「大淀の最上川」2008年9月29日(月)

ウイークリー瞑想
 「五月雨をあつめて速し最上川」と詠っている松尾芭蕉が見た最上川 
に惹かれて絵を描いた真下慶治の記念美術館が、山形県の村山市の最上
川が大きく蛇行している大淀と言うところにあります。礼拝の後、三日
間ひとひとと降り続ける雨の中、稲穂がたわわに茂る中をドライブして
立ち寄りました。五月雨ではなく、秋の雨の中をゆったり流れる最上川
を見下ろせる小学校の跡地に美術館は建っています。日曜の午後、そん
な最上川に誘われるように人々が立ち寄っていました。

 その大きく蛇行している脇にアトリエを設けて、表面は静かに見える
のですが、底は結構の早さで流れている最上川をこの画家は描き続けま
した。大淀という地名は、流れが淀むと言うことで付けられたようで
す。その大淀の前後には三難所と呼ばれる岩場の急流があります。ここ
ではそんな流れがゆったりと蛇行しているので淀んでいるように見えま
す。

 展示されている絵も「最上川の四季、冬・秋」というテーマになって
いました。いただいた案内では「四季」なのですが、「冬・春」「冬・
夏」「冬・秋」「冬」となっています。雪の中をゆったりと流れる最上
川にこの画家は魅せられたようです。雪に覆われた大地の中を静かに流
れる絵が数点掲げられています。冬の最上川がこの画家の心に生きてい
ます。

 静かに目を澄ましてみていると、そこに描かれている淀んだ最上川の
淡い緑を幾重にも沈めたような川の色合いに、心が向いていきます。流
れを感じさせる色合い、停止してように見える色合い、その底に引き込
まれるような色合い、川辺の雪に挨拶をしているような色合い、何とも
言えない冬の最上川の淀んだ色彩に心が捕らえられます。そんな深く淀
んだ最上川に魅せられたこの画家の心が伝わってきます。

 「大淀の眺め」という絵があります。いまの美術館のある高台から、
自分の赤い屋根のアトリエを入れてその脇を流れる最上川を描いていま
す。雪に覆われた地を上流からゆっくりと流れ込んでいます。沿岸の
人々の思いと歴史を飲み込んで静かに流れています。連れて行ってくだ
さった方の奥様はこの最上川沿いの村は出身です。その絵の複製を購入
して、泊めていただいている部屋に飾りました。

 その晩、詩篇27篇を三人で思い巡らしながら、それぞれの歩みを静
かに飲み込んでいる神の恵みの流れを、最上川に誘われるように語り合
いました。今は静かな表面ですが、その底にはまだ激流が走っていま
す。それでもそんな底を見ることをそれぞれが由としています。

 「隠れ場」に隠され、「幕屋のひそかな所」に今は隠されています。
そんな隠された深みから主を仰ぐことが出来ます。「私は一つのことを
願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住む
ことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」

 上沼昌雄記

「神の足跡を見た者はいない」2008年9月21日(月)

ウイークリー瞑想
 「苦しみには意味がある!?」というテーマを、今回の日本での最初 
の奉仕でいただきました。担当の福音自由教会でウイクリフ宣教師の松
村先生が拙書『苦しみを通して神に近づく』を読んで、そのテーマの必
要を感じて修養会に招いてくれました。それでその本の基になっている
詩篇77篇をもう一度思い返し、思い巡らすことになりました。修養会
に参加してくださった方々の遭遇している苦しみ、通過した苦しみを、
短い交わりの端々で感じることが出来ました。詩篇の作者と同じ道を歩
まれているのです。

 苦しみのなかでただ神に叫ぶことで生まれる共鳴、その叫びがいまに
でも声となって出て来そうな瞬間、叫び疲れてただ嘆きとうめきが伝
わってくる低音の響き、そんな思いと感覚を共有しながら静かな軽井沢
の一時をいただきました。そしてそんな感覚を持って、苦しみの道をま
とめるように詠っている詩篇の作者の心に思いが向きます。

 神に「なぜなのですか」と問いかけていた心が不思議に、自分たちの
先祖が歩んだ出エジプトの出来事を思い起こし、その場面を振り返るの
です。そしてハット気づいたように言うのです。「あなたの道は海の中
にあり、あなたの小道は大水の中にありました。それで、あなたの足跡
を見た者はありません。」(19節)

