いや、人生の計画が実現することだけを求めている自分がそこにい
る。実現することが信仰だと思っている。それだけでなく、そのように
聖書を理解し、そのように説教をしている。どうしたらクリスチャンと
してよりよく生きていけるのかというハウツーを求めている。またその
ような本が求められている。

 ギリシャ哲学を取り入れている西洋の神学は、聖書の概念化、神の概
念化、終末の概念化で、自己同一化、自己完結化を求めている。神を概
念化することで理性の体系のなかに神を押し込めている。神の無限性、
超越と言っても、自己同一のなかで理解可能な意味になってしまってい
る。そのように、真理は人間のうちに閉じこめられる。本来神が文字通
りに無限であり、超越であれば、それは人間の概念化をも超えている。
概念化はあたかも神のことが分かったかのような錯覚を与える。大変な
錯覚である。理性の狡智である。

 信仰は、信じているその先にだけ真理があるとみる。そうしたら自己
変革と自己変容しかない。真理は自己完結をいつも打ち破るものであ
る。自己同一を飛び出していくものである。それゆえに、自己は自分を
超えたものにいつも進入され、脅かされ、驚かされる。自分の外から語
りかけるものにいつも耳を傾ける。そのかすかな響きを聞き取ろうとす
る。自分から遠くにかけ離れていながら、どこか自分のすぐうしろから
聞こえてくる声に聞き耳を立てる。そのように、自分がどこに導かれる
のか分からない。まさに信仰である。

 未だ踏み入れたことのない地、未だ見たこともない風景、見知らぬ世
界、想像を超えた空間、そんな在りかを求める心の渇望に気づく。そん
な渇望に促されてでていく。どこに至るのか分からないままに出て行
く。信仰の旅が始まる。それでいて、その先に実は本来求めていた自分
の故郷があることに気づく。出て来た故郷ではなく、心が求めていた故
郷である。それは自分の内ではなく、自分の外である。存在の内ではな
く、存在の彼方である。自分の外に本来の自分を求める。存在の彼方に
あるべき存在を求める。

 オデュッセウスではなく、アブラハムの旅がそれを可能にしてくれる。

 上沼昌雄記

「アブラハムの旅」2008年7月7日(月)

ウイークリー瞑想

 信仰の歩みを「旅」として、ヘブル書の著者が見事に表現していま
す。昔の人々はその信仰によって称賛されています。アブラハムの信仰
はまさに、その旅ということばがそのまま当てはまることでした。生ま
れ故郷、父の家を出て、どこに行くのかを知らないで旅を始めました。
と言ってもひとりではなく、家族を連れ、親族を連れて旅を続けたので
す。当然家族を養い、食べさせなければなりません。異国の王、異国の
民との間で争いが起こり、政治的な策も練らなければなりません。

 約束の地に確かに入っています。ただ他国人として、寄留者として滞
在しているだけです。相続財産として受け継いでいるのではないので
す。家族を葬るための土地を購入しなければなりません。約束は果たさ
れないままで生涯を終えていきます。

 話が前後します。約束の地はそこに子孫の繁栄が当然含まれていま
す。その子孫をいただくためには余りにも歳をとりすぎていました。妻
もそれを知っていました。それで女奴隷を通してイシュマエルをもうけ
ます。それでも祝福を受け継ぐ子孫ではないのです。旅人にしては余分
なものを身に受けることになります。そしてようやくアブラハム夫婦の
笑いを引き起こすかたちで、神の約束は果たされます。イサク(「彼は
笑う」の意)をいただくのです。

 そのイサクをささげることについてさらに言い及んでいく前に、ヘブ
ル書の著者は信仰の人々の歩みを地上での旅人、寄留者と呼んで、その
あり方を美しくまとめています。取りも直さず、この人たち自身が自分
たちを旅人、寄留者と「告白していた」(11:13)と見ています。
それは目指している故郷が、本来自分が求めている「自分の故郷」であ
りながら、それでも「出て来た故郷」ではなく、さらにすぐれた故郷で
あることを理解しているからです。

 信仰は、自分を出ていくことです。出て行って、決して出て来た故郷
に戻らないことです。出て来た自分に返らないことです。それでいて本
来の自分の帰るべき自分の故郷が目指している先にあることを示してい
るのです。それはいつも先にあるのです。よりすぐれた故郷です。天の
故郷です。それでありながら、ただその先を見ているだけで、現実には
その手前でたじろいでいるのです。ですから厳しいのです。

 家族の世話があり、甥のロトとのことで戦いに巻き込まれ、政治的な
やり取りをしなければならず、その上自分は歳をとってきて子孫をもう
けることもできなくなっているのです。もう諦めてどこかで妥協したく
なります。自分を受け継ぐものが自分の子どもではなくて、ダマスコと
のエリエゼルでも構わないと思ってしまいます。それくらいでも自分は
何とか妥協できると思い、それで納得させようとします。しかし旅はそ
れを許しません。留まることができないのです。妥協ができないのです。

 もういい加減旅を終えて落ち着きたいのです。結構人生でいろいろな
ことをしてきたのでこの辺で退いて、落ち着いた生活に入りたいので
す。確かに、出て来た故郷に帰ることが旅の目的地であればそれは考え
られます。しかし、そうはできないのです。旅は終わっていないので
す。次に進んでいかなければならないのです。その先にいつも目指すべ
き目標があるのです。

