「ハイデガーを巡るふたりのユダヤ人女性」2008年7月21日(月)

 ハイデガーの哲学は実存主義神学として大きな影響を与えてきた。第 
一次大戦を経験して、それまでの啓蒙思想の崩壊を経験したヨーロッパ
に、自己の実存のあり方から見直していく哲学の作業が始まった。それ
は神学にまで及ぶことになった。1920年代にバルト、ブルトマンと
共に新時代を担う思想家として登場した。

 1960年代にビートルズを聴きながらハイデガーの哲学書を読み出
した。すでに有無を言わさないで存在している自分の存在をめぐるあり
方に、信仰者として興味を持った。存在の持つ不安感、底知れなさ、ど
うにもならないもどかしさ、そんなことを哲学として聞き入れているハ
イデガーに聞き耳を立てていた。

 自分の存在だけに静かに、じっと耳を傾けて、存在の底まで降りてい
く何とも言えない執拗さに惹かれながらも、底なしの恐ろしさも感じ
た。当然聖書を通して外から語る神の声より、ただ自分の底から湧いて
くる声だけに耳を傾けている。ドイツ人特有な森の奥に入っていくよう
な、魂の底に降りていくような神秘的な響きを持っていた。

 そんなどこに行くのか分からない哲学を語っていたハイデガーが、ナ
チスの台頭を迎えた。大学の総長職と共にナチスに入党する。そんな政
治的なことと実存の探求は関係がないのだろと思った。ところがそれは
哲学の問題であるとユダヤ人哲学者のレヴィナスが言っていることが分
かった。ハイデガーの実存探求を高く評価しているにも関わらず、自己
の存在から抜け出せないこの哲学を、ギリシャ哲学から始まっている自
己完結、自己中心の精神性の延長と見ている。同じ、しかももっと強烈
な自己完結、自己中心のナチに問題なしに組みすることになったと見て
いる。

 タルムードの学者でもあるレヴィナスの哲学をこの数年読んでいる。
ナチ・ドイツでフランス軍の戦争捕虜として生き延びたが、その間出身
のリトアニアの家族、親族をほとんど失ったこのユダヤ人哲学者が、ハ
イデガーの中に見る哲学としてナチを容認する自己同一性のおぞましさ
である。レヴィナスは、自己の外の声に耳を傾けていくことを説く。執
拗に説く。自己の外、それは神にまで通じている。旧約聖書の預言者を
思い起こさせる。

 戦後ハイデガーは沈黙を貫いた。彼のナチとの関わりの文章が多く出
て来ている。釈明も語ることもできなかったかのようである。そんなハ
イデガーの回りには、すでにふたりのユダ人女性が深く関わっていた。
一人はアウシュヴィッツの煙となったエディット・シュタインであり、
もう一人は追われ、逃げるようにしてアメリカに渡ったハンア・アーレ
ンであった。ふたりとも個人的に関わっていたこのユダ人女性のこと
を、ハイデガーは戦後どのように思っていたのであろうか。

 エディット・シュタインは、ハイデガーがフライブルク大学で現象学
者のフッサールの後に教授になるのであるが、その前に助手として活動
する時のその前任者であった。ハンア・アーレントは、ハイデガーが
マールブルク大学で教えていたときに学生として関わった、同時にそれ
以上の関係であった言われている。ハイデガーを巡るふたりのユダ人女
性である。エディット・シュタインは、「ハイデガーの実存哲学」とい
う論文も書いているし、女性では当時大学での職を得ることは難しく、
ハイデガーに個人的に斡旋をお願いしている。ハンナ・アーレントは、
教授と学生という関係を超える関係になってしまったために、ハイデ
ガーのもとを離れ、ヤスパースのもとで論文を書くことになる。

 エディット・シュタインは、すでにフッサールの愛弟子であり、助手
に選ばれている。フッサールの影響で「感情移入の問題」というテーマ
で博士論文を書く。フッサールはユダヤ教からルーテル派に改宗してい
る。エディット・シュタインは、アビラのテレサの『自叙伝』を読ん
で、すでにユダヤ教を捨てているので改宗すると言うより、カトリック
の信仰を持つ。