 苦しみに遭遇していながら、その苦しみの激しさは決して忘れること
が出来ないにもかかわらず、そこから救い出された道筋はすでに海の中
の消されてしまって跡形もないのです。そして詩篇の作者は、出エジプ
トを思い出しながら、自分の苦しみも同じように激しい水のわななき、
雷雲を聞きながら、気がついたらすでに通過していることに気づいたよ
うです。その道筋は海の中にかき消されているのです。この振り返って
出て来た詩篇の作者の一言、それは慰めです。

 そんな思いを次に伺った山形の村山のご夫妻と一日の終わりのディ
ボーションで分かち合うことになりました。苦しみにゆえにその傷跡は
いまでも残っています。その時のことを思い出すだけで心は痛みます。
それでもどのようにその苦しみを通過し、救い出されたのか、その道筋
は分からないのです。すでに海に覆われてしまったのです。神の足跡は
見えないのです。それでいいのです。そんな心境をこのご夫妻と分かち
合いました。

 いま秋田に来ています。その途中とはならないのですが、一度東京に
出て、友人宅で交わりと宿泊をいただきました。心の深く、井戸の底に
下りていくような語り合いをいただきました。そのなかで作家高橋たか
子の『霊的な出発』を紹介してくださいました。十字架の聖ヨハネのこ
とを記しているくだりで、この詩篇77篇の同じ箇所が引用されていま
した。それでその十字架の聖ヨハネの『暗夜』をお借りして確認するこ
とが出来ました。神の取り扱いの不思議さ、知解不可能性を語っていま
す。神の取り扱いは霊的なことで、余りにも深いことなので、その足跡
を見ることはできないのです。

 神は「ご自身を隠す神」(イザヤ45:15)です。イエスは「隠れ
たところにおられる父」(マタイ6:6)に祈り、語りかけています。
隠れていても、それでも神は私たちに語りかけ、働かれています。そし
て同時にその足跡も見えないようにしているのです。やっと通過した苦
しみを振り返っても、その足跡を見せないのです。すでに神は前に進ん
でいるのです。そんな神の取り扱いに慰めをいただいています。

 上沼昌雄記

「コスモス」2008年9月16日(火)

ウイークリー瞑想
 先週の金曜日に成田に着きました。夏の続きの暑さでした。最初の奉 
仕の関わりで、埼玉の児玉にお住まいのウイクリフ宣教師の松村先生の
お宅に伺いました。先生ご夫妻が昔からの知り合いのように迎えてくれ
ました。共通の友人が秋田大学医学部の石川教授夫妻です。それで形式
とか遠慮という垣根が取り外されています。真実にお話ができます。土
曜日に先生が近くの温泉に連れて行ってくれました。初めて岩盤湯を経
験しました。

 礼拝は片柳福音自由教会でした。牧師の滝田先生とはKGKの主
事のOB同士です。このイースターに献堂された新会堂での礼拝で
した。地域に根ざした伝道、活動をされています。福音自由教会の関東
西地区のリトリートのために軽井沢の恵みシャレーに向かう車のなか
で、お働きの困難さと恵みを語って下さいました。出たばかりの『闇を
住処とする私、やみを隠れ家とする神』をすでに読んでいてくださいま
した。

 碓氷峠を越えて軽井沢に入るとさすが窓から入ってくる風がとても気
持ちよいです。連休の半ばで混雑しているところもありました。それで
も秋がしっかり軽井沢を覆っています。時が動いています。すでに畑の
外れにコスモスが咲いています。夏の暑さと切り離されて、新しいとき
の動きが展開しています。その動いている時のなかに迎えられました。

 「苦しみには意味がある!?」がリトリートのテーマでした。意味が
あると断言しても、また明確に説明して、苦しみに遭遇したときには、
そんな断言も説明も吹っ飛んでしまいます。それが苦しみです。ただ叫
びと嘆きとうめきしか出て来ません。それでいいのです。そんな思いを
持って2回語らせていただきました。テーマをくださった松村先生を4
9パーセント憎み、51パーセント感謝しています。