 うんざりしても、挫折しても、怪我をしても、病気になっても、次に
進まなければなりません。約束のものはいつもその先にあるからです。
また今いただいていることが信仰の結果と言えないのです。仕事でも奉
仕でもそれなりの成果を見ることができても、それが信仰の結果と言え
ないのです。そう思った途端旅は終わってしまいます。信仰は死んでし
まいます。その先にあることを見ていることだけが信仰のしるしなので
す。

 約束の子であるイサクが与えられたので、それでホッとしたいので
す。これで自分の人生は大丈夫と思いたいのです。そんな思いを打ち砕
くように、その子をささげるように神は言うのです。示されたモリヤの
山に行くまでの3日間アブラハムは沈黙を守りました。何か信仰の厳し
さと重みに耐えているかのようです。自分のうちには決して留まれない
で、最後の最後まで出て行かなければならないのです。信仰の旅の厳し
さです。

 上沼昌雄記

「超えているもの」2008年7月1日(火)

神学モノローグ

 日本に滞在している折りに岩手・宮城内陸地震に朝方遭遇した。山を
越えた西側の山形県にいた。いつもの横揺れであった。その一週間ほど
前にその滞在していた村山市を震源とする縦揺れの地震にも夜遭遇し
た。一緒に聖書を読んでいたときであった。大きな地震にいつでも遭遇
してもおかしくない状態である。

 地震の国を後にしてカリフォルニアに戻ってきてホッとした気持ちが
あった。しかし10日ほど前に落雷があり、私たちのところから以北を
中心に山火事が発生した。カリフォルニア州全体(日本の面積とほぼ同
じ)で400カ所で燃えていると言われたのが、日を追う毎にその数か
増し、700カ所になり、昨日のニュースでは1400カ所以上になっ
ていた。昨日は事務所のある街から川に下っていったところが数時間燃
えていた。

 煙が入ってきて外での活動ができない日が続いている。窓も開けるこ
とができないので寝苦しい夜を過ごしている。7年前の家の近くの山火
事を思い起こした。それこそいつでも起こりうることである。3月にほ
とんど雨がなく、今年はすでに乾きに乾き切っている。

 昨晩は寝付いてからからだに蟻がはっているようであったので、灯り
を付けたらば、壁の上の隙間から何を目当てにしているのか分からな
かったのであるが、壁に蟻の通り道を作って、ベットのうしろに降りて
きていた。1時間ほどかけてきれいにした。前にも台所以外の家の数カ
所にそのように蟻が入ってきたことがある。自慢でないが、蟻の通れる
隙間はどこにもある。外と通じている。

 自分たちの生活が地震で揺さぶられ、山火事の危険にさらされ、蟻の
進入に驚かされている。家に戻ってきたときに近所の人から、大きな熊
がゴミを荒らしに来、マウンテン・ライオンを目のあたりに見た話を聞
いた。ミシシッピー川が氾濫して多くの家が水浸しのニュースを聞いて
いる。ミャンマーでのサイクロンの被害、中国四川州での大地震の被害
を聞いたばかりである。私たちの生活が自然の威力に脅かされている。

 先週の記事で近世の思想の骨子であり、集大成である啓蒙思想のこと
を書いた。理性の自律で自然のメカニズムを解明して、それを生活に用
いていく精神である。自然科学と技術社会への貢献をしてきた。まさに
自然からも守られているモダンな生活体系を作ってきた。この記事を書
いているコンピュータのシステムもその結果である。今では抜きにして
は考えられなし、生きられない。

 しかしこの啓蒙思想が聖書に向けられているときに、自由主義神学で
なく福音主義の聖書信仰に対しても、理性の自律が万能の力を発してい
る。釈義を通して聖書の原則を見いだし、その筋道を見極め、体系づけ
ていくことで神学を形成していく。知的了解のなかで聖書が明確化され
ていく。神論として神の本質と属性を説いていく。あたかもそれが聖書
の神であるかのように理解していく。聖書の神が、神学の概念と体系の
なかに押さえ込まれていく。聖書をよりよく理解できたと思い、思い込
ませていく。

 聖書が教えるクリスチャン生活、聖書が教える教会生活、聖書が教え
る礼拝、聖書が教える自然科学、聖書が教える生命倫理、と言うかたち
でマニュアル化を可能にしていく。このようにしたらクリスチャンとし
て大丈夫だと教え、このようにしたら苦しみから解放されると教え、こ
のようにしたら問題が解決すると教える。

 そのように回答が与えられ、解決が与えられたと思う聖書の教えと信
仰生活だけでは捉えきれない課題を抱えてきている。そのように声を大
きくしてきた教会や神学校でどうにもならない問題を抱えてきている。
体系のなかに押さえ込もうとしてきたことが、どこかでほころびが出て
来てしまっている。

 聖書の神が、人間による概念化、体系化、マニュアル化を拒否してい
る。神の創造による被造物が、人間による概念化、体系化、マニュアル
化をはみ出してきている。信仰生活で出会うことで、人間による概念
化、体系化、マニュアル化では説明できないことが多くなってきてい
る。概念化、体系化、マニュアル化は、本来人間を超えているものを人
間の中に閉じこめようとする力である。いまその超えているものがそん
な力を打ち破って本来の姿を現してきている。

 超えられないもの、すなわち、もともと超えているものを視点にして
神学ができるのか、本来の神学の問いが問い直されている。啓蒙思想を
取り除いたら、啓蒙思想の残滓を取り除いたら、神学そのものの問い直
しをしなければならない。厳しいことである。地震で揺さぶられ、山火
事の驚異に怯え、蟻の進入に驚かされている。築き上げたと思うものが
揺さぶられている。超えているものが本来の力を出してきている。

上沼昌雄記