 大学での職が得られず、女子高校で教えながら論文を書き続ける。ユ
ダヤ人であり、女性であることの難しさを経験する。1933年にヒト
ラーが全政権を掌握すると同時に、カルメル修道会に入る。修道院のな
かでも研究と執筆に時間を割くことを勧められる。トマス神学を現象学
から解き明かす『有限なる存在と永遠なる存在―存在の意味への登攀の
試み』を1936年に出す。

 ナチのユダヤ人狩りが進むなかで、1938年にオランダのカルメル
会に移る。しかし第二次大戦が勃発し、ドイツ軍がオランダを占拠し、
1942年にアウシュヴィッツに移送され、ガス室で殺戮される。

 その間ハンナ・アーレントは、1933年に母と共に国籍なしでドイ
ツを離れ、夜に森を抜けてチェコに逃れ、逃亡支援組織の援助を受けて
パリに到着した。無国籍ユダヤ人である。故郷喪失である。そして19
41年に無国籍のままでアメリカに移る。そんなことができた。アメリ
カでアウシュヴィッツの事実を知り、衝撃を受ける。ハンナ・アーレン
トの後の思想活動を決定づける。まさに『全体主義の起源』を1951
年に刊行する。同じ年にアメリカへの帰化が許された。18年間の無国
籍状態がようやく終わる。

 政治哲学を大学で教えながら、著作活動を続ける。レヴィナスとは
違った視点で全体主義を引き起こす人間、政治の問題を問い続ける。1
961年からアイヒマン裁判の傍聴に出かけ、『イェルサレムのアイヒ
マン』を1963年に刊行する。1975年に心臓発作で自宅で死去す
る。その間ハイデガーに再会している。

 エディット・シュタインには戦後はない。ただの物質として煙として
収容所で消えていった。彼女が書き残したものは残っている。ゲシュタ
ポに連れ去られた後に修道女たちが見つけたのは遺稿『十字架の学問―
十字架の聖ヨハネについての研究』であった。「十字架の学問」は「十
字架学」とも訳されているが、それはイエスの十字架の道行きとの一体
感の修得である。それを十字架の聖ヨハネを通して彼女自身が体験して
いる。その後の死をすでに受け入れているかのような体験である。死の
先取りである。

 エディット・シュタインは殉教者なのか、ユダヤ人であったために亡
くなったのかという議論はありながら、パウロ・ヨハネ2世は1987
年に福者に列し、1998年に聖人に列した。パウロ・ヨハネ2世自身
の神学論文が十字架の聖ヨハネの研究であった。先に紹介したことのあ
る熊野純彦氏が岩波新書の『西洋哲学史』で、フッサールの晩年に触れ
ながら、「終生の愛弟子、資質に恵まれた女性、E・シュタイン
は、強制収容所でただの物質に還元される。」と一言付け加えている。
その意図を伺ってみたい。

 現象学を取り入れながら自己の実存を日常性のなかで捉えていくハイ
デガーの哲学は、後の時代の先取りであった。60年代のヒッピーの先
取りであった。ポスト・モダンの先取りであった。今誰もが感じながら
生きている存在の不安の先取りであった。その意味で、ハイデガーの哲
学は避けて通れない。

 しかしそのハイデガーが、歴史の動きになかでは波に流されていただ
けの印象も避けられない。戦後の沈黙のなかで、このふたりのユダヤ人
女性の行く末をどのように思っていたのか知るよしもない。私たちも、
それは哲学とは関係ないことだとは切り離して終わりにすることができ
ない。レヴィナスが執拗に問いかける。ハイデガーの哲学はどうして
ノーを言えなかったのかと哲学として問う。ハイデガー個人を攻撃して
ない。哲学のまさに自己批判をしている。同じことが起こらないという
保証はない。個人攻撃では解決がない。基本的な姿勢に関わる。自己の
存在を、他者の存在をどのようにとらえるのか、その基本姿勢が問われ
る。それは当然日本の教会にも関わる。

 上沼昌雄記
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