 宣教師であった妻の両親が軽井沢に多少関わっていたこともあって、
その関わりの用事があったので軽井沢でもう一晩泊まっています。その
両親の昔からの知り合いの茂木さん宅に泊めていただいています。用事
を終えて戻ってきて、薄暗くなったあぜ道に散歩に出ました。軽井沢に
入ってところどころで目にしたコスモスに挨拶に行きたくなりました。
待っていましたと言わんばかりにあちこちにしっかりと咲いていました。

 コスモスが長く咲き続ける秘訣のようなものを、花の好きなある牧師
の奥様から伺ったことを覚えています。ただその理由を思い出せない多
少のもどかしさを覚えながら、コスモスの脇にしばらく立ち止まりまし
た。夏の続きではなく、すでに動いていている時のなかでの奉仕に迎入
れられていることが分かりました。

 日本の秋の奉仕では、コスモスを見られるのをいつも楽しみにしてい
ます。道端で誰にも振り返られなくても、時が来れば、ふんわりと優し
く天に向いて咲いているコスモスの花に親近感を覚えます。この夏、家
の庭でようやく一輪の黄色いバラが咲き出しました。そんな優雅さや存
在感はなくても、コスモスはその名前のように宇宙に向いて優しく咲い
ています。ただ黙って道端に咲いているコスモスに思いが向いていく自
分の心に、不思議に思いが向いていきます。

 「天は神の栄光を語り告げ」と歌い出しているダビデが、最後に「私
の口のことばと、私の思いとが、御前に、受け入れられますように」と
詩篇19篇で締めくくっているこころに納得しています。

 この6月の初めに、立川福音自由教会の礼拝後の集会で、もしキリス
トが自分を花で呼ぶとするとどんな花で呼ぶでしょうかと、自己紹介と
してしました。私はいつもコスモスですが、その時はもうコスモスを卒
業してバラにしますと言いました。そうしましたら隣に座っていた辻岡
先生の奥様が、「私は先生が卒業したコスモスです」と言われました。
前言を取り消さなくてならないのかも知れません。

 上沼昌雄記

追記

主にある友へ、

 昨晩共和党の党大会をテレビで観ました。副大統領候補に指名された
ペイリン・アラスカ州知事の演説でした。5人の子どもさんの母親で
す。一番小さい子はこの4月に生まれたダウン症の男の子です。妊娠し
ている17歳の長女がボーイフレンドと一緒に演説を聴いていました。
19歳の長男は陸軍の兵士として来週イラクに派兵されます。中絶反対
の保守的な姿勢を保っています。マケイン氏が彼女を副大統領候補に選
んだのは大変な驚きでした。同時にメデアと国民の目が注がれています。

 家族の紹介から始まって、ご自分の政治家としての経歴を語りなが
ら、メデアと反対派から受けている批判を一つ一つ短く反論しながら、
会衆と聴衆の心をしっかり捉えていきました。政治的には保守的な立場
ですが、地に着いた経験から、しかもとてもチャーミングな仕草も含め
ながら、いまの物価高、国際的な状況のなかで誰もが感じている不安に
共鳴と共感をもたらしていました。すでに長い選挙戦で多くの演説を政
治歴豊かな人から聞いてきていながら、感じ取れなかったものをペイリ
ン女史は伝えていました。

 先週は民主党のオバマ氏の大統領候補受諾の演説を聴きました。何か
言葉が動いているだけの感じを拭えませんでした。彼の本当の心がどこ
になるのか感じ取れません。よく洗練された話なのですが、本当の心が
分からないのです。このアメリカでときどき同じような感じの説教を聞
くことがあります。言われている内容はもっともなのですが、言葉が上
を通り越していってしまうのです。

 個人的にはオバマ氏の民主党の理念に同調するのですが、今回の大統
領選挙はそのような理念を超えて、次の指導者が国民の心をしっかり捉
えているかどうかに関わってきそうです。ペイリン女史は政治的には保
守派ですが、国民の心を捉えている点では新鮮な展開です。ペイリン女
史はメデアの心も捉えていかなければなりません。そのメデアの一環で
次女の泉が両方の党大会で生の空気を吸っています。

 日本でも新しい首相が登場します。この秋は時の動きをしっかり感じ
取っていかなければなりません。決して後戻りをしない時の動き、それ
でいてどこに行くのかを示していない時の動き、そもそも考え出したら
分からなくなる時の動き、それでも止まることのない時の動き。そのな
かでの神のことば。

 主にありて。上沼昌雄 2009.9.4

「時が動く」2008年9月1日(月)

ウイークリー瞑想
 明らかのように、当然のように、待っていましたとばかりに8月が終 
わり、9月になりました。待っていましたとばかりに、今朝はT
シャツとショートパンツでは肌寒くなるほど気温が下がっています。当
然のように、福田首相が退陣していきます。明らかのように、ハリケー
ンが南部の諸州に上陸しています。

 6月の半ばに、妻と一緒の日本の旅と奉仕を終えて家に戻ってきまし
た。子鹿を従えた鹿の親子が、あたかもわが家のように留まっていまし
た。親鹿がその長い足を折って地面に休息している間、子鹿が家の回り
を飛び回っています。初めて見る光景です。家族でどこかに行ってまた
戻ってきます。子鹿が少しずつ大きくなっています。

 枯れかけたバラを陽の当たるところに移し替えて、欠かさないで水を
あげてきました。何の変化もない日が続きました。そしてほんのわずか
枝の先に変化が出て来ました。あっという間に新しい芽が、ようやく緑
を取り戻してきた枝の先々に出て来ました。別のバラの木から初めて黄
色い花が咲きました。いつも咲き出す頃に鹿に食べられてしまうことを
何度か経験して、今回は網をかけて守りました。

 初孫誕生のニュースを二人の方からいただきました。また、夏休みで
孫を連れて子供たちが帰省し、わが家は民宿のようですと、メールとお
孫さんと一緒の写真をいただきました。うれしそうで、うれしいことで
す。旧約の系図を生きることになります。妻はダラスとシカゴにいる二
人の孫に会いに行きました。それが当たり前のように、そうすることが
務めのように、もちろん喜んで出かけていきました。

 いつもより早い日本での奉仕が間もなく始まります。それに合わせて
新しい本『闇を住処とする私、やみを隠れ家とする神』がでます。出版
の準備と日本行きの準備をしてきました。いつもですと間の抜けた夏の
時間があるのですが、今回は時の流れに合わせ、時に追われるように、
時を見つめつつ夏を過ごしました。間の抜けた空白の時間がなく、一連
の時の動きのなかに置かれている感じで夏を過ごしてきました。

 時間の問題は、しかし、哲学者を悩まします。永遠の真理を求めて探
求をしています。これがそれだと提示しても、時の流れのなかで通用し
なくなります。捉えきれない新しい課題が出て来ます。そんな「永遠の
真理」を打ち破るような出来事が時のなかで起こってきます。それでは
それですべてが崩壊してしまうと言うのかというと、そうではなく、ど
こかで不思議にそれでも秩序が保たれていきます。差異と反復があるの
です。

 大統領選挙ではいつも変化・変革が言われます。それでもどのような
変化かというと明確ではありません。「変化・変革」のレトリックに民
衆が惑わされます。日本でも新しい総裁選挙に直面します。国民は確か
に変化を感じています。言葉にも行動にも出せないのですが変化を捉え
ています。時代の指導者は、時の流れのなかの差異と反復を捉えていく
大きな課題を負わされています。

 聖書を語る説教者にも同じ責任があります。これが聖書を理解する最
高の手立てだと教えられても、それでは通用しなくなるときがありま
す。その教えに従っても、どこかでそれだけでは捉えきれない課題を抱
えます。どうしてなのかは分かりません。どこかで差異が生じてきま
す。そんな時の動きを無視して行くこともできます。そんな時の動きに
耳を傾けるのは邪道であると言って、自分たちの教派の理解に閉じこも
ることもできます。

 聖書は変わることのない神のことばです。しかし、聖書を捉える私た
ちの理解の枠組みはいつも変わります。その枠組みは時代の産物なので
す。聖書は神のものですが、神学は人間の産物です。神は変わることが
ないのですが、人間の世界は流動していきます。この違いのゆえに、時
の動きに注目するのです。

 聖書は予測不可能な時の動きを語っています。「目が見たことのない
もの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだこと
のないもの。」(1コリント2:9)繰り返しである日本への旅です
が、時がどのように動いているのか少しでも感じ取りたいと願います。

 上沼昌雄記